春に芽吹く
※『春の木枯し』の続き
春が来て、螢惑が家出した。夜遊び、朝帰り、無断外泊が続き、とうとう家に帰ってこなくなった。世間体を第一に重視したのだろうか、一週間を経て未だ捜索願は出されていない。
その代わりとばかりに、辰伶に対する風当たりは強くなった。義母と同席せねばならない食事時は、辰伶にとって最も居た堪れない時間となった。食器の触れ合う音どころか、本人にしか聞こえないような咀嚼音さえ躊躇われる沈黙。澱んだ空気に耐えかねて、螢惑の母が言う。
「居心地の悪いこと。螢惑が家に帰りたがらない気持ちが解かるわ」
独り言に模した嫌味は辰伶の心を容赦なく痛めつけた。返す言葉を持たぬ辰伶は、黙って食事を続ける他無い。食欲など全く無かったが、ただこの場所、この時間から逃れる為に、無理に箸を動かしていた。そうした食事の後、耐え切れず辰伶は密かにトイレで吐いた。
そんなことを繰り返す日々に、辰伶は肉体的にも精神的にも痩せて、やがて何も感じなくなっていった。ふと見た鏡の中に、異母弟にそっくりな2つの瞳を見つけて、その時だけ少し胸が痛んだ。
螢惑が家を出た理由が、義母の言うように自分にあったのだとしたら。姿を消した異母弟を想って、辰伶の心は塞いだ。
「…俺の所為で、螢惑は帰って来ない…のか?」
義母に対する恨みや憎しみは、辰伶の中には無い。むしろ道義に背いたのは辰伶の母であり、その罪の証たる己には償いをする義務があるとさえ思っていた。義母や異母弟に不快な思いをさせることは、辰伶の本意ではない。ましてや螢惑の居場所を奪うつもりなど毛頭無い。
「俺が出て行けば……」
引き出しの奥深くにしまっておいた銀行の預金通帳を取り出して眺める。辰伶の亡き母が残したものだ。彼女が息子の将来の為にとこつこつ貯めてきたもので、多少なりと纏まった金額ではある。これを学費に充て、アルバイトをして生活費を稼げば、何とか1人でやっていけるのではないだろうか。父親に頼めば、アパートを借りる為の保証人ぐらいにはなってくれるはずだ。
「…俺さえ居なくなれば、螢惑は帰ってくる…」
力無く笑った。面白いことなど何も無かったが、笑うしかないという状況があることを、辰伶は知った。思い知らされた。どちらにしても、螢惑の傍に辰伶の居場所は無いのだ。
「…ならば……いっそ遠くへ行きたいな…」
通帳をしまい、辰伶は庭に出た。螢惑の飼い犬であるミロクは、辰伶の姿を見つけると嬉しそうに尻尾を振った。辰伶はミロクの前にしゃがみ込み、彼の頭を撫でながら呟いた。
「おまえ、置いていかれてしまったな…」
螢惑が主人といってもそれは名ばかりのことなので、彼が消えたからといってミロクの日常は何も変わらない。置き去りにされた自覚などあろうはずもない。辰伶さえ居ればゴキゲンな犬は、甘えるようにその鼻面を擦り寄せてくる。
螢惑の居ない寂しさを分け合うことはできなかったが、辰伶の心は少しだけ慰められた。ただもの思うだけの停滞した日々に、終止符を打つ時が来たのかもしれない。
「…できるだけ……遠くへ行けたらいい…」
どれだけ遠くへ行けば、螢惑を忘れられるだろうか。
夜中に辰伶は目を覚ました。不自然に中断された睡眠の名残が、辰伶の意識を薄い靄で覆っている。部屋は暗く、朝にはまだ早過ぎる。
暗がりにぼんやりと浮かぶ幻のような影が、圧し掛かるようにして辰伶を覗き込んでいる。その重みと圧迫感は現実で、次第に辰伶の覚醒は確かなものになり、少し乾いた唇はようやくはその名を呼んだ。
「…螢惑」
見上げるその顔は余りに近く、まだ自分は夢の中にいるのだろうかと辰伶は思った。
「…何か……用か…?」
「ちょっと忘れ物」
「そうか…」
それきり再び眠りへと引っ張られ、ゆっくりと目を閉じていった。そのまま夢の国へと落ち込む寸前で、辰伶は卒然として意識をはっきりさせた。
「螢惑!」
辰伶は跳ね上げるように上体を起こした。それに合わせて、螢惑は身を引いた。
「どこに行っていたんだ。心配していたぞ」
「へえ……心配したんだ?」
「当たり前だろう。誰にも何も言わないで…」
「あのさ、腕が痛いんだけど」
「す、すまん」
無意識に辰伶は螢惑の両の二の腕をしっかり捕まえていた。慌てて解放し、所在の無くなった両手は代わりにシーツを握り締めた。
「とにかく、お前が帰ってきてくれて良かった。安心した」
「帰ってきた訳じゃないよ。忘れ物を取りに来ただけだから。てゆーか、もう家に戻るつもりない」
「そんな、螢惑…」
シーツを握る手に力がこもる。辰伶は俯いた。
「お前が家を出たのは、俺のせいか?」
「…………間接的にはそうなるのかなあ……結果的にそうかも」
感情の抑揚に乏しい声。互いの息遣いさえ聞こえそうなほど近くに居ながら、暗い部屋の中では螢惑がどんな顔をしているのか解からない。螢惑の双眸がある辺りを視凝めて、辰伶は言い募った。
「帰って来い。母君が心配しているぞ」
「無理」
「俺がこの家を出るから。だから…」
「え?出るの?」
「ああ、決心した。俺はこの家に居るべきでは…」
「何だ、辰伶も家を出るんだ」
辰伶の言葉を無遠慮に遮って、螢惑は嬉しそうに言った。
「ちょうど良かった。はい、これ」
そう言って、辰伶に封筒を渡した。封筒は一部分が歪に膨れていて、中に何か硬い物が入っているようだ。特に封印されていない袋の口を開けて逆さにすると、鍵とメモが辰伶の掌に落ちてきた。
「これは…」
「俺のアパートの住所と合鍵」
それが何を意味するのか、辰伶は己の手の中にあるものと螢惑の顔とを交互に見た。
「解からないの?」
困惑のままに、辰伶は頷いた。
「俺が何しに来たか、辰伶は本当に解かってないの?」
「何しにって……そういえば、忘れ物を取りに来たと言っていたな」
「忘れ物を取りに来て、何で自分の部屋じゃなくて、お前の部屋に居ると思う?」
「部屋を間違えたんだろう」
「……」
一転して空気が白けた。辰伶は自分が何か間違えたらしいことを察したが、それが何か解からずにひたすら戸惑った。やがて螢惑が憮然とした声で言った。
「…じゃあ、何で俺はお前のベッドの上に居ると思う?」
「…自分の部屋のベッドだと思ったのに、俺が寝ていたから不審に思った…とか?」
「…何でお前のパジャマはボタンが全部外れてるんだと思う?」
「え?」
指摘を受けて初めて気付いた。きちんとパジャマを着て寝たはずが、何故かボタンが全部外れて、だらしなく肌蹴られている。
「答えは、俺が外したから」
「……」
「忘れ物っていうのはお前のこと。俺は辰伶を取りに来たんだよ」
そこまで言われながら、辰伶が状況を完全に把握するのに更に時間を要した。辰伶にとっては余りにも意外なことであり、絶対に有り得ないはずのことであったために、どうしても思考がそこへ結びつかないのだ。
「…1つ聞いていいか?」
「何?」
「お前は俺のことを嫌ってはいなかったのか?」
控えめ過ぎる辰伶の理解力に、だんだん螢惑は焦れてきた。
「嫌いじゃない。…てゆーか、好きなんだけど」
「好き…」
「もっとはっきり言わなきゃダメなの?…あのね、俺は辰伶が欲しい」
「…嘘」
苛立った螢惑は、呆けた辰伶の顔を無理矢理自分に向かせ、強引に口付けた。少し開き加減の唇に侵入し荒々しく貪る。力の抜けた辰伶の身体が倒れていくのに合わせて圧し掛かり、ベッドに縫い止めるようにして尚も激しくキスをした。
「これでも嘘?」
ようやく解放されたが、辰伶の頭は痺れたようにぼんやりしていた。頬は熱く紅潮し、呼吸は荒いままだ。
「ねえ、俺と暮らそうよ。そしたら、この続きをしてあげる」
「……続き?」
懐柔の口調に危うく騙されそうになったが、辰伶は螢惑の言葉の意味を正しく理解した。これまでの鈍さからは考えられない速さと正確さだ。
「つ、続きって…!」
「ダメなら、今この場でやる」
懐柔かと思いきや、これでは脅迫だ。深夜に大声を出すわけにはいかなかったので、辰伶は音量を絞って螢惑に抗議した。
「どちらにしても一緒じゃないか!」
「違うよ」
辰伶とは反対に螢惑の瞳は静かだった。冷静に真剣に言った。
「一緒でも、意味が全然違う。よく考えて。全然違うでしょ」
辰伶が自ら受け入れるのと、無理に奪われるのとでは違う。螢惑の手を取るか、それとも拒絶するか。選択は辰伶に委ねられていた。(※ただし、結果は一緒です)
「それで、辰伶…どうしたいの?」
「ど、どうって…」
「答えは3択。1番『今する』。2番『後でする』。3番『両方』…さあ、どれ?」
「そんな選択があるかっ。それ以外…4番の『どちらでもない』だ!」
「4番は『毎日する』だよ」
「螢惑、ふざけていないで」
「ふざけてなんかない。俺は真剣にお前が欲しい」
「我慢しようと思わないのか」
「それは無理」
「どうしてそんなに俺の身体に固執するんだ?お前だったら、相手になりたい奴なんて他にいくらでも…」
空気が凍りついた。その変化は劇的で、辰伶は声を失い身を竦ませた。燃え盛る炎のように螢惑の瞳は激しい熱と光を孕んで、辰伶を追い詰める。いや、追い詰められたのは螢惑の方だ。
「身体だけが欲しいんじゃないよ…」
「……」
「辰伶のバカ!鈍感!もう知らない!」
泣きそうに怒鳴って、螢惑は辰伶の部屋から出て行ってしまった。その声に何事かと起き出した家人たちに、螢惑は廊下で見つかってしまったようだが、制止を振り切り遁走を果たしたようだ。
辰伶の耳には螢惑の最後の言葉が残っていた。こんな状況にも関わらず、螢惑の意外な子供っぽさを、何だか可愛いと思ってしまった。
「螢惑…」
その夜は久しぶりに安眠した。
散歩の時間だ。ミロクは小屋の外に出ると、早くもゆったりと尾を振りながら辰伶の訪れを待った。やがて現れた辰伶の手に散歩用のリードがあるのを目にして、ミロクは激しく尻尾を振った。
「よしよし。待たせたな」
慣れた手つきでリードにつけ替えられる。いつもはそれだけなのだが、何故か今日はミロクを小屋に繋いでいる鎖を外して巻き取り、鞄の中にしまった。
「俺は忘れ物はしないからな。螢惑と違って」
ミロクには理解できないことを辰伶は言った。そして上着のポケットから鍵を取り出して確かめると、また元のように大事にしまい込んだ。
「さあ、行こう」
いつものように辰伶が促すと、ミロクは何の疑問もなく軽やかな足取りで隣に並んで歩き出した。散歩にしては大きな荷物を持っているのが少し気になったが、辰伶と一緒なのでゴキゲンだった。
ポケットに幸福の鍵を忍ばせていることは、辰伶だけが知っていた。
おわり