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ボクの先生は
(吹雪様誕生日企画より)
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余り知られていないことだが、太四老の吹雪は低血圧だった。朝にめっぽう弱く、寝起きから3時間は使い物にならない。しかし生来真面目で責任感の強い彼は、普段から無駄に夜更かしせぬよう心がけ、午前中に用事がある時は根性で早起きして、その時間までに脳髄と身体を覚醒させるようにしていた。
意外と思うか、それとも当然と思うか知らないが、太四老は多忙だ。この日も吹雪は午前から予定が入っていた。午後にしろよ、コンチクショーと思いながら、吹雪は布団の中で己の体質と闘っていた。傍から見ればただモゾモゾと蠢いているだけにしか見えないかもしれないが…
それでも普段ならばこれほど苦労はしないのだ。昨晩、吹雪は低血圧の人間には禁断ともいえる時間帯まで起きて仕事をしてしまった。その熱心さの報奨がこの地獄の苦しみである。
「……村正………殺す………」
予定があるにも係わらず何故そんな夜遅くまで仕事をしていたかといえば、それは太四老が長、村正の陰謀による。陰謀とは穏やかならぬ表現だが、吹雪はそう確信している。吹雪は昨日の会議のことを思い出し、苦々しさに敷布を握り締めた。吹雪がこんな目にあっているのも、村正のサトリの能力の所為だった。
壬生一族は様々な特殊能力を有するが、村正は人々の心を読む。それがサトリだ。彼には周囲の人々の心の声を、まるで耳が音を拾うように当たり前に聞いてしまうのだ。それは村正が意識する、しないとは関係なく、大声で怒鳴るような声もあれば、囁くような声もあり、時折、村正自身も今聞いたのは実際の声なのか心の声なのかと混同することもあるらしい。
吹雪と、そして同じく太四老のひしぎは村正とは長い付き合いであり、村正のサトリの能力に対処する術も身に付けていた。こちらから意識して語りかけぬ限り、村正に心の中を読まれることは無い。しかし、勘違いしてはいけない。村正のサトリの能力の恐ろしいところは、単純に他人の心を読むことではない。『村正は他人の心を読む』と、人々がそう認識していることすら武器なのだ。
例えば、ここで会議が開かれているとしよう。例えばではなく、実際に昨日、会議があったのだ。議題となっている問題は解決が極めて困難であり、話し合いは難航、建設的な意見もなく、ついには沈黙が室内を埋め尽くしてしまったときに、議長の村正がこう言った。
『吹雪、それは良い案ですね。判りました。この件は貴方に一任しましょう』
村正がサトリの能力を持つことは周知の事実である。そんな彼がこのようなことを言ったとすれば、吹雪の内に何か名案があり、それを読んだ村正が、全面的に支持したのだと誰もが思うだろう。勿論、吹雪に名案などある筈もなかった。そんなものがあれば、とっくに発言しているところだ。
このように村正は問題の解決を全て吹雪1人に押し付けて、長く退屈であった会議に終止符を打ったのだった。そんな理不尽な流れで任されてしまった仕事であるが、しかし真面目で責任感の強い吹雪はそれを投げ出すことは無く、きちんと取り組んだ。こうして心ならず夜更かししてしまい、その結果が今朝のこの状態である。
「…腹黒エセ聖人……いつか……殺す………」
低血圧で活力が最低レベルであるため、悪態にも力が入らない。いや、それより問題なのは、起きねばという意志に反して、身体がちっとも動き出そうとしないことだ。このままでは遅刻をしてしまう。
今日は吹雪たち太四老の弟子となる子供達との初顔合わせとなる大切な日だった。初日から寝坊しては、今後の弟子の指導に差し障る。
「辛そうですね、吹雪」
「……ひしぎ……か……」
「私の気配にも気付かないなんて、昨夜は随分遅くまで無理しましたね」
いつの間にか傍らにひしぎが立って、倦怠感と格闘している吹雪を見下ろしていた。
「………面目ないな」
「まあ、こんなことではないかと思いましたから、薬を持ってきました。さあ、これを飲んで、さっさと支度を調えてください」
「…世話になると言いたいが……この薬は大丈夫なんだろうな?」
「当然です。私が調合したのですから」
だから心配なのだと吹雪は思ったが、安全性の確認など、どーでも良くなるほど身体が怠かったで、大人しくひしぎから薬を受け取った。
無明歳刑流、本家。
名門の誉れ高きこの家は、美形を多く排出していることで有名だった。その名に恥じず現当主も美形だったが、彼の2人の息子たちの顔貌の美しさは、それを更に凌ぐものに成長するであろうと、人々に想像させるに十分であった。それ程可愛らしい息子たちを、現当主はこよなく愛していた。
息子のうち、兄の方は辰伶という。礼儀正しく、また素直な気性で、他人を疑うことを知らない。その純真な笑顔には誰もが魅了された。
弟の方は螢惑という。螢惑は妾腹の生まれで、辰伶とは異母兄弟ということになる。ごく最近まで他所で他人に囲まれて暮らしていた。その寂しい境遇のせいか表情に乏しく、少し子供らしからぬ陰りがあった。
そういう事情のある兄弟であるが、2人は大変仲が良く、辰伶は異母弟である螢惑を可愛がり、螢惑は異母兄である辰伶を慕っていた。
いつも同じ時間に規則正しく目覚める辰伶は、その日の朝も健康的に目を覚ました。温かい寝床にそれほど未練無く、すぐに身を起こそうとしたが、間近に聞こえる寝息に、そっとそちらへ顔を捩る。辰伶にピトと体をくっ付けて、螢惑が仔猫のように眠っていた。その可愛らしさに、辰伶は螢惑の額に掛かる金の髪を、そっと指で掻き分けた。
螢惑にも自分の部屋があり、夜は別々に寝るのだが、夜が明けてみるといつも螢惑が辰伶の布団の中に入り込んでいた。独りで寝るのが寂しいのかと思うと、そんな弟が辰伶には可愛くて堪らない。弟って、どうしてこんなに可愛いのだろうと、いつもいつもうっとりしてしまう。そして僕はお兄ちゃんなんだと、感動の余り胸がジーンとしてしまうのである。
「螢惑、朝だよ」
「……」
螢惑はますます布団の中に身を縮こませ、更に辰伶にくっ付いてきた。
「駄目だよ。今日はちゃんと起きなきゃ。父上が言ってたでしょう。今日はとても大事なご用があるって」
「ん……」
辰伶は身を起こすと螢惑の傍らにちょこんと正座して、彼の肩を軽く揺すって覚醒を促した。辰伶の体温が離れていった為に、螢惑は微かに睫を震わせた。柔らかそうな瞼がゆっくりと開いて、まだ眠そうに紗の掛かった琥珀色の瞳が現れた。
「お早う、螢惑」
「……」
辰伶の声を、まだぼんやりとした風情で聞いていたが、やがて螢惑は大きく欠伸をした。ゴソゴソと身動ぎ、辰伶の体を這い登る様にして抱きつくと、彼の左の頬にキスをした。
「え……」
辰伶はキョトンと大きく目を見開いて、彼の知らない行為をした弟を、呆然と見詰めた。
「おはよ。…どうしたの、辰伶。なんで朝から固まってんの?」
「だって、今の……何?」
辰伶は螢惑の唇が触れた頬を左手で押さえながら、これまで経験の無かった感触に戸惑っていた。
「ただの朝の挨拶だよ。知らないの?」
螢惑は、今度は辰伶の右の頬にキスをした。そこへ、襖が開いて、彼らの父親が姿を現した。
「お早う、辰伶。おや、螢惑もいるね。お前達は本当に仲がいいなあ。パパは嬉しいよ」
「父上…」
「しかし、今日は大事な日だと言っておいただろう。それなのに何時まで経っても起きて来ないからどこか具合でも悪いのかと、パパは心配になってしまったよ。何かあったのかね?」
御当主様の問いに、螢惑がぶっきらぼうに答えた。
「別に。朝の挨拶してただけだよ。ね、辰伶」
「……」
螢惑とは対照的に、辰伶は困ったような顔をしていた。螢惑の言う「朝の挨拶」が、どうにも腑に落ちないのだ。
「父上。螢惑は辰伶の知らない挨拶をするのです」
「おやおや。一体どんな挨拶をするのかな?」
辰伶は父親を見上げ、ぎこちなくその頬にキスをした。
「!」
息子からほっぺにチュー… 息子からほっぺにチュー… 息子からほっぺにチュー…
御当主様の頭の中で、幸せの鐘が鳴り響く。可愛い! 何て可愛い息子たちなんだ! 素晴らしい贈り物をありがとう! 亡き愛妻たちよ…
「でも、こんな挨拶は、これまで誰ともしたことがありません。これは本当にちゃんとした朝のご挨拶なんでしょうか」
螢惑は父親へ素早く目配せをした。御当主様はそれに対して小さく頷いた。
「辰伶。ちょっとそこに座りなさい」
辰伶は黙って父親の前に正座した。
「辰伶。今、お前がしたのは……ええと…あ、そうだ。無明歳刑流の正式な朝の挨拶だ」
「そうなんですか」
「そうだ。家族にはこのように挨拶するのが、正しい作法だ。お前はこの家の継承者として、この正式な挨拶をしっかりと身に着けねばならんぞ」
「はい。父上」
御当主様と螢惑は、辰伶からは見えない様にこっそりと……ガッツポーズした。
「さあ、早く身支度を調えなさい。今日、お会いするのは、お前達の師となって下さる尊い方々だ。遅刻などして、迷惑をかけてはならんからな」
「僕たちの師匠となって下さるのは、どんな御方なのでしょう」
「喜びなさい。素晴らしいことに、お前達をご指導して下さるのは、太四老の方々だ」
それを聴いて、辰伶は瞳を輝かせた。
「本当ですか!」
「そうだ。これは本当に光栄なことだから、心して修行に励むのだぞ」
「はいっ」
「それからいつも言っている通り、しっかり気を引き締めて、他人の前で迂闊に帯を緩めてはならんぞ。相手が例え尊敬する師であってもだ」
「はい。解かりました。…でも、それは何故なんですか? 前から疑問に思っていたのですが」
「それは……だな。ええと……あ、そうだ。それは大変無作法なことだからだ。特に大人の前では絶対に着物を脱いではならんからな」
「はい。解かりました」
螢惑も無言で頷いていた。ああ、なんて素直で可愛い子供達だろう。これで「パパ」と呼んでくれさえすれば完璧なのに…と御当主様は思った。
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