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この道の遙かを
-過去1-
沼の畔で、まだ幼かった螢惑はその小さな肩を細かく震わせていた。
その感情は、生まれて初めて覚えた『屈辱』だったかもしれない。堅く拳を握り締め、俯いた顔は頬を上気させ、今にも迸りそうな憤りを奥歯で噛み締めていた。
あの男。
解かるような解からないような理由で、昼と無く夜と無く命を狙われ、傷が絶えたことの無いこの身体。命を落としかけたことなど数えたら切りがない。一時も安らぐ余裕のない日々を、僅かに見える生の光を必死に追って、いつもギリギリで生きてきた。
そんな過酷な生を強いる男に対して、螢惑は常に忘れることなく憎悪の炎を燃やしていた。それでも、今ほどの怒りを感じたことはなかった。これほどの怒り。これほどの屈辱。
「殺したい相手の顔くらい、覚えといてよ…」
ほんの少し前、たった今のことだ。
刺客の刃の下から辛うじて逃れ、川縁の緩やかな土手に寝転んで、螢惑は傷ついた身体を休めていた。散々命を狙われてきたお陰で剣の腕は否応無く上がったが、それでもまだ襲い来る刺客を確実に返り討つことは難しかった。
追われて、逃げて、戦って、それだけの日々。楽しくもない。面白くもない。自分という存在は一体何なのだろうかと、虚しい疑問が吹き抜ける。
疲労の為にうとうととまどろみかけていた螢惑は、大勢の人が近づいてくる気配に、敏感に意識を覚醒させた。上体を起して気配のする方を見やれば、どうやら貴人の外出らしい。大勢の警護に前後を守られて、輿が進んでくる。特に危険は感じられなかったので、そのままやり過ごすことにした。それが間違いだった。
雑役に担がれた輿はノロノロと進む。こんな窮屈な物に乗って、ご大層に移動する物好きはどんな奴だろうと、螢惑の傍らを通り過ぎていく輿の上の人物を仰ぎ見ると、偶然にも目があった。しかもそれは螢惑の知らない人物ではなかった。
「!」
忘れようとて忘れられるはずがない。螢惑の母を殺し、また母ばかりか螢惑までも抹殺することを指図している男、螢惑の実の父親が冷やかな目で息子である螢惑を見下ろした。
だが、その視線は螢惑の姿をなぞっただけで通り過ぎた。まるでその目に何も映らなかったかのように。無視などというものではない。螢惑など全く見ていなかったのだ。絶対に目が合った筈なのに。
仇敵の出現に一瞬身構えた螢惑だったが、相手の余りの反応の無さに、茫然と立ち尽くした。足が諤々と震えている。何がショックなのか解からない。ただ、今まで受けたどの傷よりも深く傷つけられたような気持ちだった。
その男の陰から、1人の少年が顔を覗かせた。螢惑をじっと見つめる。その視線は、普段螢惑がよく向けられる侮蔑や憐憫とは違ったものだった。あえて言うなら『珍しいものを見た』という感じのものだった。
実際のところ、少年は珍しいものを見て驚いていたのだ。子供が生まれなくなった壬生では、自分と同じ年頃の子供を見たことがあまり無かったからだ。しかし螢惑にそんな彼の心が解かるはずもなく『何であんな大きな目をしてるんだろう』と思った。
「こ…」
少し口の端を弛ませて、少年が螢惑に何かを言いかけた。その瞬間、上から男の冷たい声が降った。
「辰伶、前を向いておれ」
少年は慌てて居住まいを正した。
「弱者は相手にするな」
実の父親の口から発せられた、温度の無い声。
螢惑は堪らず駆け出した。堪らなく惨めな気持ちが背中に負い被さって来るのを感じて、それを振り払うように夢中で駆けた。
ひたすらに駆け抜けて辿り着いたのは、静謐な沼の畔だった。
ギリギリと奥歯が軋む。あの男。あの男の息子。
「赦さない」
沼の水面に神聖なる誓いを叩きつける。
「殺してやる!」
沼には真っ白な睡蓮が咲いていた。
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