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或る猫の風景

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 いつも一緒に散歩をしている辰伶とほたるであるが、待ち合わせの約束をしたことは1度もない。しかしいつの間にやら待ち合わせの場所になっていたブナの木の下に、その日は珍しい人物がいた。太四老の遊庵である。

 思いがけない邂逅に、辰伶は少し緊張した。辰伶も位階に於いては太四老に次ぐ五曜星という要職にあるが、その権威は比べ物にならない。太四老でも己の武術の師である吹雪であれば会話の余地もあるのだが、遊庵とは私的な交流が全く無い。無難に挨拶のみで行き過ぎたいところだが、その場所はほたるとの待ち合わせ(ではないが待ち合わせの)場所なのだ。

「よお、辰伶」

 逡巡した分だけ辰伶は出遅れた。上位の者に先に挨拶をさせてしまうという失態に、辰伶は恐縮した。しかしそんなことは意に介することも無く、遊庵は最高クラスの権威を持つ太四老の肩書きとは凡そ不釣合いな軽快さで辰伶に近づいてきた。辰伶は慌てて礼をした。

「遊庵様、このような場所でお目に掛かりますとは、かかる無礼をお許し下さい」
「あー…、そういうお利巧な挨拶されっと、俺の方が返答に困っちまうんだよな…」
「ダメだね。ゆんゆんは」

 聞き覚えのある声に、辰伶は頭を上げた。遊庵の背後からほたるが姿を現した。

「…ほたる」

 旧知の出現に、辰伶は遊庵の前で畏まっていたことをすっかり忘れて、一瞬だけ素になってしまった。

「お前、遊庵様と知り合いなのか?」
「うん」

 ほたるが辰伶以外の人間の前で言葉を喋ったことにも驚いたが、何よりもその相手が畏敬すべき太四老の1人、遊庵であるということは並々のことではない。しかもその砕けた口振りは、その親交の深さを想像させる。改めて不思議な猫だと辰伶は思った。

 遊庵は己の師とは全く違うタイプの人柄で、辰伶としては接し方を決めかねる。この場は保身を考えて、敬遠の道を選んだ。

「それでは遊庵様、失礼致します」
「待った、待った、辰伶。俺はお前に用があってここで待ってたんだぜ」
「私に…ですか?」

 太四老たる遊庵が、待ち伏せまでして何の用だろうか。辰伶は無意識に心を構えた。

「何か至らぬことでも御座いますなら、先にお詫び申し上げます」

 その警戒振りに、遊庵は頭を掻く。

「どうも吹雪んとこのは優等生でいけねーな。やり辛いったらねえ」
「申し訳ございません」
「謝るこっちゃねえが、もうちょっと気楽にってゆうか、フツーなカンジになんねえのかよ」
「普通、ですか?」

 そういわれて、辰伶は逆に全く身動きが取れなくなった。意識して普通にするというのは存外難しいのだ。それでなくとも元より辰伶は太四老に対する姿勢としては普通にしているつもりだった。辰伶の太四老の基準は飽くまで吹雪で、猫にタメ口きかれるような胡散臭い輩ではない。

「……申し訳ございません。やり方が解かりません」
「まあ、無理にとはいわねえよ。話ってのは、螢惑のことだ」

 漸く辰伶は思い出した。確かこの遊庵という漢は螢惑の師であり、一時期は身元引受人でもあったと噂に聞いた。解きかけた警戒心を、辰伶は新たに張り巡らす。

「確か、死の病に罹ったってことだったよな」
「はい。治療法が解かるまで、仮死状態で眠らせてあります」
「ふ……ん」

 遊庵はケヤキの木に凭れると煙管を取り出した。そして火種が無いことに気づき、一度だけほたるを見たが、諦めて仕舞い込んだ。

「回りくどいのは嫌いなんでね。手短に言ってやる。螢惑が死の病に罹ってるってのは、ありゃウソだぜ」
「え…」

 辰伶は瞳を大きく見開き放心する。驚きの余りに、遊庵の言葉の意味がよく理解できない。

「それは、どういう……いえ、それは本当ですか?遊庵様のお言葉を疑うのではありませんが、余りにも……余りにも、意外なことで……」
「落ち着けって言っても無理だろうな。だが、間違いなく本当のことだぜ」
「何故そのようなことを遊庵様がご存知なのですか」
「え……」

 それは螢惑本人に聴いたからとは言えず、遊庵は返答に窮した。

「そ、そいつは……」
「遊庵様は随一の心眼の持ち主と聞き及んでおります。それで真実をお見抜きになったのですか?」
「そうそう。心眼、心眼。コレで知ったんだ」

 騙されやすい辰伶と、意外に抜けている遊庵との遣り取りは、稀に見る好カードである。ほたるはそっぽを向いて大きく欠伸をした。

「螢惑の病が嘘ということになりますと、それでは父は何故に螢惑を仮死状態にしたのでしょうか」
「それは、お前の方が想像つくんじゃねえのか?」

 辰伶は表情を硬くした。遊庵の言わんとすることは解かった。異母弟である螢惑は妾腹の生まれである。その為に父親から冷たく放擲され、苦難の道を歩むこととなった。遊庵の保護がなければ、生き延びることができたかどうかも不明だ。そんな経緯が正妻の息子である辰伶との間に修復しようのない亀裂を生んだ。

 辰伶の家は長い壬生の歴史の中でも特に古い血筋を誇る由緒ある家柄である。その家門に連なる分家の総てを束ねる立場にある随一の本家だ。古い家柄なだけに分家の数も多い。優位で勢力のある家もあれば、末端に名を連ねるのみという家もある。当然利害関係が複雑に絡み合っており、どの家も本家とのより強い結びつきを求め、あわよくば意のままに操ってやろうと虎視眈々と狙っている。

 契機はやはり、辰伶の母の死だったかもしれない。辰伶の母は聡明で、家の内外問わず大きな影響力を持つ女性だった。お陰で辰伶の母に味方していた家はその恩恵を受けて勢力を伸ばした。それに与ることのなかった家は不満を抱き、密かに螢惑を擁立して辰伶に対抗させようと水面下で同盟を結んでいたのだ。彼らは辰伶の母が没したのを好機と見て、辰伶を支援する一派の勢力を削ぎに掛かった。それはやがて流血をも伴う凄惨な争いへと発展した。

 そんな折だったのだ、螢惑が死の病であるとして仮死状態にされたのは。

「螢惑は、別にお前を跡継ぎの座から引き摺り下ろそうなんて、これっぽっちも考えちゃいなかったぜ。螢惑をお前と対立させようなんて、他の奴らが勝手に考えてただけで、あいつは一度だってそれに乗っかる素振りもしなかった」
「螢惑が五曜星となり、私と同格となったことを、彼らは己の都合の良いように夢想していたのでしょう。私と螢惑は仲違いをしておりましたから、それも彼らの悪心を助長させたのかもしれません」

 結局のところ、螢惑は辰伶の家の門内の勢力争いに巻き込まれ、その犠牲となったのだ。

「遊庵様、螢惑を仮死状態にしたことの真相を、今、私に明かすということは、もしやご存知なのではないですか。螢惑を目覚めさせる方法を」
「そうだと言ったら?」
「遊庵様、どうか…」
「螢惑を目覚めさせて、それでどうする。また一門挙げて殺し合うのか?」

 辰伶の懇願に、遊庵は早々と水を差した。辰伶の双眸が悲痛に歪められる。

「この壬生の平穏を乱すのは太四老として看過できねえし、可愛い弟子が薄汚ねえ陰謀に巻き込まれるのも胸クソ悪いんでね」

 『可愛い弟子』という単語を耳にして、ほたるは全身の毛を逆立てた。キモイ。

 辰伶は唇を噛み締めると、固い決意の眼差しで遊庵を見遣った。辰伶はその場で膝を折り、地面に両手を突いた。ほたるはぎょっとした。

「教えて下さい。どうか、お願いします」

 深々と額づく。辰伶がそこまでするとは、ほたるも遊庵も思っていなかった。ほたるは遊庵を睨んだ。辰伶に土下座までさせた遊庵を引っ掻いてやろうか、それとも噛み付いてやろうか、どちらにするかほたるは迷った。

「私と螢惑が争うことは、二度とありますまい。この身命に懸けて誓います」
「と、とにかく、頭を上げろよ。お前の気持ちは、よ〜く解かったからっ。ほら、立てってば」

 何だかんだ言っても、ほたるは異母兄である辰伶に対し一方ならぬ想いを抱いている。ほたるからの報復を恐れた遊庵は、慌てて辰伶を立たせた。それでもほたるは冷たく遊庵を睨んでいる。内心で冷や汗をかく。

『俺の所為じゃねえ』
『解かってるよ。辰伶が馬鹿みたいに真面目だからでしょ。解かってるけど、ムカつく』
『そりゃねえだろ』
『…まあ、ちょっと嬉しかったから、今回は赦してあげる』

「…あの、遊庵様。ほたると何を話していらっしゃるのですか?」
「な、何でもねえ。気にすんな」

 遊庵は笑ってその場を誤魔化そうとした。その姿に太四老としての威厳は微塵もない。しかし太四老の肩書きが辰伶の目に掛けたフィルターは効力を失わなかった。辰伶は遊庵に対して未だ不審感を抱いていない。

 遊庵はもう一度体面を取り繕い、出来るだけ偉そうな口調を心がけて言った。

「そうは言うが、お前の親戚連中はちゃんと抑えられるのかよ」
「父亡き後、私が当主として一門を統べる立場にあります。私の意向に従えぬ者は…」

 虚ろな笑みをその口の端に湛える。

「我が二振りの舞曲水の下に、粛清します」
「………(ひきつり笑)」

 遊庵は辰伶に背を向け、ほたるにコソコソと話しかけた。

『おいおい。こいつマジだぜ。ヤバイって。自分に逆らう奴は親戚だろうが皆殺しだってよ。これだから根が真面目な奴は…』
『それが辰伶の取り柄だし』
『怖えよ。実はちょっとからかっただけって、バレたらどうするよ』
『ゆんゆん、太四老でしょ。辰伶より強いんでしょ。死合っても負けないんじゃないの?』
『負けねーけど、怪我するかもしれねーじゃねえか。怪我したら痛えだろうが』

 強気なのか弱気なのか解からないが、少なくとも情けない言葉には違いない。

「あの、遊庵様。先程からほたると小声で何を…」
「あー、気にするな。ちょっと相談してたんだ。ええっとだな、とにかく、どうやらお前も真剣なようだし、俺としては、ちったあ信用してやる気になった」
「少なくともゆんゆんよりは辰伶の方が信用できるよ」
「うっせえ。余計な茶々を入れるな。…そこでだ、お前の決意がどれ程の物か、試させてもらうってのはどうよ」
「我が決意に一点の曇りも御座いません。遊庵様の納得のいかれるまで、御存分にお試し下さい。この辰伶、如何なる試練も謹んで受ける所存に御座います」
「いい覚悟だ」

 遊庵は足元にいたほたるを抓み上げると、突然辰伶の胸元へ放り投げた。反射的に辰伶はほたるの身体を受け止める。

「今から日没まで、そいつをずっと抱いていられたら、認めてやるよ」
「はあ?」

 どれ程厳しい条件の試練が課せられるのかと身構えていた辰伶は、遊庵の提示した珍妙な条件に気の抜けた反応を返してしまった。

「まあ、全然両手が使えないのも不便だからな。肩の上でも膝の上でも、ほたるがお前の身体のどこかに乗ってりゃいい。ほたるが地面に着いたらアウトな。勿論、地面に着かないからって、お前の身体以外の物の上に置くのも反則だからな」
「…承知しました」

 少し呆気にとられたまま、辰伶は条件を受け入れた。辰伶の腕の中で、ほたるは憮然とした面持ちで遊庵を見ていた。


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