春は花盛り

※『春に芽吹く』のその後


 怠惰なのは春のせいだ。日曜日の朝、螢惑は全ての責任を季節と気候に押し付けて、だらしなく惰眠を貪っていた。起きる気力が無いのは…もとい、起きだす気持ちになれないのは、温かくて心地よい布団のせいだ。決して失恋のせいではない。失恋の…

「……」

 螢惑は掛け布団を頭の上まで引っ張りあげた。鬱々といじけた気持ちを抱えながら、深く深く潜る。

 本当に失恋したわけではないのだ。それは数日前のことだ。螢惑は異母兄である辰伶に、その想いを告白した。以前から螢惑は辰伶に対して、自分自身にも説明し難い心象を抱えていたのだが、それが恋情であったことに気付いたのだ。

 気付いたのは家出をして辰伶から離れてからだった。むしろ離れた為に気付いたというのが正しい。これまでは辰伶のことを考える度に苛立っていたのだが、会えなくなったことでそれはより強烈になった。焼け付くような飢餓感はただ一点、辰伶だけを求めていた。

 家を出たことを、螢惑は後悔していない。しかし辰伶から離れたのは間違いであったと気付いた。それはつまり辰伶があの家に居ることが大きな間違いだということだ。あそこは辰伶に相応しくない。辰伶は自分の隣に居るべきだ…

 そう思いつめた螢惑は、家人に見つからぬよう深夜に辰伶の部屋に侵入した。辰伶の部屋は西の端に位置し、裏庭に面していたので易々と忍び込むことができた。ベッドを覗き込むと、恋焦がれたその人が静かに眠っていた。

 螢惑はアパートの合鍵と住所を書いたメモを用意してきていた。それを辰伶の机の上に置いて、気付かれないうちに立ち去る予定だった。しかし狂おしいほどに求めた人の姿を目にして、螢惑は我慢できなくなった。目の前の愛しい人を、今すぐ掻っ攫っていくことを決意した。

 辰伶の耳に唇を寄せて名前を呼んでみる。深夜のことであり、また隠密の行動であったから、息のような声で囁く。しかし辰伶が目覚める様子はない。

 仕方が無い。螢惑は布団を剥ぎ、辰伶のパジャマに手をかけた。薄着のまま連れ出して風邪をひかせたくはないので、着替えさせようと思ったのだ。それだけのことで他意は無かったのだが、パジャマのボタンを外している内に、段々とおかしな心持ちになってきた。身体の奥で何かが蠢いた。

 辰伶は少し痩せたようだ。月明かりの蒼い陰影の中で滑らかに浮き出た鎖骨が白く眼を惹く。そっと指を這わせると、陶器のような印象そのままにひんやりと冷たく、皮膚のしっとりとした感触に愛しさが募った。

 不意にというよりは、むしろようやくというべきか、辰伶が薄っすらと眼を開けた。意識の半分はまだ夢の世界に置き忘れているようで、焦点の定まりきらない瞳が、ぼんやりと螢惑を見上げてくる。しばらくそのまま見詰め合っていると、やがてゆっくりと辰伶の唇が動いて、掠れた声で螢惑の名を呼んだ。そして2言、3言話すと再び瞳は閉じられていった。

 せっかく起きたのに。螢惑は再び覚醒を促そうとするが、それには及ばず今度こそ確りと辰伶の眼が開かれた。

 …と、ここまでは順調だった。螢惑はアパートの鍵を渡し、想いを辰伶に打ち明けた。ところが寝起きが災いしたのだろうか、どうにも辰伶の反応が鈍い。多少の実力行使を伴って告げると、ようやく事態を把握したようなのだが、ついぞ辰伶が螢惑の本当の気持ちを理解することはなかったのである。

「…身体も欲しいけどさ……1番欲しいのは心だもん…」

 螢惑が辰伶に好意を寄せているということを、どうしても理解できないらしい。確かに2人の置かれた立場とか、これまでの経緯とかを考えれば、俄かに信じ難いのは仕方のないことだろう。

 それとも辰伶は信じられないのではなく、信じたくないのだろうか。

「…辰伶のバカ。俺のこと好きなくせに…」

 これは決して螢惑の自惚れでは無い。辰伶はその想いを内に秘めて隠しているつもりだっただろうが、生憎と螢惑の勘は鋭かった。漣のように寄せられる視線の切なさを、螢惑の横顔は正確に感知していたのだ。

 だから自分が辰伶の手を取れば、それだけでOKだと思っていたのだが、現実は螢惑の思惑通りにはいかなかった。辰伶の徹底した鈍さに、螢惑は言い知れない敗北感を味わったのだった。


 呼び鈴が鳴った。新聞の勧誘だろうか。螢惑は布団を被ったまま無視した。再び鳴ったが、居留守を決め込んだところ、それ以上は呼びかけも何もなかった。あっさり帰ってくれたことを安堵し、螢惑は伸び伸びと寝返りをうった。

 突然、ドアの外で犬が吠え立てた。そのけたたましい鳴き声に螢惑は飛び起きた。何で犬がと思ったところに、聞き覚えのある声がした。

「こら、ミロク。静かにしないか。迷惑だろう」

 螢惑は急いでドアを開けた。慌てていた為に裸足のまま玄関を飛び出していた。

「…辰伶」

 アパートの狭い通路には愛犬を宥めている異母兄の姿があった。大きな荷物を傍らに、しゃがんだ姿勢から螢惑を見上げる瞳は驚きに見開いていた。

「螢惑……居たのか」

 呼び鈴を鳴らしたのは辰伶だった。応答が無かったので留守だと思ったらしい。合鍵を渡しておいたのだから、入ってくれば良かったのだが、そんなことには考えが及ばなかったのだろう。

「寝ていたのか。悪かった。起こしてしまったな」

 立ち上がった辰伶は、パジャマ姿の螢惑を見てそう言った。そんなことは全然構わなかったが、このとき螢惑は意地の悪い気持ちになった。

「…何しに来たの?」

 案の定、辰伶はショックを受けたらしく顔が強張った。暫く硬直していたが、やがて諦めに似た表情で寂しく微笑んだ。

「俺も家を出た。…それだけだ」

 本当にそれだけ口にして、辰伶はミロクを促して立ち去ろうとした。螢惑は溜飲が下がるどころか、胸に鋭い痛みが走った。

「どこ行くの?」
「……」
「あの家を出て、他に行くとこあるの?」

 少しは取り縋るとかしてくれないの?自分で意地悪なことを言っておきながら、執着してもらえないことに焦った。そんな螢惑の心情を知ってか知らずか、辰伶は至極簡潔に答えた。

「あるぞ」

 一瞬、耳を疑う。何て言った?

「アパートでは犬は飼えないだろう?だから俺の舞の師である吹雪様にミロクのことを頼みに行ったのだ。そうしたら空いている部屋があるからと、吹雪様のお屋敷に下宿を勧めて下さった。それなら自分でミロクの世話ができるし…」
「ちょ、ちょっと待ってよ」

 何だ、この展開は。ここに至って辰伶の舞の師だなんて、そんな人物の存在など螢惑は聞いていない。これまで何の伏線も無かったではないか。これが小説だったら、読者は怒って本を投げている。

「辰伶は俺と暮らしたくないの?」
「でもミロクが…」

 冗談ではない。犬なんかと天秤にかけられて堪るものか。螢惑は辰伶にその場で待つように念を押すと、パジャマ姿のまま靴を突っ掛けて走っていき、1人の人物を強引に連れて戻ってきた。

「痛てっ、引っ張んじゃねえ。いきなり何だよ、てめえは」
「辰伶が吹雪を出すなら俺はゆんゆんで対抗する」
「はあっ!?」

 螢惑が「ゆんゆん」と呼ぶこの漢は、このアパートの大家の息子で本名は遊庵という。(螢惑が勝手に引っ張り出して急遽設定した)アパートの管理人だ。

「辰伶、ゆんゆんが犬飼ってもいいって」
「俺は許可してねえぞ。ここは動物禁止だ」
「うん。でもゆんゆんの家は禁止じゃないよね」

 管理人の遊庵の家はアパートのすぐ隣に位置していた。庭もあり、十分に犬を飼うことができる。(という設定も螢惑が今つくった)

「これなら辰伶も犬の面倒がみれるでしょ。ゆんゆんも番犬がいた方がいいよね」
「いらねえよ。家は盗られるようなもんなんかねえ」
「…ゆんゆんは馬に蹴られるのと俺に蹴られるの、どっちがいい?」
「意味わかんねえよ!!」

 螢惑は辰伶に向き直った。

「一緒に暮らそうよ」
「螢惑…」
「俺は辰伶が好き。ずっと一緒に居たい」

 そもそも鈍感すぎる辰伶に、駆け引きめいた言葉や態度など通じるはずがないのだ。単純明快。これに尽きる。

「俺も…螢惑が好きだ。ずっと前から、ずっと好きだった」
「うん」
「でも…いいのか?迷惑では…?」
「一緒に生きていこうよ」

 螢惑は両腕で辰伶を抱き締めた。やがて辰伶の手が躊躇いがちに螢惑の背中に回され、それを合図に2人は唇を重ねた。









「だから、犬はどうすんだよ!」








 おわり

『ほたる×辰伶布教計画8』に投稿した2作品と+αです。素敵な企画をありがとうございました。