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龍のゆりかご

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 週末は予ねてから定めた通りに、ほたるは退院した母親に逢いに行った。早朝から電車を乗り継ぎ、昼前に到着することができた。父親も仕事が休みで家にいた。代わりに、いつも母親の世話をしているヘルパーは休みで居なかった。

「母さん…」

 返事は無い。彼女の心は現に無く、夢幻の廻廊を彷徨っているのだ。その姿は哀しいとも憐れとも思う。しかし、それだけでは済まされないことを、ほたるは知ってしまった。

「これは…罰なの…?」

 辰伶の過去の中に、母親の罪があった。辰伶の首を絞め、ぐったりとしたところを滝壺に突き落としたのだ。その罪の意識に、母親の精神は耐えかねたのかもしれない。ならば自業自得だ。同情すべき理由は無い。

 しかし、ほたるは母親を憎むことも軽蔑することもできなかった。怒りも湧かなかった。大事な友人を殺したのが自分の母親であるということは、ほたるに悲しみと苦しみしか齎さなかった。

 理由が知りたいと思った。どうして母親は辰伶を殺す必要があったのか。知ることによって、何かが取り戻せるということはないし、心が晴れるはずもないが、どうしても知る必要があると思った。過去の映像は、辰伶の意識が眠ってしまうのと同時に消えてしまったので、全ての状況が視えたわけではない。また、それは辰伶の視点であった為に、母親の心の中までは知りようもなかった。

 同じ映像を、辰伶も視ただろう。初めて飲んだ酒に酔って眠り込んでしまった姿はとても平和で、あんな惨劇に命を散らしたなんて、とても信じられなかった。それが却って胸に痛くて、ベッドで安らかな寝息をたてていた辰伶の寝顔を、ほたるは祈るような気持ちで見守った。そのままいつしか眠ってしまい、気付いたときには、朝の光の中に辰伶の姿は無かった。

 過去に自分の身に起こったことを知って、辰伶はどう思っただろう。このままでは辰伶に逢えないと、ほたるは思った。どんな顔をして逢えばよいのか解らなかった。それでも辰伶に逢いたくて、その為には真実を知らねばならないと思った。だから、ほたるは両親のもとに訪れたのだ。

 ほたるは意を決して、父親の部屋の扉を叩いた。

「聞きたいことがあるんだけど」

 珍しく話しかけてきた息子に、父親は少々驚いた様子で部屋に迎え入れた。

「何だ?」
「ここに越してくる前の家のことなんだけど、あの辺りに俺と同じ歳くらいの子供が住んでなかった?」
「子供?」
「知らないかな。ちょっと珍しい名前で『辰伶』っていうんだけど…」

 そこでほたるは中断した。父親の顔色が目に見えて変わったからだ。父親は落ち着かない動作で煙草を取り出し火をつけた。深く吸った煙を吐き出すことで、動揺を鎮めようとしているのが、傍目にも解った。

「知ってるんだね。…ねえ、辰伶って何者なの?」
「そうか…そこまでは知らないか…」

 そう呟くと、やがて父親は覚悟を決めたらしく、煙草を灰皿に強く押し付けた。仕事用の机の引き出しの奥から何かを取り出し、2つの品をほたるの前に提示した。

「これ…」

 どちらもほたるを驚かせるのに充分な品だった。1つは写真で、ほたるの父親と辰伶と辰伶似の女性が写っていた。もう1つは、ほたるが辰伶から貰った舞扇だった。

「辰伶は私の子。…お前の、母親違いの兄だ」

 頭を酷く殴られたような衝撃を受け、ほたるは言葉も出なかった。そして、ふと思い当たることがあることに気付いた。

「異母兄弟ってことは、親父と母さんが連れ子同士で結婚したわけじゃないんだよね」
「……」
「…待って、それじゃ……昔、親父と母さんが一緒に暮らしてなかったのは……ちゃんとした結婚相手じゃなかったから…ってこと…?」

 父親は頷くことで肯定の意を表した。それはほたるが両親の不義の下に生まれたことを意味していた。

 それに続く父親からの説明と告白を、ほたるは不思議なほど冷静に聴くことができた。それは理性や自制心によってではなく、全ての機能が絶望感に侵され、感情が麻痺してしまったからに過ぎなかった。


 父親にとって最初の婚姻、つまり辰伶の母親との結婚は周囲が決めたもので、2人の間には最初から愛情など無かった。ただ、その女は家柄は良く、財産もあり、何よりも素晴らしい美人だったので、愛着はあった。

 しかし妻の良家の子女然とした気位の高さを次第に疎ましく思うようになり、なけなしの愛着心も程なくして涸れ果てた。そんな頃に出会ったのがほたるの母だった。淡白な妻とは対照に、情熱的な性格の彼女にすっかり絆され、男はついに離婚を決心した。金で済むなら、全財産を失っても構わないと思った。

 ところがその矢先に、妻が妊娠していることが解った。離婚のことを切り出せぬままに、子供は妻の腹の中で順調に育ち、やがて辰伶が産まれた。男は離婚を諦め、今度は不倫の関係にあった女と別れることを考え出した。しかしそうして切り捨てるには、彼女に対する未練が大きく、迷っている間に今度は彼女の方が妊娠し、ほたるが産まれたのだ。

 夫の不貞を知っても、妻は詰るどころか聊かも関心を示さなかった。しかしそれは全く表面的なことであって、プライドの高い妻の矜持は激しく傷ついていたのだ。それは常人には理解しがたい捻じれた行動として表出した。彼女は辰伶を連れて外出した上で、夫には予告無しにその愛人と子供を家に呼び寄せた。抗議行動の一種だと思うのだが、夫は妻の考えが解らず薄気味悪く思った。嫌味で当てつけがましい妻の行為は、疎ましいばかりだった。

 そんなことが何度かあり、その日の妻と子の外出も、いつもの抗議行動だと思っていた。しかしその日は愛人とその子供の来訪はなく、妻と子は夜になっても帰って来なかった。さすがに不審に思って捜索したところ、近くの神社の裏にある滝壷のほとりで倒れている辰伶を発見した。意識が無く血塗れだったことに蒼白となったが、その血は辰伶が流したものではなかった。滝壺には辰伶の母親の自刃した遺体が浮いていた。辰伶は、母親が自ら命を絶った瞬間を目の当たりにして、激しくショックを受けたのだろう。高熱を出して気を失っていた。

 病院で意識を取り戻した辰伶は、母親のことに関して、父親を責めることも詰ることもしなかった。それどころか、父親を慰めさえした。辰伶の心根は優しく純粋で、真っ直ぐに父親を慕っていた。その時になって、男は初めて妻の為人を知ったような気がした。彼女がこの子供を育てたのだ。

 夫婦の確執は根深く、今更、亡き妻を愛することはできなかったが、その代わりに、彼女の忘れ形見となった辰伶に愛情を注いだ。もともと子供に対しては愛情があったので、尚更愛しく思った。

 それを快く思わなかった人物がいた。愛人であった女、ほたるの母親である。

 男の妻が死に、彼女は漸く正式な妻になれるはずだったが、話はすんなりと進まなかった。それを全て辰伶の所為だと邪推した訳だが、それは強ち外れてもいなかった。彼女を後妻に迎えることで、辰伶が肩身の狭い思いをしないかと、父親は危惧したのだ。

 亡き妻がそうしていたからか、それとも子供心に遠慮してか、ほたるたち母子が来る日は、いつも辰伶は出掛けてしまっていた。そんな辰伶の態度を反抗的で可愛気がないと、ほたるの母親は決め付けた。それで余計に話が上手く纏まらず、先妻が亡くなってから3年もの間、内縁の状態でいたのだ。


 それまで相槌を打つことも無く、無言で父親の話を聴いていたほたるが、ぽつりと呟いた。

「だから…母さんは辰伶を…」

 これで筋が通った。母が父と結婚するのに、辰伶の存在を邪魔に思ったのだ。自分達母子の幸せの為に、辰伶の幼い命は奪われた。

 過去の話を聴いているうちに、ほたる自身も思い出した場面がある。母親に連れられて行った父親の家はどこか不穏な感じがして、落ち着けなかった。恐らく結婚の話が拗れていた為だと、今なら解る。

 そんな内情のことは当時は知らなかったが、ただならぬ雰囲気であることは、子供特有の敏感さで感じ取っていた。居た堪れなくて、庭の片隅で目的も無く穴を掘っていた。

 穴に石ころを入れて埋め戻し、こんもりと土を盛る。小枝を突き刺し、草花を乗せた。また別の穴を掘り、また同じようにした。そんなことを繰り返していて、ふと気が付くと、いつの間にか正面に見知らぬ子供がいた。それが辰伶との出会いだ。

 辰伶は黙って穴掘りの手伝いをしてくれた。共同で作業をしているうちに仲間意識が芽生えたのか、ほたるはこれまで誰にも言ったことのなかった自身の不安を、辰伶にうち明けた。父親が母親に冷たいのは、自分のせいだろうか。自分が何か悪いことをしたから、母親は父親から叱られているのだろうか…

『ほたるは悪くないよ』

 心細く言い募るほたるに、辰伶はそう断言した。そして、ほたるを安心させるように、綺麗に綺麗に微笑んだのだ。

『大丈夫だよ。ほたるが悪いことなんて、全然ないんだから。ね、笑って』

 それから近くの神社に行って、穴掘りで土まみれになってしまった手や顔を、手水舎の水で洗い流した。夕暮れ近くまで遊び、辰伶に送られて父親の家(つまりは辰伶の家)に帰った。道すがら、辰伶は言った。また悲しいことがあったら、一緒に遊ぼう。でも、自分と仲良くしていることは、絶対に母親に言ってはいけない。自分は神社の鳥居の下で待っているから、気付かれないようにおいで…

「辰伶は、俺が異母弟だってこと、知ってたんだ。だから俺のことを心配してくれて、遊んで慰めてくれたんだ。でも、俺と辰伶が仲良くしてることを母さんに知られたら、俺が怒られると思って、それで内緒にして…」

 その為に、自分達が来るたびに家に居ないと、反抗的だと、辰伶はほたるの母親から余計に憎まれてしまったのだ。

「辰伶こそ、何も悪くないのに。どうして殺されなきゃならないの?」
「…何を言って…」
「解ってる。母さんが、辰伶を殺したんでしょ」

 ほたるの呟きに、父親は瞠目した。

「違うぞ。それは違う!」
「庇わなくてもいいよ。母さんじゃなかったら、誰が辰伶を殺すっていうの」
「辰伶は死んでなどいない!」

 今度はほたるが大きく目を瞠った。

「…いや、解らない。生きているのか、死んでいるのか…」
「待って。ねえ、辰伶はどうなったの?死んだんじゃないの?だったら、どうしてここに居ないの?」
「解らない。行方不明だ。攫われたのか、何か事故に巻き込まれたのか…殺されてしまったのか。辰伶は消えてしまった。神隠しにあったのだ。少なくともこの件について、お前の母親は絶対に関与していない」
「…何でそんなことが言えるの」
「不可能だからだ。辰伶が最後に消えた日は、お前の母親は入院していた」
「…『最後に消えた日』…?」

 奇妙な表現だ。そう思ったことが、鸚鵡返しに口から出た。父親はほたるの疑問について説明した。

「お前の母親の心が壊れたのは、お前達が遊び場にしていた滝だ。…辰伶の母親が自殺した場所でもある」

 そして、辰伶を養い子とした竜の棲み処でもある。よくよく因縁の場所だ。

「彼女は虚ろな瞳で滝壷の畔に座り込んでいた。何があったのか聴いても譫言ばかり。しかしその呟きの中に辰伶を滝壺へ突き落としたかのような発言があった。そして辰伶は家に帰って来なかった」
「じゃあ、やっぱり母さんが…」
「滝や沢を浚い、山の中も捜索したが、辰伶は発見されなかった。真相は解らぬまま、お前の母親は入院することとなった。その日に、辰伶は姿を現した」
「え!?」
「尤も…私は姿を見てはいないのだが…」

 意味ありげな視線を、父親はほたるに投げた。それが妙に引っかかったが、ほたるには心当たりは無かった。短い逡巡の末に、父親はほたるに訊ねた。

「この舞扇のことは、覚えているか?」
「忘れる訳がない。別れの印にって、辰伶が俺に…」

 卒然として、ほたるは大きな齟齬に気付いた。これまでほたるは、その別れは自分の方に理由があってのことだと思っていた。母親が遠方の病院へ入院することになり、父親もそちらへ移住することになったから、もうここへは来られない。それゆえの別れであったと、極自然に思っていた。

 しかし、辰伶が父の息子であるなら、話は全然違ってくる。勿論、当時ほたるは辰伶が異母兄弟であることを知らなかったから、早まって別れを言ってしまったとしても不思議ではない。しかし、それとて一時的な誤解で済んだはずだ。辰伶が父親の下で暮らしているのなら、別れ話の余地は無い。

「お前からこれを見せられた時は、心底驚いた。お前達を引き合わせたことなどなかったから、まさかこんなに親密な仲だとは知らなかった。しかしお前は辰伶が異母兄だということは知らない様子だったから、尚更複雑な思いをした」
「うん。異母兄弟なんて知らない。辰伶は大事な友達だった。だから今まで稽古で使ってた舞扇をくれるって。舞扇を新しくしたから…」

 父親は頷いた。

「新しい舞扇は、辰伶の要望で、私が特注で作らせた。どうしてもと辰伶が言うので、子供には不釣合いな程立派な品になってしまったが、滅多に我侭を言わない子が、珍しくねだったものだからな…」

 当時を想い、父親の声には懐かしさと後悔が入り混じっていた。

「お前の母親の入院手続きをした日が、舞扇の納品の予定日だった。私はお前の母親に付き添っていたし、第一に舞扇どころではなかったから、すっかり忘れていた。夜になって思い出して、店主に連絡したところ、もう品物の受け渡しは済んでいるという。そんな筈はと思って詳しく訊いてみれば、辰伶が受け取りに来たと言うのだ。行方不明である筈の辰伶が、だ。店主は辰伶とも顔馴染みだったし、支払いも済んでいたから、何も疑問に思わずに渡したそうだ。店主は辰伶が行方不明だということは知らなかったのだ」

 ほたるは混乱した。それが本当なら、確かに母親は辰伶を殺してはいない。では、あの辰伶の過去の映像は何だったのだろう。

「辰伶は舞扇を受け取りに来た時に、もう1本持っていたことを店主は覚えていた。それもその店で誂えたものだったから、よく覚えていたのだ。それがこの舞扇だ。辰伶は新品の舞扇を受け取り、その足で、お前に今まで愛用していた舞扇を手渡しに行ったらしい。それが最後の目撃情報だ」
「え…」
「つまり、状況的に最後に辰伶に逢ったのは、ほたる、お前なのだ」

 ほたるは愕然とした。

「辰伶は、お前に何か言っていなかったか?何でもいい。手がかりになりそうなこととか、思い出せることはないか?辰伶の遺体は見つかっていない。死んだと決まった訳ではない。どこかで生きている可能性もある」
「『僕のこと、忘れないで。ずっと覚えていてね』…そう言って、辰伶は微笑って…」

 ほたるも父親も、顔を強張らせた。辰伶の最後の言葉。死に際の者が発する最期の願いのように、切実で透明であることが、その言葉を不吉な印象にした。それを打ち消すために、ほたるは強く言った。

「遺体は見つかってないんだよね。だったら生きてる。辰伶は…」

 ほたるは、ハッと気付いた。

「辰伶は竜に守られて、今でも生きてるんだよ!」

 神隠しだ。竜神が辰伶を隠してしまったのだ。


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