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この道の遙かを
-過去2-
木刀が空を切る。
それによって小気味よいリズムで風が鳴る。
白砂の輝く庭で、少年が1人で剣の稽古をしている。少年は水を司る無明歳刑流を継承するこの家の長子であった。名を辰伶という。
この場には辰伶以外に誰もいない。誰も見ていないのをいいことに怠けようなどという性根は持ち合わせていないらしく、一心不乱に剣を振っている。
壬生を守る戦士となること。それは辰伶が生まれた時からの彼の行動の指針であり、それこそが彼の生の全てであると教え込まれて今日に至っている。この素直で生真面目な少年は、それをごく自然に受け入れ、人格形成の核としてしまった。呼吸をすることすら壬生の為にあると言っていい。
心構えのみでなく、武術の冴えも無明歳刑流継承者として相応しい才能があった。同年代の者では、辰伶に敵う者は既にいない。大人でもこの辰伶に勝つことは困難なことだった。
それでもまだ『壬生の戦士』と名乗るには尚早である。日々たゆまず鍛錬を重ねること。それが今の辰伶にできる、彼なりの壬生への忠誠の証といえた。
素振りをこなし、辰伶は一息ついた。額に滲む汗を拭いていると、カラリと硬い物音がした。振り返ると庭の隅、塀の間近に一本歯の下駄が片方だけ転がっている。その塀の上には1人の少年がしゃがみ込んで、地面に落ちた下駄を見下ろしていた。片足が裸足である。
「おい」
辰伶が声を掛けると、少年は此方を見た。
「何なんだ。そんなところで何をしている」
「落ちちゃった。拾ってもいい?」
「あ、ああ…」
何だか会話が噛み合っている気がしない。少年は高さのある塀を苦もなく飛び降り、脱げた下駄を履いた。
「君は…」
先日の父との外出の際に見かけた少年だった。壬生という閉ざされた世界で、辰伶は自分と同年代で面識のないものなど無いと思っていた。だから見知らぬ少年が珍しく、彼を見かけた時には思わず声を掛けようとしたのだが、それは父に咎められて叶わなかった。
声を掛けるといっても、『こんにちは』だか、『こんなところで何してるの』だか、実に他愛のない内容だったのだが、辰伶はそれが出来なかったことが残念で、この少年とはもう一度会えたら良いと密かに思っていた。
「いつからそこに居たんだ?何をしていたんだ?ずっと見ていたのか?君は誰?どこから来たの?」
「……どれに答えればいいのさ」
辰伶の質問の連射に、少年は憮然としている。辰伶はいつになく回転の良すぎた口を引き締めた。
「別にさ、お前が棒切れを振ってるところを見に来たわけじゃないけど…」
「棒切れとは何だ」
「だって棒じゃない」
「木刀だ。これで剣の練習をしていたんだ」
「ふうん、剣の練習だったんだ。…あんなので敵を倒せるの?」
「何!」
思いがけぬ再会に心が躍っていたのは束の間で、少年の不躾な言葉の数々に、忽ち非友好的な空気が発生した。
「今の台詞はどういう意味だ?『敵が倒せるか』とは」
「そのまんま。結構やれるみたいだけど、それで実際に敵を倒せるものなのかなって、思った」
「…そういう大層な口を叩くなら、君は相当なものなんだろうな」
「多分ね」
気負うでもなく、寧ろ無感動に言う。それが返って彼の自信を物語っている。
「見た感じ、今は俺よりお前の方が強いと思う。でもきっと、本気で死合ったら生き残るのは俺」
少年の物言いは、辰伶の自尊心を逆撫でした。納得がいかない。辰伶の方が強いと言いながら、何故、死合では少年が勝つのだろう。負け惜しみとも聞こえない。意味が判らない分、理不尽さが侮辱に感じられる。
「…試してみるか?」
「いいの?本気でやるよ」
「俺とて本気だ!」
辰伶は真剣を抜いた。それに呼応して少年も剣を構えるかと思いきや、予想外に少年は何の動作も取らなかった。
「おい、やるんじゃないのか」
「やるよ」
「何故構えない」
「構えって?」
「何」
「なんだか知らないけど、いくよ」
少年が動いた。速い。しかし辰伶が追えぬほどではない。半歩重心をずらしたのみで、軽々と捌いてみせる。少年は悔しがるでもなく連続して剣を閃かせる。その全てを辰伶は最小限の動きで防ぎきった。速いが攻撃に重さが無い。少年が細身で筋力が未発達なせいだろう。
明らかにこの勝負は辰伶に分があった。しかし辰伶はこれまでに無い戸惑いを覚えた。この少年の動きは辰伶が知る誰とも、どの流派とも違うものだ。構えも何もあったものではない。凡そ型というものが無い。デタラメという表現が一番当てはまる。全く訓練を受けていない素人のようだ。
しかし唯の素人ではない。そのデタラメな動きは単なるデタラメではありえない鋭さと正確さで辰伶の精神的な死角を突いてくる。理論や理屈と全く無関係でありながら、不思議に理に適ったその無秩序さは目を奪うほどに華麗である。辰伶は『天才』という単語を頭に思い浮かべた。
優勢にも拘わらず、辰伶は奇妙な余裕のなさを感じていた。元来辰伶は相手のリズムを読むことに長け、相手の攻撃ポイントを予測することに天才的な才覚を持っている。相手のスピードが辰伶よりも速かったとしても、その攻撃ポイントを予測し先回ることで常に相手よりも優位に立つ戦い方をする。
しかしこの少年にはそのリズムが無い。予測は全く不可能だ。今の辰伶は反射速度とセンスのみで戦っている。それでも技にしろスピードにしろ全てが少年よりも辰伶のほうが僅かに勝っていたから不利ではなかったが、思ったように展開が運ばず、辰伶は少し焦れた。
『やりにくい……こんな相手は初めてだ』
この少年よりも遥に強い相手と手合わせをしたこともあるが、それとは違う戦い難さがある。もし仮に、この少年が辰伶と同等の体つきであれば、今の優劣は逆転していた可能性も無いとはいえない。思った以上に厄介な相手だ。しかしそれはあくまで仮定であり、辰伶はこの勝負に負ける気はしなかった。
不意に少年は動きを止め、面白くなさげな声で言った。
「…何で本気出さないの?」
「なに…」
「何度も言うけど、本気だよ」
少年の振りかぶった刀身から炎が吹き上がり、辰伶を襲った。辰伶は咄嗟に水で壁を作って予想外の攻撃に耐えた。
「おまえ、特殊能力を持つのか」
辰伶はこれまで同年代の者とは純粋な剣技のみでしか戦ったことがなかった。練習試合ではその能力を使うまでもなかったからだ。辰伶にそれを使わせるのはいずれも大人で、しかも優れた武術者ばかりである。例えば彼の師匠である太四老の吹雪のような。
「なら、話は別だっ」
辰伶から水が迸る。それは容器によって形を変える軟弱なものではない。1匹の荒れ狂う龍だ。対する少年を噛み砕かんと、水龍がその顎を開く。
しかし少年は袖を翻して宙に舞い、その牙を難なくかわした。着地の体勢に身を捩りながら、紅蓮の炎で水龍を焼き尽くす。
これは、本気で手加減は要らない。そう判断した辰伶は、同時に3匹の龍を少年に差し向けた。後には無数の水龍を操るようになる辰伶だが、この時はこの3匹が最大に操ることのできる限界だった。
少年は1匹を薙ぎ払い、1匹を炎で消滅させ、しかし1匹の牙が左肩を掠めた。よろめいて片膝を付く。その背中を水龍が止めとばかり襲った。
「くっ」
少年は己が身を炎の華と変じて水龍の顎へ飛び込んだ。その捨て身ともいえる攻撃で、水龍は一瞬にして白い蒸気となって消えた。
「勝負あったな」
少年の首筋に、辰伶の刀身が当てられていた。水龍の攻撃は防ぎきったが、その背後には未だ無傷の辰伶がいた。水龍を蒸発させても、辰伶が消滅させられたわけではない。
「全く、お前のように無茶な戦い方をする奴は初めて…」
不意に少年が自分の首に当てられた刀身を素手で掴んだ。その予想外の行動に辰伶は怯み、その動揺を少年は逃さなかった。辰伶の刀身を力で捻じ伏せ、逆に辰伶の喉元に剣の切っ先を突きつける。辰伶は叫んだ。
「卑怯だっ」
「どうして」
「勝負はもうついていた!」
「…お前の敵は、途中で剣を止めてくれるの?」
その言葉に辰伶は愕然とした。
「俺、本気だって、かなり何度も言ったような気がするけど、お前、何聞いてたのさ」
白刃を握る少年の手から血が流れ、地面に血溜まりを作っている。傷や出血に全く頓着の無いその様子に、辰伶は薄ら寒い感覚を抱いた。
いまの状況を招いたのは、慢心とか油断とかそんな生易しいものではない。根本的に己の認識が目の前の少年に比べて甘かったのだ。
この時になって、辰伶は初めて気がついた。この少年は自分を憎んでいる。理由は解からないが、辰伶を見上げる琥珀の瞳には凍てつくような憎悪の炎が燃えていた。本気で辰伶を殺すつもりなのが、その身体から発せられる気に溢れている。
「解かった?敵を倒せない理由」
喉元に突きつけられた切っ先が、冷酷に動く気配を感じて辰伶は両の目を閉じかけたが、逆にしっかりと目を見開いて彼の命を握る者を睨み返した。彼の矜持は己の過誤から目を逸らすことを許さなかった。そして、彼の誇りが次の台詞を言わせた。
「俺は状況判断を誤った。覚悟が欠落していた。俺がここで死なねばならん理由としては十分だろう。だが、貴様が勝ったとは認めん。俺が負けたことは認めるが、貴様が勝ったとは死んでも認めん」
少年は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「勝つことがそんなに大切?命よりも?」
「……」
「ていうか、お前の『勝ち』の基準って、よく解からない。死んだら『負け』じゃないの?」
「解からなければいい。…それ以上傷を深くするな」
辰伶は剣を放した。白刃を握っている左手から急に負荷が無くなり、少年は辰伶の行為に目を瞠って驚いた。そして即座に敵意に眇められた。
「どうしてっ!」
風が薙いだ。一瞬後に、辰伶の結われていた髪が解放され、肩へと無秩序に垂れ下がった。
「どうしてお前は…」
辰伶は茫然と少年を見た。少年は辰伶を見ていなかった。辰伶の剣を握る自分の左拳を見つめて、肩を震わせていた。辰伶に突きつけられていた少年の剣の切っ先も、気づけば地面を向いていた。
「おい、殺さないのか」
「死にたいの?」
「え…」
「冗談も判らないなんて、石頭」
「おい、お前!」
少年は鳥のように身軽に塀の上に飛び乗り、その向こうへ姿を消した。
硬質な下駄の音が、急速に小さくなり、少年が去ってしまった証拠に辺りは静まり返った。
「…あれが冗談?」
あれほど熱く剣を交えたことはない。
あれほど冷たい視線に晒されたことはない。
あれほど切ない声を聞いたことがない。
これほど激しく辰伶の心を揺さぶる感情が『冗談』なはずがない。
あんな冗談があってたまるか!
「吹雪様、俺は…」
後に辰伶は、螢惑の名と、その憎悪の在り処を知った。
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