+・+ リクエスト +・+
或る猫の風景
-5-
幾重にも重なるように立ち並ぶ大樹の陰から湧き出るように姿を現したのは、火曜の戦闘部隊だった。既に刀を抜いて戦闘態勢をとっている。どこかでそれを予想していた辰伶は驚きはしなかったが、舌打ちをした。忌々しい予感が的中したところで、嬉しいはずもない。
「貴様ら、この辰伶を前にして刀を抜くことの意味が判っているのだろうな」
辰伶の言葉に対して火曜の戦闘員たちは畏れ入るでも嘲笑するでもない。各々の瞳は個性や感情の光を欠き、一律に虚ろだ。彼らは一斉に辰伶の四方八方から襲い掛かった。
「…哀れな。運が無かったな…」
辰伶は愛刀の舞曲水を閃かせた。舞曲水は双剣であり、本来なら両手で2本を操るのだが、今日は左腕に猫を抱えているので、右腕一本のみで敵を相手取った。
五曜の実戦部隊の戦闘員たちの能力は並みではない。しかしそれを指揮する五曜星の力はそんなレベルなど問題にもならない。全力で戦えない不利な状況にも係わらず、しなやかで華麗な舞のような辰伶の剣技の下に、火曜の戦闘員たちは血飛沫を上げた。
「操られているだけで、お前達に意志が無いことは判っているが、今は危険を冒すことは許されん。…恨んでくれて構わん」
また1人、辰伶に襲いかかる。辰伶は感情を殺した瞳で冷酷に斬り捨てた。
「辰伶…」
「……」
ほたるの呼びかけに、辰伶は無言で頷いた。表情が険しくなる。辰伶とほたるの視線の先で、一度は地に倒れた戦闘員たちが緩慢に起き上がって来る。
「再生力が異常だ」
「改造された?」
「恐らくな」
辰伶の瞳に一瞬だけ悲痛な光が走り抜けたのを、ほたるは至近で目撃した。戦闘の道具にされた火曜の戦闘員たちに、辰伶は心を痛めているらしい。辰伶がほたるを抱えた状態でなければ、辰伶は彼らを滅さずに救う方法を考えたかもしれない。しかし辰伶は今、ほたるの身命を預かっているのだから「危険を冒すことは許されない」のだろう。
辰伶の瞳から波立つ感情が消え、凍てついた冬の星のように鋭利な光を放った。こんな時の辰伶はどこまでも冷徹に己の決意を貫き通す。例え心が血を流していようとも。ほたるは思い出した。自分が螢惑だった頃、そんな辰伶が嫌いだった。そんな辰伶を見ると訳も無く胸に痛みが走って、それが厭で堪らなかった。
「だったら…ちまちまやってても、しょうがないんじゃない?」
「ああ。一気に片をつける」
ほたるは辰伶の肩の上に移動した。辰伶は舞曲水を両手に構えた。
「水魔爆龍旋!」
無数の水龍たちが乱舞し、火曜の戦闘員たちを竜巻が飲み込んだ。無明歳刑流の奥義の前に、火曜の戦闘員たちは再生する間も無く消し飛んだ。
大技を繰り出した辰伶は一息ついた。その瞬間にほたるが叫んだ。
「辰伶、後ろ!」
その声に反応して、辰伶は身を屈めた。後ろを振り返らなかったのは本能だ。ギリギリのところを殺気が掠め、辰伶の目の前の樹海が炎に包まれた。振り返るのと同時に剣を閃かせた。辰伶の背中を襲った炎の塊を、水龍で打ち破った。その反動でほたるは辰伶の肩の上から足を滑らせた。咄嗟に辰伶の後ろ髪を縛っている結い紐に爪を掛けるが解けてしまう。空中に放りだされたほたるを辰伶の左手が掴んで胸に抱きこんだ。
「この炎……鶏告か」
正面だけでなく、四方をぐるりと炎の壁に取り囲まれた。
「しばらくここに入っていろ」
「うん」
辰伶は胸元を少し寛げて、ほたるを懐の中へと導いた。
「痛っ」
「爪引っ掛けちゃった。あ、痕ついてる」
「…っ。舐めるな。くすぐったいぞ」
ほたるは辰伶の服の中をモゾモゾと移動し、胸元から顔を覗かせた。辰伶は服の上からほたるの体を抱き込んで安定させた。
「苦しくないか?」
「平気だけど…狭いなあ」
「それくらいは我慢しろ」
「潰さないでね」
これでほたるが地面に落ちる心配は無くなった。辰伶は正面の炎の壁を見据えて言った。
「鶏告、姿を現せ」
返答は無い。代わって炎が辰伶を襲った。水龍で応戦したが、辰伶の鋭い感性は異常を感じ取った。
「…おかしい。水龍の動きが鈍い」
炎の壁はジリジリと狭まり、辰伶とほたるに迫ってくる。
「水破七封龍!」
水の龍は炎の壁を突き抜けることは叶わず、逆に飲み込まれた。炎の勢いが増す。
「そうか……そういうことか」
「どうしたの?」
辰伶の呟きを耳に拾って、ほたるは訊ねた。
「この場には金気を封じる呪(しゅ)が施されている」
万物を形成する五材の気、即ち木・火・土・金・水の気の巡りを「五行」という。五行は相生と相剋の関係で成り立っている。
木気は火気を生じ、火気は土気を生じ、土気は金気を生じ、金気は水気を生じ、水気は木気を生じ、そして木気は火気を生じて、これらは無限に循環する。これを相生の関係という。
逆に相剋は相手の気を殺ぐ作用で、木気は土気を剋し、土気は水気を剋し、水気は火気を剋し、火気は金気を剋し、金気は木気を剋し、そして木気は土気を剋する。こちらも無限に循環する。
相生をプラスの作用とするなら、相剋はマイナスの作用であり、この2つは表裏一体の関係にある。相生の中に相剋があり、相剋自体が相生でもある。この二面があって調和が保たれているというのが基本理念だ。
「金の気が封じられたということは、水の気を生じる作用が失われるということ。水気が弱まれば火気は己を剋するものが無くなり勢いを増す。勢いを増した火気は土気を増幅し、土気は金気を生じさせることなく、まして水気を剋す。水を使えば使うほど、火の力が増すということだ」
「でも……水気が弱まったら木気も弱まるってことでしょ。そしたら火気も弱まるんじゃないの?」
「いや…木気を剋す金気が封じられているから、すぐには木気は衰えない。……だが、五行は気の循環だ。水気が費えれば木気が費え、木気が費えれば火気が費え、火気が費えれば土気が費え、土気が費えれば金気が費える。調和が乱れればいずれは五気の全てが費える」
「行き着く先は共倒れってこと?」
「…問題なのは順番的に火気よりも先に水気が費えるということだ。つまり…」
「そうです。辰伶殿、貴方は私に勝てないということです」
炎の壁が割れて、その狭間から鶏告が現れた。先ほど辰伶に懇願した不様な姿とは打って変わって尊大な態度で言った。
「如何ですか。私が貴方の為に用意した舞台は」
「…確かに貴様はこういう小細工に長けていたな」
「頭脳派と呼んで頂きましょうか」
辰伶は目を眇め、白刃をかざした。
「小細工ごときで、この辰伶に勝てると思うか」
「辰伶殿こそ、そんな猫など抱えて足手まといでしょうに」
ハッとして、ほたるは辰伶を振り仰いだ。
「…辰伶」
左の腕にほたるを抱えた辰伶は、右腕1本で鶏告を迎え撃った。互角で打ち合いになる。本来なら格下である鶏告など辰伶の敵ではない。しかしほたるの存在が枷となり、辰伶はその技量を発揮できなかった。それゆえの互角だった。
そして、鶏告の特殊能力が辰伶を苦しめた。鶏告の炎を水の力で応戦するが、金気を封じられたこの場では、水気の消耗は急速だった。そもそも辰伶は鶏告との前に火曜の戦闘員たちとの戦いで強力に水の力を使っており、状況は果てしなく不利だった。
「辰伶、降ろして」
「……」
ほたるの言葉は無言で無視された。
「賭けが諦められないの?この石頭。チャンスなら、まだ…」
「螢惑のことも大事だが…」
辰伶はほたるに微笑みかけた。
「こんな戦場に、お前を放り出せるものか」
辰伶はほたるを炎から守る為に水の粒子で幕を張り巡らせた。水気は更に失われ、彼らを取り巻く炎を更に活気づかせた。辰伶の力はそれが限界で、崩れるように地に片膝をついた。
「良い様ですな。辰伶殿」
鶏告は獲物をいたぶる肉食獣のような笑みを浮かべて、辰伶を見下ろした。
「どうやらその猫が余程大事とお見受けしましたが…全く理解に難い。たかが畜生1匹…おっと、失礼。辰伶殿には大切な大切な愛玩物でしたな」
「…何が言いたい」
「私も極悪非道というわけではありませんから、辰伶殿がそこまで大切にしている猫ならば、まあ逃がしてやっても良いかと、心が動くかもしれない」
「回りくどい言い方を……何が望みだ」
余裕を誇示する為か、鶏告は大袈裟な抑揚をつけてゆっくりと言った。
「私に跪き、忠誠を誓って頂きたい」
辰伶の眼が大きく見開かれた。怒りに全身を震わせて鶏告を睨みつける。辰伶が鶏告に隷属するということは、彼が無明歳刑流本家の当主として統べる一門全部が鶏告の家門の下風に立たされるということだ。屈辱に打ち震える辰伶の顎を鶏告の手が捉えて無理に振り仰がせた。
「私は貴方のそんな顔が見たかったのですよ」
鶏告の指が隠微な動きで辰伶の輪郭を撫で上げた。その感触に総毛立った。
「ぎゃっ」
突如として鶏告が悲鳴をあげ、弾かれるようにして辰伶から手を放した。
「このっ…この畜生が…っ」
鶏告の手を、辰伶の懐に居たほたるが引っ掻いたのだ。ほたるの鋭く研ぎ澄まされた爪は容赦なく肉を抉り、鶏告の手の甲からは血が滲み出ていた。
「竜にミミズの家来になれなんてさ……つまんない冗談聞かせないでくれる?」
「な…猫が…言葉を…?」
「あっ、ほたる…」
ほたるは辰伶の懐から飛び出し、まるで体重を感じさせずに地面に降り立った。猫であるほたるが言葉を喋ったことに驚いていた鶏告だったが、すぐにほたるの爪に対する恨みを思い出した。怒りに頬の肉を震わせながら、ほたるに剣を振り下ろす。その斬撃は軽々とほたるに避けられ、刀を地面にめり込ませた。鶏告は更に頭に血を昇らせて剣を振り回したが、ほたるには掠り傷1つ負わせることができず、息が上がってしまった。
「このっ、卑しい畜生の分際でっ」
鶏告はほたるを焼き尽くそうと炎を召喚した。炎の舌が舐めずるように小さな猫の体を襲った。辰伶は咄嗟に水龍を呼んだが、水気は失せて水は龍の形を成さなかった。
「ほたるーっ」
炎がほたるを炭に変えたと、鶏告も辰伶も思った。しかしそれを阻んで、黒い炎が咆哮をあげた。黒い炎の壁が鶏告の炎を遮った。
「おまえ…ウザ過ぎ…」
黒い炎を琥珀色の双眸に映して、ほたるは怒りに燃えていた。
「な、なんだ。黒い…炎だと?」
「黒い炎…」
この世には存在しない煉獄の焔。辰伶はその技を知っていた。黒い炎を召喚し操る者。そんな人物は、辰伶は1人しか知らない。たった1人しか…いない。辰伶はその名を叫んだ。
「螢惑……螢惑ーっ!」
たった1人の、辰伶の異母弟。
「堕天使降臨!」
ほたるの召喚した黒い炎は、鶏告と鶏告の炎を焼き尽くし、樹海と空を焦がした。
+・+ リクエスト +・+