春の木枯し

※辰伶は妾の子、螢惑は正妻の子という設定の現代パラレル


 螢惑は心底うんざりした。学校から帰宅して、最初に耳にしたのが己の母の声だったからだ。声は居間からだ。誰かと会話をしているようだが、ねっとりと甘ったるく耳障りな母の声しか聞こえない。それでも話の内容から相手が誰か解かる。

「あーあ、カワイソ。辰伶、またやられてるよ…」

 廊下を歩きながら独り呟いた。居間の横を通るが、帰宅の挨拶などする気も無い。自室へ直行するに限る。

 …ええ、ええ、辰伶さんが○○大学を希望していることは重々承知よ。でも…ねえ…通うには遠方だから、寮に入るか、アパートを借りるかすることになるでしょう。1人暮らしなんて心配だわ……ねえ、△△大学になさいな。そりゃあ、○○大学に比べるとレベルは落ちるけど、あそこなら十分に家から通えるから。家を出るなんておよしなさい。貴方に何かあったら、主人に申し訳ないわ。貴方のことは、亡くなった伶華さんに代わって、この私が責任もって面倒みますからね…

 白々しい猫撫で声に鳥肌が立つ。どうして己の父は、こんな人間を妻に選んだのだろうと、疑問を通り越して軽蔑する。趣味が悪い。神経を疑う。

「…俺だったら、もう1人の女の方にするけどね」

 螢惑の父には愛人がいた。何年も前に亡くなっているが子供を1人産ませていた。それが辰伶であり、つまるところ螢惑の異母兄弟だ。歳は半年しか違わないが、辰伶は早生まれなので、螢惑よりも1学年上だ。

 辰伶がこの家で暮らすようになってから、さて、5、6年になるだろうか。彼を指して一言で表すならば『絵に描いたような優等生』と言えるだろう。品行方正。成績優秀。その上、眉目秀麗、スポーツ万能となればもう非の打ち所が無い。人々が想い描く完璧な人間像を、ほぼ体現している異母兄に対し、螢惑は皮肉の笑みが漏れるのを抑えられない。

「だから虐められるんだってこと、解かってるのか、解かってないのか…」

 細い針の鋭い先端を細心の注意を払って砥ぐように、家でも学校でも辰伶は気を張って生きている。ほんの些細な失敗さえも己に許さず、更なる完璧さを自らに課す。彼にそれを強いるのは、彼の亡き母への想いだ。彼が最も懼れているのは、世間の人々から『母親の躾が悪かったから云々』と言われることだ。己の言動によって、故人が不当に非難されぬようにと、辰伶はそればかりを考えている。そんな彼の思考が、螢惑には視えてしまう。

「…必死だね」

 庭で犬が吠えた。ああ、煩いこと。わざとらしい迷惑そうな声で、母が言う。躾が行き届かないのは雑種だからかしら…すみません、すぐに散歩に連れていきます…

 ヤバイと思い、螢惑は急いで立ち去ろうとしたが遅かった。居間のドアが勢いよく開いて、中から出てきた辰伶と鉢合わせする形になった。

「螢惑……お帰り」
「…………ただいま」
「まあ、螢惑」

 見つかってしまった。螢惑は溜息をついた。

「ちょうど良かったわ。螢惑、この間のテストの成績のことだけど…」
「…」
「…お前はやればできるんだから…あっ、待ちなさい!」

 待つ訳が無い。母の言葉を無視して、螢惑はさっさと自室へ向かった。馬鹿らしくて聞いていられない。

 とかく人の親というものは、子供の評価を己の自尊心に投影しがちだが、螢惑の母は極端にその傾向があった。螢惑が辰伶より劣ること、即ち夫の愛人に対する敗北と、強く思い込んでいる。学力試験も彼女に掛かっては低劣な代理戦争に成り下がるのだ。

「…駒じゃないんだよ、俺は」

 テスト用紙を見ると母親への反発心ばかりが先に立ち、まともに回答する気がなくなる。螢惑がこれでは、当然のことながら彼女の欲求が満たされる訳が無い。そしてその不満の矛先は、これも当然のことながら愛人の息子である辰伶に向けられた。螢惑の母は表面的には親身な態度を取り繕いながら、辰伶の将来への可能性を悉く潰そうとしている。憎い女の息子を一生手元に置いて自由を与えず、才能を摘み取り、進路を妨害し、飼い殺しにする魂胆だ。

 全てに於いて、自分の息子が夫の愛人の息子よりも優位でなければ、彼女の心に平安は訪れない。性質の悪いことに、彼女はそれを愛情と勘違いし、息子に献身する己の姿に陶酔していた。歪んだ母性愛に、螢惑は吐き気さえ覚えた。

 亡き母の人格と尊厳を守るためにと辰伶が努力すればするほど、螢惑の母は面白くない。最悪の相性だ。いっそ辰伶が無能で愚劣であれば、これほどに陰湿で粘着な虐めを受けることはなかっただろう。この不毛な構図に、辰伶は気付いているだろうか。気付いていたとしても、為す術などあるまい。

「……」

 くだらない母親。不毛な家。螢惑は自室のベッドに身体を投げ出し、両の目を閉じた。

「ここは俺の居場所じゃない…」

 日に日に強くなる思いを溜息混じりに零した。深呼吸がしたい。俺はただ、深呼吸がしたいのだと、螢惑の魂は血を吐くように叫んでいた。

「俺は…辰伶とは違う」

 辰伶のことを考えると苛立ってしょうがない。他人の都合に縛られて、押し潰されて。窮屈そうな彼の生き方を見ていると、自分まで息苦しくなる。俺は辰伶とは違うのだと、螢惑は執拗なまでに胸に刻みつけた。


 それまで吠えていた犬は、辰伶の姿を見た途端に静かになり、上機嫌に尻尾を振った。小屋に繋がれた鎖をピンと限界まで張らせて、尚も近寄ろうと地面を掻いている。親愛に溢れる犬の仕草が、辰伶の鬱屈する思いを忽ち忘れさせてしまう。

「ただいま、ミロク」

 両腕で抱き締めるようにして全身を撫でてやる。雑種の中型犬。この家に連れてこられたのが3月6日だったから『ミロク』だ。辰伶が散歩用のリードを見せると、ミロクは更に激しく尻尾を振り、全身で喜びを表した。

「よしよし。待たせたな。さあ、行こう」

 首輪の鎖を外してリードにつけ替える。辰伶が促すと、ミロクは軽やかな足取りで隣に並んで歩き出した。

 この界隈は犬に好意的な公園が多いので、散歩のコースに困らない。中でも辰伶は河川敷の緑地公園が一番好きだ。ここはミロクと初めて出会った場所でもある。

 そもそも仔犬だったミロクを拾ってきたのは螢惑だった。だからミロクは螢惑の犬だ。実際に世話をしているのは辰伶だが、形式的には螢惑が主人で、この形式が如何に重要であるかは、辰伶だけが知っている。

 螢惑が拾ってくる前から、辰伶はその仔犬のことを知っていた。その日、辰伶は学校から帰宅する時に、この河川敷の公園で仔犬に遭遇していた。段ボール箱の中で薄汚れた布に包まり、あどけない瞳で見上げてくる仔犬に、辰伶は一目で心を奪われてしまった。手にとって抱き締めたいと思う心を、しかし辰伶は抑え込んでその場を去った。辰伶自身が「厄介者」とされている家で、ましてペットを飼うなど許されるはずが無い。最初から判りきったことであった。

 そんな経緯のあった夕方に、螢惑が件の仔犬を拾ってきたのだ。螢惑の両親は反対した。特に母親が頑なに拘ったのは、仔犬が雑種であったからだ。どうせ飼うなら血統証付きのまともな犬をと言うのを、螢惑は小ばかにした笑いで端から無視し、強引に飼い始めたのだ。そのくせ2日と面倒を見ることなく、犬の世話は全て辰伶に押し付けられた。

 いつも勝手気ままな異母弟だが、この時ばかりはその無責任さに辰伶は腹を立てたものだった。だからと言って犬の世話を断りはしなかった。どんな形であれ仔犬との再会は嬉しかったし、昔から犬を飼ってみたいと思っていたからだ。

 そしてふと気付いた。いくら螢惑が身勝手な人間だとしても、今回の行動は彼にはそぐわないような気がした。螢惑は決して責任感が強いとは言い難い性格だが、しかし生物の命を玩ぶようなことはしない。ああ見えて、螢惑は生物が好きなのだ。

 螢惑が拾い、辰伶が仕方なく世話をしているという形であったから、ミロクを飼うことができた。それが螢惑の気まぐれでなく、最初から予定した行動であったとしたら。そう仮定してみた途端に、思いも寄らなかった螢惑の像が視えた。

『犬の名前?…そんなの考えてなかったなあ。辰伶がテキトーに付けといてよ』

 捨てられていた仔犬に対する辰伶の想いを、もしも螢惑が知っていたのだとしたら。

 辰伶と螢惑は異母兄弟だ。それぞれの母は愛人と正妻という対立する関係であったから、2人が積極的に友好な関係を結ぶことは無かった。誰に対しても何に対しても、どこか冷めた目をしている螢惑は、異母兄の存在にも同じく無関心なのだと、辰伶は思っていた。

 しかしミロクの一件以来、辰伶は意識的に螢惑の言動を見るようになった。そして時折、螢惑が強い視線を辰伶に向けていることに気付いた。それがどんな感情の現れなのか解からない。螢惑の琥珀色の瞳の底では、燠火のような苛立ちが微かに揺れていた。それは彼の家庭を壊した女の息子に対する憎悪なのだろうか。

 ミロクのことは果たして気紛れの偶然か、それとも螢惑の奥深い優しさなのか。辰伶には螢惑の心が解からなかった。


 散歩から帰った辰伶は、ミロクに仕上げのブラッシングをしてやった。夕暮れて薄ら鈍い紫の空に白い月が在る。中途半端に欠けた月は高くも低くもないどっちつかずな位置に在って、辰伶とミロクの足元に輪郭の無い蔭りを作っていた。

「ミロク」

 呼びかけに敏感に反応して、ミロクが辰伶を仰ぎ見た。

「このまま……螢惑のことを好きでいてもいいだろうか…」

 もとより犬が答えを返す訳はないのだが、ミロクは素知らぬ様子でそっぽを向いた。呟きを完全に聞き流された形になった辰伶は、溜息混じりに苦笑した。









 そして春、螢惑は家を出た。








『春に芽吹く』