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或る猫の風景
-6-
空を覆っていた巨大な樹々たちは焼かれて真っ黒なオブジェと化し、無秩序に立ち晒されていた。まだどこかで燻っているのか、焦げ臭い匂いが辺りに立ち込めている。その狭間を辰伶は1つの名前を呼びながら彷徨っていた。
「ほたる……ほたる……」
黒く焼け焦げて倒れた木の幹の隙間を覗き、声を掛ける。しかし辰伶が捜し求める姿はそこには無い。
「ほたる…」
服も手足も煤けて黒く汚れ、擦り傷に塗れている。いつもは後ろで1つに纏められている髪も解かれ、乱れて肩に落ちている。これが名門の誉れ高き無明歳刑流の、五曜星の辰伶とは思えない惨めさだった。
「ほたるが…居ない…」
技を使いこなすには、それに見合う肉体が必要不可欠である。不釣合いな肉体で無理に技を使えば、それは己の身を滅ぼすこととなる。ましてやほたるはちっぽけな猫の体であれほどの大技を使ったのだ。恐らくは一瞬で消し飛んでしまったことだろう。骨も残っていまい。
辰伶の頭はそれを理解するのを拒否していた。ほたるがこの世から消滅してしまったことを否定したがっていた。しかし現実が否応無く辰伶に理解を強いた。呼べども呼べども、ほたるの声は返らない。
「あんなに近くに居たのに……いつも一緒に居たのに……」
棘を抜いてやると言ったのだ、ほたるは。そう言って辰伶の掌を爪で抉った。右手の親指の付け根のところ。その傷は今でも赤くそこにあるのに、ほたるが居ない。
「ずっと……ずっと一緒に居たのに……螢惑…」
心がすっかり虚ろになり、辰伶は力なく膝をついた。炭で黒く汚れた頬を、透明な雫が幾筋も線を書いた。
目を開けると、薄暗い天井があった。ひんやりと肌寒い。見慣れぬ部屋だが、見たことがあるような気がしないでもない。ここはどこだろう…
「ようやくお目覚めか。仔猫ちゃんよ」
「…ゆんゆん」
ゆっくりと身体を起こしたほたるは、まだぼんやりとした風情で、目の前でニヤニヤと笑っている漢の名を呼んだ。寝ていた石の台の端に寄り、足を投げ出して腰掛けた。ふと、ほたるは奇妙な感じがした。視点がいつもと違う。
「どうだ。久しぶりに元に戻った感想は」
「元…って…」
ほたるは己の手を見た。そして身体、足…
「…しっぽが無い」
「じゃなくてっ」
「うん。元の身体に戻ってる。良かった良かった」
ほたるのマイペースさに遊庵は脱力した。
「もうちょっとさ……こう…感動とか感激とかあっても、バチは当たんねえと思うんだが。せっかく俺が元に戻してやったのに……」
「あ、そうか。辰伶が俺のこと『螢惑』って呼んでたからね。賭けは俺の勝ちだね」
ふふんと、得意げにふんぞり返る弟子に、遊庵は苦笑いと溜息をついた。
「猫だろうと何だろうと、てめえのこういうところは変わらねえのな」
「だって、俺だし」
「…ま、いいけどな」
ふと、ほたるは或る疑問を思い出し、それをそのまま口にした。
「ねえ、なんでゆんゆんは俺と辰伶と二重に賭けをしたの?」
遊庵は口の端を引き上げて、ニヤリと笑った。
「そりゃ、おめえ…兄弟仲良くってことよ」
「……?」
「嬉しかっただろォ。辰伶と密着できて。ずっとお兄ちゃんに抱っこして貰ってたんだよな、ほたるちゃんは」
「……そうやって、人のことからかうのが目的だったってこと?」
ほたるは剣呑に目を眇めた。
「それより、いいのか?こんなところで油売ってて。愛しのお兄様が泣きながら迷子の仔猫ちゃんを捜してるぜ」
遊庵の言葉に、ほたるは腰掛けていた石の台から飛び降りた。長らくその身体を動かしていなかったせいか、巧く感覚が掴めずによろめいてしまった。
足元には懐かしい一本歯の下駄があった。螢惑の魂が猫の体に移されてからずっと遊庵が保管していて、たった今ここへ持ってきてくれたものなのだが、そんな経緯に思いを及ばすこともなく、ほたるは自分の下駄を履いた。歩き方が酷くぎこちなかったが、頓着せずに地下室の出口に向かった。そしてそこを出る時にふと立ち止まり、ほたるはぽつりと言った。
「ありがと…ゆんゆん」
そして振り返る間も惜しんで、ほたるは辰伶の元へと駆けていった。
「…どういたしまして」
地下室には遊庵と、辰伶が螢惑の為に飾り続けた季節の花が残された。可憐な白い花に、遊庵は微笑を漏らした。
…―― ねえ、辰伶
「なんだか……話したいことがいっぱいあるよ…」
おわり
リクエスト下さった梢様、本当に長い間お待たせ致しました。企画小説などの関係で書き始めから1年以上かかってしまいましたが、こうして完結させることができて、ほっとしています。この猫のほたると辰伶は、パラレルの中では一番気に入っている2人なので、続きが読みたいと言って下さって本当に嬉しかったです。
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