家に棲むもの
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俺には名前が2つある。「ほたる」が俺の社会的な名前。戸籍にもそう書いてあるし、俺の生活の全てがこの名前の下にある。保険証だって、学生証だって、レンタル会員証だって、この名前だ。
もう1つの名前は「ケイコク」。この名前は俺が母親の腹の中にいる時に、俺が生まれる予定だった家の人によって付けられたそうだ。漢字表記もあるけれど、これは特別な名前なので、特別な時にしかその字で書いてはいけないと母さんからきつく言われている。
母さんは、俺が生まれる前にその家を飛び出して、自分の実家で俺を産んで別の名前を付けて役所に届けた。だから、俺の名前は「ほたる」が正しい。でも、「ケイコク」も俺の名前であり、むやみに他人に教えてはいけないし、書いてもいけないということだ。
『でも、ほたるが困った時には、この名前を…』
そう言って、母さんは「ケイコク」の名を使ったいくつかおまじないを俺に教えてくれた。母さんは、霊感というのだろうか、そういう力が強いらしくて、俺はその力を強く受けついでいるらしい。霊感が強いと「悪いもの」を呼び寄せるそうだから、それにちゃんと対処できるようになれと、口うるさく言われて育った。
母さんの言うことは理解できたけど、どうしても俺はそれに対する恐れよりも好奇心の方が強かった。お陰でなんども危険な目にあって、一歩間違ったら死んでたことさえあったけど、俺は懲りるということがなく、母さんに心配をかけ続けた。
それで紹介されたのが、ゆんゆんだった。俺の師匠にって、母さんがわざわざ連れてきただけあって、ゆんゆんは霊感が強い。ゆんゆん以上の人なんて、俺はこれまで見たことが無い。
でも、俺のお目付け役というなら、完全に母さんの見込み違いだった。ゆんゆんは俺よりずっと年上だけど、冒険好きで行動が幼稚な面がある。そこが俺の呼吸とピッタリ合ってしまって、以来10年以上、2人して無茶や無謀をしまくっている。
俺が20歳の誕生日を迎えた夏の日だった。通っている大学も夏休みで暇を持て余していた。アルバイトなんかもしていたんだけど、この不況でついに先日断られてしまった。次を探そうと思ったけど、夏休み期間も残り日数を考えると中途半端だったので、後期講座が始まるまで自由を満喫してしまうことに決めた。そんな折だった、ゆんゆんから近くのファストフード店に呼び出された。
「おまえ。無明歳刑流本家に呼ばれたんだって?」
ゆんゆんは妙に機嫌良かった。店内を流れるBGMに合わせて鼻歌を歌っちゃうくらい。こういう時は碌な話を持って来ない。でも、その碌でもない話が刺激的な冒険の入り口であることを知っているから、ワクワクして聴いてしまう。でも、今日の話題は俺にとっては鬼門だ。
「うん。相続が何とかって…」
「相続って、誰か亡くなったのか?」
「俺の親父が死んだんだってさ」
「つうことは、てめえは無明歳刑流本家の御曹司かよ」
「関係ないよ。俺が生まれる前に母さんはあの家を出たんだから。御曹司なんて御身分じゃないよ。そもそも、あそこには俺の異母兄が、正統な跡取りがいるから、俺が出る幕ないよ」
その異母兄と俺の年齢差は1年も無い。半年しか違わないのだから、どう計算しても不倫の関係だ。同じような時期に2人の女性を妊娠させて、その2人を同じ家に同居させて出産させるなんて異常だ。思うに碌な家ではない。そりゃあ、母さんも飛び出すだろう。
「異母兄弟ってことは、お前にも幾らか取り分があるってことじゃねえの。法律的に」
「どうかなあ。俺、親父に認知されてないし」
「わざわざ呼ぶってことは、遺言状でもあるのかもな。一応は血を分けた親子なんだからさ、何か形見分けとか」
「顔も知らない人の形見分けなんか貰っても扱いに困るっていうか、変に念が籠ってたら厄介だし気持ち悪い。断ってもいいよね」
「それはお前の自由だと思うぜ。けどよ、断るにしても一度は直接行って、親父さんの位牌を拝んで来いよ」
ゆんゆんは大家族で、家族仲がいいから、家族の絆を大事にしている。だからそんなことを言うのだろう。権利放棄するにしても一度は直接出向けとは、入院中の母さんにも言われた。そう言われると、俺も強くは出られない。母さんの入院にかかっている費用やあれこれを、無明歳刑流本家が全面的に負担してくれているという事情もある。
母さんは時折、意識が昏睡する。原因は不明。予兆も無しに突然だ。でも、それ以外は全くの健康体。こんな状態なのに、病院が自宅療養を言い出さないのも、無明歳刑流本家サマの御威光が働いているのかもしれない。
あの時も、無明歳刑流本家から呼び出しがあったことだけ話して、母さんはいきなり昏睡した。だから詳しいことは何も解らない。母さんが無明歳刑流本家とやりとりしたメモから、3日後に迎えが来ることだけが解ってる。
何だか、そうするように準備されていくというか、そう、外堀を埋められていくような厭な肌感覚が付きまとう。
「そういえば、俺が無明歳刑流本家から呼ばれてるって、どうして知ったの?」
「お前のお袋さんに頼まれたんだよ。お前と一緒に行ってくれって」
「何で?」
「そりゃあ、相手はあの無明歳刑流本家だろ。『バケモノ屋敷』で有名な」
「そうなの?」
「敷地がバカでかくて外からはよく見えねえけど、あそこはマジでヤベエ感じがする。何かあるぜ」
母さんがゆんゆんに俺のサポートを頼むくらい危険な場所ということか。ちょっと面白そうだなんて思ってしまった。ゆんゆんに感化されてるなあ。
「ゆんゆんが行きたいなら、連れてってあげてもいいよ」
「何度も言うが、俺の名前は遊庵だ。変な仇名つけるな」
相続云々はウザイけど、バケモノ屋敷は面白そうだ。そんな所に平気で住んでる異母兄にも少し興味が湧いた。
3日後までに、俺たちは無明歳刑流本家について、調べられる限り調べた。顔が広いゆんゆんは知り合いに聞きこんで回ったけど、余り収穫は無かったそうだ。
「それなのに、何でそんなに楽しそうなの?」
ゆんゆんはニヤリと笑った。
「だって、あの無明歳刑流本家だろ。明治期の和洋折衷建築。前から一度見学させてもらいてえと思ってたんだ」
そういえばゆんゆんの一族は土建関係で、ゆんゆんも大学は建築学を修めてて、建物の設計とかする人だった。そっち方面の人には知られた建築物なのだろう。
でも、俺には解る。ゆんゆんは本当は築百年超の古屋敷の学術的な価値より、巷で囁かれている陰気な『バケモノ屋敷』の噂に興味があるのだ。
無明歳刑流と言えば、この街では知らない人はいないのではないかという古くからの名家だけど、それがどれくらい凄い家なのか説明できる人はいなかった。莫大な資産を持ち、その分家もとんでもない資産家ばかり。それなのに、その富の源がまるで解らない。有名なのに正体不明という、怪しさしか感じられない家だ。
冠婚葬祭などの近所付き合いが無いので、何人家族かも解らない。子供が学校に通っていた様子もない。親戚が頻繁に出入りしているようだが、彼らが何処の誰かは誰も知らない。以上が、ゆんゆんが集めてきた噂だ。
俺が過去に母さんから聞いた話だと、ここの家は、代々霊能力の高い女の人を捜して当主の嫁に選ぶ習わしだそうだ。高い霊能力を持つ子供が生まれるように。
俺の異母兄は辰伶という名前だ。親父が死んだということは、いまはこの辰伶という奴が当主ということだろう。ゆんゆんが拾ってきた噂では、屋敷から出てきたところを見たことがないとか。ふうん、学校とか行ってないのか。
不意に母さんの言葉が脳裏に再生された。
『彼女には借りがあるのよ。返しきれないくらい大きな借りがね』
『彼女と私の関係? そうねえ……共犯者かしら』
以前に母さんは、辰伶の母親についてそんなことを言ったことがある。それを言った時の母さんがどんな表情をしていたのか思い出せないけど。
辰伶だけでなく、ここの当主は先代も先々代も、屋敷から姿を見せたことがないらしい。引き籠りの家系なのかな。
辰伶の母親も昔に死んでいる。詳しいことは、母さんが余り話したくなさそうだったから聞いていない。
無明歳刑流の分家には六分家と呼ばれる家がある。この6家は本家と特別な繋がりがあり、抜きん出て富み栄えたが、そう遠くなく断絶して消えてしまうはずだと、母さんは何故かはっきり断言していた。
そして、俺とゆんゆんの共通認識では、無明歳刑流本家はバケモノ屋敷だ。
「形見分けとか言って、何か曰くつきの物を押し付けられたらやだなあ」
「それも面白いじゃねえか。なあ、大金が手に入ったら寿司食おうぜ。鰻もいいな」
「ゆんゆんの、そういうポジティブなとこ、イイよね」
「久々の本物のバケモノ屋敷だからな。期待が止まらねえ」
つくづく、ゆんゆんって大きいなあ。
大して実のある情報は得られなかったけど、下調べをしている内に俺たちは妙に盛り上がって、無明歳刑流本家へ乗り込むことになった。