+・+ 末期の部屋 +・+
龍のゆりかご
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家の者が全て寝静まった夜半過ぎ、蒼い月光の降り注ぐ中、清らかな浄衣姿の青年が庭に立ち、2階の窓を見上げた。神鏡を月にかざし、何事か囁く。すると神鏡から一匹の竜が、滑るように飛び出した。瑕の無い水晶を金剛石の刀で彫り上げたような鱗の一枚一枚に、月の光が淡く宿る。
青年は銀色に輝く髪を靡かせて、真っ直ぐ竜の背に立った。竜身を差し伸ばさせて、見上げていた窓へと近寄らせる。部屋には女が1人眠っているのが、窓ガラス越しに見えた。神鏡に月光を反射させて、窓ガラスに照射する。ガラスの板が水のように波紋を描いた。青年は竜の背を蹴り、その中心目掛けて飛び込んだ。続いて竜も、その身を縮小させながら侵入した。ガラスは砕けるどころか全く抵抗も無く青年と竜を通過させた。
侵入者の気配に気付くことなく女は眠っている。青年の指示を受けて、体長を30cm程度まで小さくした竜は、眠る女の額の中心に潜り込んだ。その様子を青年は微動だにせず眺めていた。そして10も数えた頃合に、竜は入った処と同じ額の中心から顔を出し、瞬く間に神鏡へ戻った。その瞬間、部屋の照明がついた。
「来るんじゃないかと思ってた。…辰伶」
壁際の照明のスイッチに手を置いて、ほたるが辰伶を視凝めていた。
「ほたる、俺は…」
「解らないことはいっぱいあるけど……辰伶が本当は生きてるにしろ、死んでるにしろ、こんな風に人間の世界から弾かれてしまったのは、俺の母さんの所為なんでしょ。俺には『赦して』なんて言えない。でも…」
ほたるはベッドで眠っている女を視線で指した。
「でも、これは俺の母さんで、辰伶は俺の大事な…」
その先が続けられなかった。大事な異母兄か、友人か、幼馴染か。どれでもあり、どれでもない。言葉に尽くせぬほど、ほたるにとって辰伶は大事な人だった。
「ほたるが謝る必要はない」
「でも…」
「ほたるは悪くない」
そう言って微笑んだ。ああ、どうして今、この時にこの笑顔なのだろう。ほたるは泣きたくなった。
「ほたる、俺の方こそ、お前に赦しを請わねばならない。お前の母君をこんな状態にしてしまったのは竜神様だ。…いや、俺の所為なのだ」
「…どういうこと?」
「お前はどこまで知っている?」
「どこまで…って、辰伶と俺は異母兄弟だってこと。母さんが辰伶を……殺そうとして、心が壊れたってこと」
辰伶は瞳に哀しみを湛えて、ほたるに真実を語り聞かせた。
「あの日、俺はお前が神社に来るのを待っていた。お前の母君が家に来ると父から聞いたから、てっきりほたるも来るのだと思って、いつものように神社の鳥居の下で待っていた。しかしその日はお前は来なくて、俺はすっかり待ちぼうけを食ってしまった。…それはいいんだ。俺が勘違いしただけのことなのだから」
往時の小さな失態を思い出して、辰伶は照れくさそうに笑った。
「夕暮れ時になって、さすがにもうほたるは来ないだろうと判断して、俺は帰ることにした。その時に、偶然にもお前の母君に遇ってしまった」
ほたるは身を硬くした。それから先の出来事を聴くのは、辛い予感がした。しかし真実を知るためには、聴かずに済ます訳にはいかなかった。
「お前の母君に腕を掴まれ、俺は半ば強制的に滝まで引っ張られて行った。俺の死んだ母の元へ送ってやると言われた」
「…じゃあ、やっぱり母さんの所為なんだね。母さんと俺の所為で辰伶は…」
「少なくともほたる、お前の所為じゃない。それに、お前の母君だけに責任があるわけじゃない。本当の発端は……俺の母の死だ」
それは全く想像外の言葉だった。辰伶の母親なら、この事件の3年も前に死んでいる。死者がどうして関わることができようか。真相を何も知らないほたるは、辰伶が語るのを黙って聴くより無かった。
「気が強いようで、その実、母は弱い人だった。自らを憐れんだ母は、刃物で喉を突き、滝壺に身を投げた」
その時に辰伶はその場に居たと、ほたるは父親から聞いていた。改めて残酷な話だと、ほたるは思った。幼い彼にその場面は酷く生々しいものだっただろう。しかし辰伶は当時の己の感情面には一切触れずに、出来事だけを新聞記事のような簡潔さで語った。
「母の自殺を目の当たりにしたショックで、俺は高熱を発したとされたが、事実はそうではない。俺は母の代わりに、竜神様の怒りを受けていたのだ。母は罪を犯した。清浄を何よりも好む竜の神域を、生臭い血で汚してしまったのだ」
熱に浮かされながら、辰伶は地獄絵を見せられた。血に狂った竜が恐ろしげな顎で、辰伶の母の身を噛み砕く。死した人間は再び死ぬことはなく、何度も何度も果てることなく苦しむ母の姿を見て、辰伶は竜に祈った。自分にできることなら何でもするから、母を赦して欲しいと。
「竜神様は聞き入れて下さった。俺のこの身を捧げれば、母の罪を赦して下さると仰られた」
「そんな馬鹿なことって…お前に罪は無いじゃない。どうして自分を犠牲にするの?」
「俺の選択が正しかったのか、間違っていたのか、今となっては考えても詮無き事だ。俺は納得し承知した。それが全てだ」
しかし、これまでの生活、家族、友人、人生を捨て去るには、余りに未練が多すぎた。辰伶は、せめて親しい人たちに別れを告げる時間が欲しいと頼んでみた。その頃には竜も怒りを鎮め、幾らか機嫌も快復していたので、3年の猶予を辰伶に与えてくれた。そして、せっかくだからこの3年の間に、舞を身に付けて来いと言った。熱が引いた辰伶は、早速、父親に頼んで舞を習わせてもらった。
「3年の猶予を頂いたが、既に俺の身は俺のものでなく竜神様のものだ。だから、俺を手に掛けることは、竜神様の持ち物に手を出すのと同じなのだ。そんなことなど知る由もないお前の母君は…いや、俺とてまさかこんなことになるとは、思いもよらなかったのだが…」
己の所有物である辰伶に手を掛けた女を、竜は見逃しはしなかった。女の精神に鍵爪を引っ掛け、狂気の世界へと引きずり込んだ。一方、首を絞められ滝壺に突き落とされた辰伶は、地上で起こったことなど何も知らず、竜神の御子たちに助けられた。そして、そのまま竜神の元で暮らすこととなった。残り3日程で、約束の3年だったからだ。ただ、一度だけ地上に戻った。竜神に仕える為に誂えておいた舞扇を取りに行くのと、ほたるに別れを告げる為に。
「この身はとっくに竜神様に捧げられたものだから、それならもう、他人の幸福の邪魔はすまいと思った。誰よりも、血を分けた弟で、大切な友人であるほたるが幸せになるなら、これ以上、望むものは無いと思った」
「ごめん……辰伶…ごめん…」
「謝る必要はない。ほたるは何も悪くないのだから」
「辰伶だって、何も悪くない」
辰伶は首を横に振った。
「俺のことを忘れないで欲しいと、お前に願っておきながら、俺は竜神様に頼んで、過去の記憶を全て封印してもらった。お前との別れが悲しくて堪らなかったから」
「……」
「ほたるは母君がこんな状態になってしまって、悲しかっただろう。心を狂気に攫われてしまったお前の母君も憐れだ。お前に悲しみを負わせておいて、それなのに俺は全てを忘れて竜神様の元で幸福に暮らしていたのだ。…お前を忘れたことが、俺の罪だ」
辰伶はほたるの首の後ろへ両腕を回し、唇を重ねた。それを介して何かがほたるの中に入り込み、また出て行った。
「今度は俺が覚えているから。ほたるのことを永遠に愛しているから。ほたるは俺のことは忘れて…」
ほたるの意識はぼんやりとして、夢見心地に『誰か』の声を聞いていた。何を言っているのか解らなかった。やがてその言葉さえも、ほたるの中から消えた。
誰のものか判らない雫が、頬を冷たく滑り落ちた。
我に返ると、そこは母親の部屋だった。
「……?」
何の為にこんなところで独りで突っ立っているのか、ほたるには記憶が無かった。まだ明け方前だ。寝ぼけたのだろうか。
「…夢遊病の気なんて、あったかなあ…」
独り語ちると、母親が身じろいだ。起こさないように、ほたるはそっとドアに向かった。その時、か細い声がほたるの耳の鼓膜を微弱に刺激した。
「…たる…なの……?」
息を呑んで振り返ると、母親の両の目が確かな意志をもってほたるを視凝めていた。
「ほたる…なの?」
「母さん…俺が解るの?」
「何だか見ない内に、すっかり大きくなっちゃって…びっくりしたけど、やっぱりほたるね」
数年ぶりに聞く確りした母親の声に、ほたるは涙が溢れた。
「まあ、どうしたの?お前がそんなに泣くなんて。何か悲しいことでもあったの?」
「解らない…。胸が苦しくて……涙が止まらない……」
とても大事なものを永久に失ったような、そんな痛みに胸が潰れそうだった。ほたるには全く理由の解らない涙が、後から後から溢れた。
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