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或る猫の風景

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 辰伶は真剣だった。道の脇に植えられたブナの樹の根元に腰を下ろし、手に刺さった棘を取り除こうと、ぎこちなく小柄を操る。小さな棘だが、放っておくには気になる場所だ。右掌の親指の付け根のあたり。利き腕でない左手での作業になるので、中々上手くいかない。何度も舌打ちを繰り返す。

 その辰伶の様子を、ほたるが見ている。ほたるは不器用に動く辰伶の手元をじっと視凝めている。辰伶が失敗して舌打ちする度に、ほたるは目を眇める。

 ちっとも取れそうもない手つきに、ほたるは焦れてきた。

「下手だね」
「半分は取れたんだ。途中で折れてしまって、まだ残っているんだが、これが意外に深く刺さっていて取れん」

 辰伶はまた、何度目かの舌打ちをした。ほたるは1つあくびをすると、言った。

「俺が取ってあげようか」

 辰伶は少し驚いた顔で、ほたるをまじまじと視凝めた。そして、小ばかにするような笑みを唇に刷いて言った。

「どうやって取るんだ。…猫のくせに」

 ほたるは猫だ。金色の眸と金色の毛皮。すんなりと伸びた尻尾がしなやかに地面を打つ。俊敏そうなその身体は確かに猫のものだ。しかし何故か人間の言葉を話す。人間界とは隔絶された特殊な地である壬生の郷に於いても不思議な存在である。ただし、ほたるが人間の言葉を喋るのは、ごく限られた人物に対してのみなので、大抵の者はほたるのことをただの猫と思っている。いや、ただの野良猫のことなど、誰も気に掛けてさえいない。

 辰伶は、そのごく限られた人物の中の1人だ。辰伶とほたるは散歩仲間である。本当は辰伶の散歩にほたるが同行しているというのが正しい。いつから一緒に散歩するようになったのか、特に記憶していない。ある日突然ふらりとほたるが現れて、いつの間にか辰伶と並んで歩くようになっていた。最初は訝しく思っていた辰伶だったが、今では散歩中にほたるが現れないと『何かあったのだろうか』と心配になるくらいだから、最早立派な散歩友達だろう。

 今も散歩の途中だった。休憩に立ち寄った東屋で、辰伶が何ともなしに手を置いた木柵の材が古くなっていて、掌に棘が刺さってしまったのだった。散歩中のことで、棘を抜くための道具など何も無かったので、家に帰るまで放っておこうかと、最初は思った。しかし刺さった場所がどうにも気になって仕方がなくなり、懐に入れていた小柄を取り出し、その先端で棘を取り除こうと悪戦苦闘していたのだった。

「俺、棘抜くの得意だよ」
「ほう。そこまで言うならやってみろ」
「手、出して」

 辰伶は棘の刺さった掌をほたるに差し出した。ほたるは辰伶の掌に右の前足を掛けて、覗き込むようにして、じっくりと棘の様子を観察した。柔らかな毛と肉球の感触が少しくすぐったい。

 しばらくそうしていたほたるは、辰伶の掌に刺さった棘を狙って、予告も無しにその鋭い爪で引っ掻いた。

「痛っ」
「ほら、取れた」

 確かに棘を取り除くことは出来た。しかしその研ぎ澄まされた爪は、棘と一緒に辰伶の掌の肉をも深く抉った。

「貴様、遠慮なくやりやがったな。血が出たではないか」
「ああ」

 ほたるは辰伶の掌に顔を埋め、滲み出る血を舌で丁寧に舐め取った。それを辰伶は胡乱な目で眺める。

「1つ訊くが、お前は人肉を嗜食する趣味は無いだろうな」
「人肉?……まだ食べたことないなあ」
「まだ、だと?」

 辰伶は振り払うようにして、手を引っ込めた。猫に表情筋は無い。だから気のせいだろうが、ほたるが性質の悪い笑みを浮かべたように見えた。

 辰伶とほたるがそんなやりとりをしているところへ、聞いた覚えのある声が割って入ってきた。

「これは辰伶殿、ご機嫌麗しゅう」

 悪趣味な挨拶に、辰伶は顰蹙した。声を掛けたのが誰か、顔を上げて見ずとも解かってしまう。しかし無視する訳にはいかない相手なので、辰伶は立ち上がった。

「別段、麗しくもない。何か用か」

 非友好的に返す。辰伶はこの漢に良い印象を持っていない。漢は辰伶と同じ五曜星の1人で、名を鶏告という。

 ――奇しくも、音は同じケイコクか…

 鶏告の前に火の五曜星だった漢のことを辰伶は思い出した。前任の火の五曜星とも、辰伶は仲が悪かった。辰伶が水の五曜星だからというのは余り関係ない。

 前任の火の五曜星は螢惑といった。ある事情により、螢惑は五曜星から外れることとなったのだが、その空席に収まったのが、この鶏告という漢である。家柄は辰伶とタメを張るが、実力は五曜星の中では一段下だ。辰伶はこの漢も嫌いだが、それは前任である螢惑に対する感情とは質も根も全く違う。辰伶はこの漢を軽蔑し、忌避していた。

「用が無ければ、声を掛けてはいけませんかね?」
「そうして頂けたらありがたい」

 辰伶が作り出すあからさまな拒絶の壁も意に介さず、鶏告は立ち去る素振りも無い。辰伶の足元に居る金色の猫をジロジロと見遣った。

「猫をお飼いとは、存じ上げませんで」
「貴公に報告する義務は無いのでな」

 ほたるは辰伶の飼い猫ではないが、この漢に事実を説明するつもりは無い。長く話をしていたい相手ではないのだ。

「余り躾の良い猫には見えませんな」

 辰伶の手の引っ掻き傷のことを言っているのだ。飼い猫を貶すということは、その飼主を侮辱するということである。そういう下劣な品性を隠しもしないところが、辰伶をうんざりさせるのだ。名家の出であることを誇るなら、それなりの品格を持ってしろと言いたいところだ。

「しかし辰伶殿はお優しい。私でしたら、飼主を引っ掻くような猫は叩き殺してやるところですよ」
「ほたる、行くぞ」

 辰伶はそれ以上相手にせず、さっさと歩き出した。ほたるもそれに並んだ。

「あいつ、辰伶に何か恨みでもあるの?」
「…俺の家と奴の家は同じようなレベルの家柄なんだが、近年、向こうは少々落ち目でな。五曜星になったのも俺の方が早かったし。…本来なら、あんな奴が五曜星の筈はないんだ。螢惑さえ…いや、それはともかく、俺に言わせれば、あの程度で五曜星になれたというのが不思議なのだが、本人はそうは思っていないようだな」

 ほたるは後ろを振り返ってみた。鶏告は辰伶の背中を見送りながら、

「……」

 嫌な笑みを浮かべた。


 辰伶の屋敷の前で別れを告げ、ほたるは独りで歩いていた。幾らも進まぬ内に、ほたるは1人の人物に行き当たった。

「よお。仔猫ちゃん」
「…ゆんゆん」

 ほたるが『ゆんゆん』と呼んだ人物は、本名は遊庵という。壬生の中枢に位を置く太四老の1人だ。ほたるは嫌そうに言った。

「その『仔猫ちゃん』ての、やめてくれる?」
「じゃあ、こう呼べばいいのか?螢惑」

 にやにやと嗤いながら遊庵は言った。螢惑とは前の火の五曜星の名前であり、それは遊庵の弟子の名前でもある。そしてその人物は辰伶の異母弟であり、このほたるという猫、そのものだった。

 螢惑は実の父親(つまり、辰伶の父親)の計らいによって、その魂を猫の身体に移されてしまった。それがこの人語を話す猫、ほたるの正体だ。このことを知っているのは、父親亡き今、遊庵唯1人である。或いは太四老あたりは全員知っているかもしれない。ほたるが人間の言葉を喋るのは、辰伶以外には遊庵に対してしかしない。

 辰伶はこのことを知らない。螢惑は壬生一族特有の死の病に罹り、その治療法が確立するまで仮死状態にしてあるのだと、父親から聴かされ、それを頭から信じ込んでいる。死の病に対する有効な治療法は未だ発見されていない。しかし螢惑の仮死状態を解く方法を、今は亡き父親から教えられていない辰伶は、例え治療法が解かったところで螢惑を覚醒させることができないことに、深い懊悩を抱えている。辰伶は毎日散歩に出かけては、野や山に咲く花や木の実などを持ち帰り、異母弟の眠る地下室に飾っている。時間に置き去りにされた異母弟を、せめて四季の移り変わりの中に置いてやれたらと、切なる想いを抱いて日課をこなす。異母弟の魂がちっぽけな猫の身体にあるとも知らずに。

 そんな異母兄を、ほたるは淡々と視凝める。そんな虚しい行為をいつまで続けるのかと、観察者のような目で追う。
 いつになったら気がすむのか。
 いつになったら飽きるのか。
 いつになったら螢惑のことを忘れるのか。

 いったい辰伶はいつまで、いつまで、いつまで…

「ねえ、ゆんゆん」
「オメーこそ、その呼び方、ヤメロ」
「最近気づいたんだけど、ゆんゆんの能力なら、俺を元の身体に戻すこと出来るんじゃないの?」
「出来るぜ」

 遊庵は当たり前のように言った。隠すでもなく、もったいぶるでもない。ほたるにとってはその身に係わる重大なことを、まるで問題にしてもいないような態度は、嘘をつかれる以上にほたるの神経を逆撫でした。

「じゃ、戻して」
「ヤダね」
「ケチ」
「オメーが『遊庵大師匠様』と呼んだら、考えてやらんこともないぜ」
「だったらいいや」
「…いいのかよ」

 のんびりとした足取りで、ほたるは歩き出した。遊庵の周囲をゆっくりと回る。

「猫って結構気楽だしね。知り合いも増えたし。あ、そういえば、この間知り合った猫が、ノミの卵くれるって言ってた」
「ノミの卵?そんなもん貰って、どうすんだよ」
「知ってる?ノミって、1日に20〜50個くらい卵を産むんだよ」
「聴いてるだけで痒くなりそうな数だぜ」
「例えばだけど…」

 遊庵の正面でほたるは歩みを止めた。しっぽが意味ありげに地面を叩く。

「俺がゆんゆんにノミの卵をあげたとするよ。そしたらゆんゆんの家の中でいっぱいに増えるよね」
「それで脅した心算か?生憎だが、ノミごときでこの俺が…」
「家にノミを持ち込んだのがゆんゆんだって、庵奈が知ったらどうなると思う?」

 庵奈とは遊庵の妹である。普段は姐御肌のしっかりものという人柄だが、キレた時の凄まじさは筆舌に尽くしがたい。太四老である遊庵が、背中に冷たい汗をかいてしまう程だ。

「……」
「……」
「…………」
「…………」

 暫しの沈黙を破って、ほたるは1つ欠伸をした。

「例えば、だけどね」
「……おまえ、嫌な脅し方するようになったな」
「遊庵大師匠って人が、俺の師匠」

 遊庵は小さく溜息をついた。ほたる…螢惑は遊庵の弟子だ。それだけに螢惑の性格のことはよく知っている。螢惑はその身に感じた事、思ったことを何のてらいも無く率直に口にする。そこには何の計算も思惑も無い。はったりや脅しの言葉とは、全くと言って良いほど無縁な漢だったのだ。…本来の螢惑は。

「元の身体に戻りたくなったのは、愛しのお兄様の為かよ」
「……誰、それ」
「螢惑、1つ賭けをしようじゃねえか」

 ほたるを見下ろす遊庵は、片頬を引きつり上げるようにして嗤った。

「ゆんゆんがそういう顔で何か言う時って、大体ろくなことないんだよね…」
「するのか、しねーのか」
「…何を賭けるの?」
「ここは一丁、愛しのお兄様にもご協力願おうか」

 やはり、ろくでもないことを考えているに違いないと、ほたるは思った。


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