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或る猫の風景

-3-


 遊庵が立ち去った後も、辰伶はほたるを抱えたまま暫くその場に立ち尽くしていた。

「何だか…少し拍子抜けたな」
「……」
「もっと、無理難題を言われるかと思ったのだが。このままお前を抱いていればいいだけなんて…」
「ゆんゆん、何考えてるんだろ」

 ほたるにも師である遊庵の思惑がさっぱり読めなかった。実は、遊庵はほたるにも賭けを持ちかけていて、それは遊庵が辰伶に提示したものとは内容が違っていた。

『辰伶がお前の正体に気づいたら、お前を元の身体に戻してやるぜ。勿論、自分でばらすのはナシだ』

 どちらも辰伶が鍵を握っていることになるが、遊庵が辰伶に持ちかけた賭けの方が簡単である。それではほたるとの賭けは意味が無くなってしまう。余分だ。

 いや、そうではないのか。ほたるは小さく鼻を鳴らした。辰伶に対しては「目覚めさせる方法を教える」と遊庵は言った。「目覚めさせてやる」とは言っていない。

 辰伶は賭けに勝っても、教えられた方法を実行できる手段が無い。遊庵か、或いは彼の師である吹雪に願い出るのが関の山。他人に膝を折って懇願する辰伶の姿を、ほたるは再び見なければならない。それは嫌だなと、ほたるは思う。

 やはり、ほたる自身が賭けに勝たねばならないのだ。辰伶に対する賭けはオマケか、そうでなければきっと……嫌がらせだ。なんて捻くれた性格の持ち主だろうと、ほたるは己の師に対して思った。

「ほたる、すまないな」

 突然謝られて、ほたるは辰伶の腕の中から彼を見上げた。今までに無い顔の近さに少したじろぐ。

「俺の都合でお前をこんな賭け事に巻き込んで。迷惑だろう」

 そんな風に言われては返答に困る。本当はほたるの都合で辰伶を賭けに巻き込んだというのが真相だからだ。

「だが、俺はこの賭けにどうしても勝ちたい。勝つ必要があるんだ。だから、迷惑でも協力して欲しい。頼む」

 畜生ごときに対して、真剣に乞い願う異母兄の姿がほたるには心苦しい。たかが猫1匹、紐で無理矢理縛り付けるという手段だってあるのに、それを対等な立場で了解を得ようとしている。猫であるほたるの存在を、個として認めているのだ。それは嬉しい。でも、何だか切ない。

 ひょっとして猫の姿のままの方が、自分達の関係は上手くいくのではないだろうか。もとの姿に戻って、何かいいことでもあるだろうか…

 ほたるの脳裏に、辰伶の後姿のビジョンが浮かんだ。肩を落として、少し俯き加減な。あれは、地下室に眠る螢惑を見つめている時の辰伶の姿。あの背中には後悔と罪悪感という重荷が課せられている。

「辰伶は、そんなに螢惑を目覚めさせたいの?」
「ああ、そうだ。だから、ほたる…」
「辰伶にとって、螢惑って何?」

 ほたるの金の瞳が、辰伶を注視する。螢惑そっくりの、ほたるの瞳。辰伶と同じ、金の瞳。

「螢惑が辰伶の異母弟ってことは知ってる。じゃあ、それ以外は? 辰伶は螢惑のことをどう思ってる? …思ってた?」

 驚いたように、困惑したように、辰伶の瞳は忙しなく色を変えたが、突然、ほたるが見たこともないような優しい光が宿った。

「螢惑とは、争ってばかりいた。俺たちは性格からして正反対だったから、お互いのやること為すこと全てが気に入らなくて。いつも喧嘩腰で、俺たちはただの1度もまともに語り合ったことなどなかった。螢惑が父によって仮死状態にされるまで…」

 そうだった。ほたるも思い出した。あの頃は、辰伶なんて顔を見るのも嫌だった。いつも取り澄ました顔で、まるで見下されているような気持ちになった。お高くとまった優等生ヅラを馬鹿にして、怒らせて、そうしてほたるのレベルにまで引き下げてやることで、己の心を慰めていた。下らない争いばかりしていた下らない過去。それでも辰伶と思い出を共有する懐かしい時代。

「もっと、ちゃんと話をしておけば良かった…」

 優しげな瞳の奥に、幽かに悲しみが揺れている。間近で見る辰伶の瞳は、こんな色をしていたのかと、ほたるは小さな発見を心に刻み込む。

「俺は多分、いや、きっと螢惑に憧れていたんだ。俺とは全然違う価値観を持つ異母弟に憧れと、それから嫉みもあったんだろう。そして多分、ずっと……ずっと好きだった」

 そんな風に異母弟のことを語る辰伶は、甘やかな微笑みを浮かべていた。大切にしまっておいた宝物のことを打ち明けるように、はにかむように、誇らしげに、愛しげに…

「実は、そんな風に思えるようになったのは、お前に逢ってからだ」
「え?」
「ほたる、お前はどこか螢惑に似ている」

 それは喜ぶべきことなのか、皮肉に思うべきなのか。傍から見れば、滑稽ですらあるかもしれない。辰伶の言葉の受けとめ方が解からなくて、ほたるはひたすら戸惑っていた。

「こんなことは、螢惑本人には到底言えんがな。ほたる、螢惑が目覚めても、今の話は絶対に言うなよ。内緒だぞ」
「……」

 ちょっとだけ、笑いたくなった。だから黙って頷いてみせた。


 河原に下りて、岩の上で2人は寛いでいた。辰伶の膝の上でほたるは背を丸めている。川の流れの中に、誰が作ったのか竹製の小さな水車が回っていた。その様子を辰伶は厭きもせず眺めている。

「水車が好きなの?」
「え?」
「さっきから、ずっと見てるから」
「ああ」

 何を言われたのか、ようやく辰伶は得心した。

「そうか、あれは水車というのか。珍しいものがあるから、何だろうと思っていた。あれは何の為にあるんだ?」
「…ガキの単なる遊びだよ」
「子供でもあんなものを作れるのか。大したものだな」

 昔、遊庵が弟妹達に作ってやっていたことを、ほたるは思い出した。水車なんて、辰伶が感心するほど複雑な構造ではなかったように覚えている。

「辰伶は子供の頃、どんなことして遊んだの?」
「俺か? 篠笛を作って吹いてみたり……そんなものだな」
「水車より笛を作る方が難しいと思うけど」
「そうだろうか。笛なんて竹に穴を開けるだけだが…」
「てゆーか、そもそもそれって遊びなの?」

 水車は回る。白い飛沫を跳ね上げて回転する。時折羽が何かに引っかかるのか、カクンと調子はずれに動きを止めては、また勢い良く回りだす。

「遊びとは呼べないかもしれんが、楽しかった。舞の稽古も好きだったし、武術の稽古も嫌いじゃなかった。でも…」

 毛並みの良い、ほたるの滑らかな背を辰伶の掌が撫でる。

「螢惑は、子供らしく遊ぶなんてことは、あったのだろうか…」

 ほたるは辰伶の膝からズリ落ちそうになった。どう見ても遊び知らずに育った辰伶にそんな風に思われていたなんて、唖然とする以外に無い。他人のことを心配する前に、自分を顧みてはどうかと言ってやりたい。

「…そういうことは、兄が弟に教えてやらねばならんのだろうな。本来は」

 水車が、回る。

「生憎と、俺は兄として螢惑に教えてやるようなことは何も知らん。今更、兄だ弟だと言っても、俺が螢惑にしてやれることなんて何もないんだ。だから、せめてこの賭けには勝ってやらんとな」

 なるほど。そこに繋がるわけだ。ほたるは再び辰伶を仰ぎ見た。

「別にさ、辰伶に遊びを教えて貰おうなんて、俺はそんなこと期待してないから。何だったら俺が教えてあげようか?」
「え?」
「…って、俺が螢惑ならそう言うと思う」

 噴出すように辰伶は笑い出した。彼がこういう笑い方をするのは非常に珍しい。

「そうだな。この年齢になって、子供じみた遊びなんか教えられてもな」

 辰伶の手がほたるの頭や背中を優しく撫でる。一定したリズムが、ほたるを眠りに誘う。何だかとても気持ち良くなって、ほたるはうっとりと目を閉じた。

「そうそう。今更、水車や竹とんぼなんて……大人には大人の遊びがあるんだし…」
「大人の遊び? そんなものがあるのか?」
「えっと……女遊びとか…」

 ほたるの背を撫でていた辰伶の手が強張った。愛撫の手が途切れたので、ほたるは目を開けた。辰伶が茫然と、途方にくれた顔をしている。

「どうしたの?」
「…それは、やはり、兄が弟に教えねばならんのか?」
「何を?」
「その……女…遊びのことだ」

 辰伶は顔を真っ赤にして、それっきり黙りこんでしまった。白けた沈黙が2人を包む。暫くして、辰伶がポソリと言った。

「教えるには、まずは俺が覚えねばならんということだよな。…どこでどうやって覚えたらいいんだ。困ったな」
「…辰伶、あんまり真面目に面白いこと言わないでくれる?」

 ほたるは溜息をつく代わりに、しっぽを大きく揺らした。

「無理に似合わないことしない方がいいんじゃない? 大体さ、俺、辰伶からそんなこと教わりたくないから」
「誰もお前に教えるとは言っとらん」
「俺が螢惑だとしたらだってば」

 ほたるが螢惑だった頃は、辰伶の顔なんて1種類しか知らなかった。辰伶は螢惑だけでなく、誰に対しても常に気を張っていたから。
 猫になって、ほたるは辰伶の悲哀を知った。散歩に付き纏って、繊細な感受性を知った。話してみて、感情の多彩さを知った。猫であるほたるの前では構える必要を感じないからか、それとも…ほたるに心を開いてくれているからなのか。

 こうして腕に抱かれていると、辰伶の温かさと、躊躇いがちな優しさを感じる。水滴が平らかな水面に波紋を描くように、それは美しい波動としてほたるの心を潤していく。
 水は嫌い。でも、優しいのは好き。綺麗なのは気持ちがいい。

「こんな風に、お前に触りたいと思っていた」
「触れば良かったのに」
「お前は、余り人に触られたくなさそうだったから」
「うん。ベタベタ触られるのって嫌い」
「す、すまん」

 慌てて辰伶はほたるから手を放す。

「いいよ。今は触られてもいい気分」
「そ、そうか」
「触られたくない時に触られたら、遠慮なく噛み付くから心配しないで」
「それはちょっと…」

 ほたるは辰伶の膝の上をゴソゴソと動いて、胸元に縋りついた。それを辰伶の腕がそっと抱きしめた。ほたるの耳に辰伶の心臓の音が規則正しく響いてくる。美しい鼓動。優しいのは好き。綺麗なのは気持ちがいい。

 螢惑の姿では絶対に出来ないこと。辰伶も螢惑にはこんなことはしないだろう。猫であるほたるだけの特権だ。

「動物にやたらと触ってはいけないと、父親から厳しく言われていた。余り触ると死んでしまうからと。でも俺は、フサフサした毛に覆われた犬や猫を見ると、触ってみたくて堪らなかった」
「念願叶って良かったね。で、触ってみた感想は?」
「温かい。もっと壊れそうかと思っていたが、意外にしっかりしているし。毛がとても柔らかくて気持ちがいい」

 ほたるはちょっと想像してみる。そんな風にうっとりと抱いている猫の正体が、実は異母弟だったと知ったら辰伶はどんな顔をするだろう。辰伶はほたるをただの猫だと信じているのだから。ただの猫だと…

 ほたるが螢惑に戻ったら、辰伶はほたるに対してしていたように、螢惑に心を開いて接してくれるだろうか。ほたるは急に不安になった。元の身体に戻った瞬間に、今の関係は全て崩れて無くなってしまいはしないだろうか。

 再び思う。猫の身体のままでいた方がいいのではないだろうかと。いや、それだけではだめだ。辰伶が賭けに勝って真実を教えられれば、当然、ほたるの正体も知れる。中身が螢惑だと知られてしまっては、猫の身体でも同じこと。今の関係は失われてしまうだろう。

 勝たなければ良いのだと、ほたるは思う。先ずはこの居心地の良い膝の上から飛び降りてしまえば、辰伶は賭けに敗れる。そしてこのまま辰伶に正体を知られなければいいのだ。そうすれば、何も失わずに済む。

 さあ、飛び降りてしまえ。ほたるは四肢に力を込める。元の身体に戻ったところで良いことなど何も無い。元の姿に戻りたい理由なんて…

 理由はあった。肩を落として、少し俯き加減で、萎れた花のようにもの哀しい辰伶の後姿。そうだった。あんな辰伶をもう見ていたくなくて、だからほたるは元の姿に戻りたいと思ったのだ。毎日毎日バカみたいに異母弟に花を摘んでくる異母兄の姿を、これ以上見ていたくなかった。

 やはり賭けには勝たなくてはならない。ほたるが勝たなくてはならないのだ。どうにかして、ほたるの正体を辰伶に気づいて貰わなければならない。

「でも、こいつ鈍感そうだしなあ…」
「何か言ったか?」
「別に」

 それにしても、遊庵の思惑がさっぱり解からない。やはり嫌がらせか何かだろうか。


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