家に棲むもの

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 膠着状態に陥ってしまった。

 妖鬼は俺を殺せない。その上、俺を当主にしたいとか。そんな寝言を言っている時点で、俺に危険が及ぶことはなくなったと言っていい。俺はこの屋敷から逃げるだけで「勝ち」なのだ。

 だけど俺は辰伶だけをこの屋敷に残して逃げる気になれなかった。辰伶は無明歳刑流の呪縛で屋敷から出られない。全く、誰にとってもどうしようもない状態だ。

 それは突然破られた。本当に突然だったけど、本心として、俺はこれを少し期待していた。

「おーい、奥屋敷の井戸の底でこんなもん見つけたぞー」

 ゆんゆんが甕を小脇に抱えて現れた。甕にはいわくありげにお札で封印がされていた。辰伶が答えた。

「それは無明歳刑流本家の呪いの元だ。この家を繁栄させる為に、最初に呪術で縛った魔物だ」
「て、ことは、こいつがこの妖鬼の核になってるってことだな」

 そう言うや、ゆんゆんは甕を床に叩きつけた。甕は粉々に砕け散った。

「なんてことを!」

 そう叫んだのは辰伶だったのか、それとも無明歳刑流本家長子の怨嗟たちだったのか。妖鬼の体が飛散して消えた。核を失ったことによって、女の姿をしていた妖鬼は、怨嗟の集合体としての形を保てなくなった(と、後でゆんゆんに教えられた)。女でも子供でもなく、形のない瘴気がそこにあった。

「縛って閉じ込めておくから恨みが溜まるのさ。解放してやれば、妖鬼も散って薄れていつか消えるだろ」

 なんて、ゆんゆんは気楽に言うけど。

「そうかもしれんが、妖鬼が自然消滅するまでどれだけかかると思う」

 辰伶の声が怖い。これは凄く怒ってるな。

「知らね」
「知らないだと」

 ゆんゆんの返答に辰伶は目を剥いた。そりゃあ、怒るよね。

「何十年も溜めこんだ呪いだもんな。簡単には消えねえだろ」
「こんなもの、世間に放たれたらどれだけの被害が出ると思ってるんだ」
「これが通った界隈は瘴気の影響で凶悪な事件とか悲惨な事故とか災害が多発するだろうな」
「それが解っていて……何の為に俺が苦労していたと思っているんだ」

 ゆんゆん、たまに酷いことするよね。

「だから、てめえの命でこれを異界に封印しようと思っていたんだろ。俺は何でも御見通しなんだぜ」

 それが、辰伶が言っていた無明歳刑流の一族の最後の生き残りとしての義務か。辰伶は自分1人を犠牲にして全てを終わらせるつもりだったんだ。

「それの何が悪い」

 悪いに決まってる。俺は辰伶をこの家の呪縛から解放してやるんだから。

「悪かねーけど?でもさ、実際は出来てねーじゃねーか。妖鬼が強すぎて?てめえの力で封印できなくて?同化されちまって?ダセエよなー」

 ゆんゆんが辰伶を指さして、これでもかとバカにして笑ってる。ゆんゆん、酷い人だなあ。まあ、俺も同感だけど。

「ムリムリ。てめえの力じゃこいつの封印なんてできねえんだよ。諦めろ」
「しかし、そのせいで被害にあってしまう人はどうしたらいいんだ」
「他人のこと気にしてる場合じゃねえぞ。呪術は破られたら術師に返る。だが、術をかけた本人である無明歳刑流本家のご先祖サマはもういねえ。この場合は血縁の子孫、つまり、お前に返ってくるわけだ。何十年も縛られ続けて妖鬼にまでなった恨みが、まず真っ先にお前を狙ってくるってこった」

 辰伶、大変だなあという思いが口から洩れた。それを拾ったゆんゆんが俺にも言った。

「そういや、お前も血縁の子孫だよな。辰伶と同条件だから、まあ、2人で頑張れや」

 あれ、そういうことになるか。辰伶が叫んだ。

「熒惑、逃げろ。俺との同化も解けたから、あれを縛る約定は無くなった。もうお前を殺せる」

 言われたそばから、いきなり俺の額を何かが掠めた。その箇所を撫でた掌に血がついていた。何かに切られたみたいだ。形のない瘴気は、形のないままエネルギーの塊としてそこにあって、俺の額を切った。痛みはあまり無い。傷はそれほど深くなかったけど、その割に派手に流血した。

「熒惑!」
「大丈夫。見た目ほど酷くない」

 辰伶も怪我をしていた。それでも辰伶は俺を心配して声をかけてくれたのに、知らん顔のゆんゆんがムカつく。

「じゃあ、そういうことで」
「どこ行くの?」

 涼しい顔して部屋から出て行こうとするゆんゆんの襟首を捕まえた。

「隣の部屋に結界張っておいたから避難する」
「ゆんゆんの結界なんて無意味だって、妖鬼が言ってたよ。この部屋だって入られちゃったじゃない」
「ここはそうだけどな。隣の部屋には本気の結界張ったから、中に入ってこの御札を戸に貼れば、強力な魔物も悪霊も入ってこれねえよ」
「ふうん、便利だね」

 俺はゆんゆんの手から御札を毟り取って、ゆんゆんを瘴気の方へ蹴り飛ばした。急いで辰伶を抱えて隣の部屋に飛び込んで御札を貼った。

「てめえ、このヤロー!」
「しばらくよろしく」

 隣の部屋で物凄い音と声がしてるけど、ゆんゆんなら大丈夫だろう。

「辰伶」

 慌ただしい出来事に、辰伶は状況が把握できていないようだ。ポカンとしている。

「辰伶は本当にあれを異界に封印するつもりなの?自分の命を使って」
「…そうだ」

 ハッと気づいた辰伶は、結界から出て行こうとした。それを強引に止める。

「出来るの?ゆんゆんは無理だって言ってたけど」
「甕を割ったことで封印が解かれたが、その代わりに妖鬼と同化して力になっていた本家長子の怨嗟も核を失って飛散した。この状態なら、やれると思う」
「…どこに封印するの?庭の池?」
「そうだ。よく解ったな」
「あんな大きな異界だからね」

 俺は額から流れる血を指で拭って、辰伶の顔に塗りつけた。

「何を…」
「血化粧だよ。俺の力を貸してあげる」

 辰伶の着物を襟を割って肩を脱がせた。顔だけでなく全身に血の化粧を施す。くすぐったいのか、辰伶がピクリと身じろぎした。白い肌がほんのり上気してて、俺は何だかイケナイことをしてる気分になる。

「焔のような、花のような、不思議な模様だな。こんなものは初めて見る」
「焔血化粧という術だよ。俺も自分以外の人に描くのは初めて」

 辰伶の背後にまわった。背中に描く為に、髪を上げさせる。うん、うなじが壮絶に色っぽい。

「熒惑、まさかと思うが……今、描いたのは『へのへのもへじ』ではないか?」
「あ、ばれた?」
「ふざけるな!」

 あー、ふざけてないとおかしな気分になりそうなんだよね。辰伶の肌はきめ細かくて手触りが気持ちいいなあ。

「俺の力を貸すんだから、命まで使わなくても何とかなるよね」
「……」
「できないなら、俺が力を貸す意味が無い。今からでも血化粧を消す」
「解った。何とかする」
「終わり。もういいよ」

 辰伶の身体に焔の花を描き終えた。辰伶は崩れた着物を着直した。

「行こう、一緒に」

 手を差し伸べる。

「ああ、行こう」

 辰伶が俺の手を取った。約束したね。さあ、一緒に行こう。

 手を握ったまま、俺たちは部屋から縁側へ飛び出して、庭池に向かって走った。俺が辰伶の手を放さなかったのは、こうしなければ、きっと辰伶は安全な結界の中へ俺を置いて行っただろうから。

 結界から出た途端に妖鬼が俺たちを追ってくる気配がした。池は庭の奥で少し距離がある。池に辿り着くのと殆ど同時に妖鬼に追いつかれた。

 辰伶が池に何かを投げ入れた。妖鬼はそれを追うようにして池に飛び込んだ。池は激しく水柱を上げた。

「何を入れたの?」
「あれを封印していた甕の欠片だ。欠片だが、あれを封印していた術の名残がまだあるから。だが、あれだけではだめだ」

 辰伶は俺の手を強引に振り解いて、水柱を噴き上げ続ける池に入って行った。俺もそれに続く。だって、一緒に行くって約束した。

「熒惑、動くな」

 やられた。池に入る手前で、辰伶の言葉に縛られて体が動かない。やっぱりお前って、そういう奴だよ。

 辰伶は水柱に向かって池の中を進んでいく。膝ぐらいだった深さが、辰伶が進むにつれて腰が沈み、胸が沈み……。この池はそんな深くないはずだ。そこは異界なんだ。辰伶は自分ごと妖鬼を異界に封じ込める気なんだ。

「辰伶!」

 振り向きもしない。嘘つき。命を使わないって、何とかするって言ったくせに。

 バシンと音が鳴るほど、強く背中を叩かれた。その途端、金縛りが解けた。何事かと振り返ると、ゆんゆんがいた。何か複雑な字のような絵のようなものが書かれた紙を渡された。

「こいつを辰伶に」

 何の為かは聞かない。聞く必要はない。俺はその紙を握りしめて池に飛び入った。冷たい。夏なのに、池の水は異常に冷たかった。凍えて体の動きが鈍くなっていく。体力とか精神力とか、俺を動かす力がどんどん吸われていく感覚がしている。

 辰伶の背中を追いながら、俺自身にも血化粧をする。水に奪われていた体熱が少しずつ戻って来る。大丈夫だ、まだ動ける。

「辰伶!」

 辰伶が振り返った。俺の姿を見て驚きの表情を浮かべた。

「来るな。池から出ろ」

 だめだよ。もうお前の命令は聞かない。

「一緒に行くって、言ったよね」
「お前まで来ることはない。来ないでくれ。頼むから…」

 辰伶の『お願い』でも聞けない。お前は嘘つきだから。

 辰伶が俺を気にかけて振り返っているうちに、辰伶に追いついた。ゆんゆんから渡された紙を辰伶の懐に捻じ込む。やり遂げた俺はゆんゆんを返り見た。

「辰伶、そいつに『名』を付けろ。『形』を与えてやれ」

 ゆんゆんが何をさせようとしているのか、俺には解らなかったけど、辰伶には通じたようだ。辰伶が何か呟くと、水柱がいっそう激しく高く上がった。

「う…わ……」

 それを見上げて、思わず声が出た。竜だ。水でできた透明な竜が空中に浮かんでいる。ゆんゆんが辰伶に尋ねた。

「何て名付けたんだ」
「水龍だ」
「そのまんまだな。世話役もそのまんまだったし、安直過ぎるだろ」

 妖鬼は辰伶に竜の姿形と『水龍』の名を与えられて、辰伶のゴボウになったのだと、後でゆんゆんが説明してくれた。要するに辰伶が術で縛って下僕にしたということだと思うけど、それって、結局、甕に封じて縛りつけていた呪術と同じじゃないの?無明歳刑流の呪縛と何が違うのか、よく解らないなあ。

 とにかく、何とかなったみたいだ。良かった良かった。と、俺が思っていたところに辰伶が言った。

「後は、屋敷中に散らばった本家長子の霊を何とかしないと」

 そういえばそんなのがあったっけ。まだ色々と終わってなかった。でも、辰伶もゆんゆんも全く差し迫った様子はなかったから、後は何とかなる目算があるのだろう。まあ、ヤバかったものは何とかなったんだ。良かった良かった。


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