+・+ 末期の部屋 +・+
龍のゆりかご
-6-
(epilogue)
規則正しさとは無縁とみられるほたるにも、奇妙な日課がある。
水を満たしたマグカップに水晶玉を入れ、壁際のチェストの上に置く。たったこれだけのことで、そこには宗教的な意味もなければ、実用的な理由も無い。ほたる自身も、どうしてこんなことをする必要があるのか、何が切っ掛けで始めたのか、全く覚えが無い。しかし、これをしないと、どうにも落ち着かない。
玄関の呼鈴が鳴った。宅配業者が荷物を届けに来たようだった。そういえば先日、父親が何かを送ったと、電話で連絡してきた。ほたるの持ち物が、父親の所有品の中に紛れていたのだそうだ。
品物はさして大きくなかった。軽い。ほたるとは正反対に、神経質で慎重な性格の父親は、懇切丁寧且つ厳重に梱包して送って来たので、中身を取り出すのは非常に手間だった。ほたるは床に座り込んだ。梱包材の下には更に梱包材。ロシアの民芸品を思い出す。
やっと姿を現したそれを見て、ほたるは憮然と呟いた。
「…俺のじゃないじゃない」
それは日本舞踊で使う扇子だった。よく使い込まれているそれは、明らかにほたるの持ち物ではない。息子がこんなものに縁が無いことくらい判りそうなものだが、とうとう親父もボケたか…
「…でも……俺のじゃないけど…何か懐かしいような……これの持ち主、知ってる気がする。誰だろう…」
しばらく無言で舞扇を視凝めていたほたるは、つと立ち上がり、チェストの上のマグカップを手に取った。置き場所をローテーブルに移し、カップに向かって呼びかけた。
「辰伶」
何も起こらない。ほたるは胡坐に肩肘をつき、剣呑さを滲ませた声で再び呼んだ。
「…辰伶、聞こえてるんでしょ」
マグカップから、ひょっこりと銀色の髪の頭が覗いた。真っ白な浄衣に身を包んだ小人は、驚きの表情で、ほたるを見上げていた。
「おかえり、辰伶」
「何故…どうして…?」
ほたるの記憶は完全に消した筈だった。信じられないという思いが、辰伶の唇から呟きとなって零れ落ちた。ほたるは小さな辰伶を掌に乗せて、目の高さに上げた。
「辰伶が言ったんだよ。『忘れないで』って」
舞扇に込められた辰伶の願いが、ほたるの記憶を呼び覚ましたのだ。幼かった頃の2人の約束は、時を越えて果たされた。
言葉にならない想いが、辰伶の胸を満たす。衝動を抑えきれず、辰伶はほたるの胸に飛び込んだ。ほたるの腕の中で、辰伶は本当の大きさになっていた。
「俺が辰伶を忘れるわけないじゃない」
光が弾けたように、2人は微笑んだ。もう2度と忘れない。例え、時間が2人を引き裂いても、きっと出会う。どんなに遠くに離れても、絶対に逢いに行く。
別れなんて言わない。もう言わせない。それが2人の、新たな約束。
おわり
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