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龍のゆりかご

-3-


 辰伶という不思議な子供に出会ったのが半月前。それからというもの、ほたるは辰伶がいつでもこちらに来られるようにと、水を満たしたマグカップに水晶玉を入れた状態にして、壁際のチェストの上に置いていた。水が濁らないようにと毎日取り替えて、辰伶の訪れを待っているというのに、しかし、あれから何の音沙汰も無い。

 その間に母親の退院があった。週末あたりに顔を見に行こうと思いながら、上手く都合が付かないでいる。現実世界と縁を切った母親は、そんな息子を薄情と思うことさえないだろう。それを幸いというのか不幸というのか、ほたるには解らない。彼女の内なる世界が現実よりも心地よい場所であることを、せめて願う。

 気の毒な母親のことを想って沈みがちな日々に、ほたるの辰伶に逢いたい気持ちは募った。長いこと忘れていた幼馴染の笑顔が、当時の輝きのままに再現されたことは奇跡に違いない。辰伶の正体が何であろうと、人であろうと無かろうと、全く大した問題ではない。

 辰伶に逢いたい。ほたるの意識は時間の上っ面だけを滑ってゆく。早く逢いたい。いつ逢えるだろう。今日こそ逢えるだろうか。明日は?明後日は?…

「…変なカンジ。恋人でも待ってるような気分…」

 殆ど無駄に思える日々でも着実に時間は流れ、買い置いてあったアルコール飲料もきっちり消費されてしまった。ほたるは渋々と近所のスーパーに出掛けた。買い物は好きではない、面倒だから。

 普段通りにアルコール飲料の缶ばかり籠に入れていたが、ふと思い立ってオレンジジュースの缶を手に取った。

「子供はお酒は飲めないよね」

 それから菓子だ。子供といえば菓子が好きに違いない。ほたるは菓子のコーナーへ行って、スナック菓子やチョコレートなど、次々と籠へ放り込んだ。

 結果、明らかに買い過ぎたと解る大量の荷物を提げて、ほたるはアパートに帰りついた。そこでほたるは驚きに遭遇した。薄暗い部屋の中では1人の美しい青年が正座し、ほたるを待っていたのだ。

「お帰り、ほたる」

 ほたるの名を呼んで、青年は微笑んだ。白い浄衣姿に銀の髪。ほたるは慌てて部屋の灯をつけた。

「…辰伶?」

 青年ははにかむような仕草で頷いた。あの子供がこの青年。ほたるは驚愕で頭を混乱させながら、吸い寄せられるように辰伶の前に立った。辰伶も立ち上がって、ほたるを迎えた。

「『お帰り』なんて、俺が言うのは変だな。ここはお前の家で、俺の家ではないのに」
「うん…。辰伶こそ、お帰り。…あ、俺が『お帰り』って言うのも変だね。『ようこそ』とか、『いらっしゃいませ』とか、言うんだよね」
「確かに。…でも、『お帰り』と言われて、変だと感じるよりも、むしろ嬉しかった」
「じゃあ、これから辰伶が来たら『お帰り』って言うことにする」

 表情に乏しいと言われる自分の顔を、ほたるは初めてありがたく思った。一言発する度に動悸は速くなり、返される一声一声に異常に胸が高鳴る。辰伶がこんなに綺麗だったなんて。
 青年の姿となったことで、子供らしい優しい曲線がすっきりと洗練され、その精緻を極めた輪郭の美しさに、ほたるは目を奪われていた。銀の髪はより長く、首の後ろで1つに結わえられ、腰まで垂らされている。
 琥珀色の瞳だけが昔と変わらずに、澄んだ光と穏やかな親しみの中にほたるの像を結んでいる。

「…何で、急に大きくなったの?」

 こんなに急激に綺麗になるなんてズルイ。『不意討ち』とか『闇討ち』とか『騙まし討ち』などといった卑怯な色合いの単語が脳裏を過ぎる。あ、やられた…っていうか、討ち取られちゃった…みたいな?

「年に1つだけ、竜神様が願いを叶えてくださるから、ほたると同じ歳にして頂いたのだ。やはり目上の者に対して敬語を使わずに話すのは難しいから…」
「同じ歳ならタメ口も平気って?お前らしいよ。でもさ……何で俺より背が高いの?」
「え?…ああ、本当だ」

 そこで辰伶が嬉しそうな顔をしたので、ほたるは不機嫌になった。こんなことなら敬語禁止なんて下らない願い事するのではなかった。身長を20センチ高くしろと言えば良かったと、心底後悔した。


 さて、肉体は青年のそれだが、精神の方はどうなのだろう。いや、そもそも子供の姿だった頃とて、果たして外見と中身の年齢は一致していたものかどうか。子供だった辰伶は礼儀正しい言動が大人びて見えたし、青年となってもその純真な瞳に曇りは無い。

 子供か青年か。精神的な話は置くとして、ほたるは辰伶をもてなすのに、ジュースにするべきか、アルコール飲料にするべきか、その点で迷っていた。肉体的には大人だが、ついこの間まで子供だった相手にアルコールを勧めて良いものだろうか。やはりジュースの方が無難に違いない。

 結局、オレンジジュースを選択した。辰伶(子供)の為に用意した菓子も、残らず供した。小高い菓子の山に辰伶は目を丸くしている。

「好きなの開けていいよ。何なら全部食べていいから」
「いいのか?」

 一瞬、辰伶は嬉しそうに相好を崩した。しかし、すぐに口元を引き締めて、首を横に振った。

「1つだけでいい」
「遠慮しなくていいのに」
「こんなに沢山一度に食べてはいかん。お菓子の食べ過ぎは体に良くない」

 生真面目にそんなことを言う辰伶を、ほたるは可愛いと思った。どうやら菓子は好きなようだ。1つだけと決めてしまった所為で、どの菓子の封を開けようか真剣に迷っている。やがて、チョコレート菓子の箱を手にとって、ほたるに伺いを立てた。

「これ、開けてもいいか?」
「ご自由に」

 辰伶はいそいそと箱を開けて、幸せそうにチョコレート菓子をつまんだ。辰伶の主観的な時間は基本的には子供のまま止まっているのだろう。酒類はやめてジュースにして正解だったと、ほたるは思った。

「そういえば、ほたるは夕食はいいのか?」

 急に思い至ったらしく、辰伶は心配そうな顔をした。

「突然、予告も無く俺が来てしまったせいで、迷惑かけてしまっているのではないか?」
「ううん。全然。晩飯なら、コレだから」

 ほたるは自分の前に並んでいるアルコール飲料の缶を指した。意味が解らなかったようで、辰伶はキョトンと首を傾げた。

「ちゃんと酒でカロリー摂取してるから、いいの」
「酒が飯の代わりだと!?体を壊してしまうぞ」
「大丈夫。朝と昼はちゃんと食べてるし、若いから」
「若いうちからそんな生活をしていてはいかん」
「……お前、ホントはいくつなの?ひょっとして、すごくジジイ?」
「失敬な。お前とは半年しか違わん」

 衒いも無く口にされたその言葉に、ほたるは驚いて辰伶を視凝めた。しかし当の辰伶は、そんなほたるの視線も気付かずに、美味しそうにオレンジジュースを飲んでいる。

「…辰伶、昔のこと、覚えてないんじゃなかったっけ…」
「昔?いつの昔だ」
「昔って言ったら、昔だよ。俺達が一緒に遊んでた頃のこと」
「昔…か…」

 辰伶の琥珀の瞳が、真っ直ぐにほたるを映した。視線はほたるの顔に注がれたまま、辰伶は髪を結わえていた紐を解いた。その仕草に艶を感じて、ほたるの心臓は大きく鳴った。

 一瞬、何かを期待してしまったほたるだが、辰伶は解いた後ろ髪を二つに分け、それぞれ三つ編みにしだした。慣れていないらしく、不恰好な三つ編みが2本出来上がった。それでも辰伶は満足げに笑みを浮かべ、ほたるの背後に廻って、その背中に覆いかぶさった。

「ちょ……何?」
「昔のほたる」

 辰伶はおさげにした自分の髪を、ほたるの左右の肩越しに前に垂らして、クスクスと笑った。密着した体からその振動と体温が伝わってくる。

「ほたるは髪をこんな風にしてた」

 あ、と、ほたるは思った。辰伶の突飛な行動の訳が解った。昔はほたるも辰伶のように髪が長くて、いつもおさげにしていたのだ。結ってくれていた母親が入院してしまったので、切ってしまったのだけれど。

「辰伶……俺のこと、思い出した?」
「ああ」
「何で急に?てゆーか、辰伶、何か変じゃない?」

 ふと、辰伶が飲んでいたジュースの缶を見て、ほたるは目を瞠った。

「ゴメン、間違えた!これ、オレンジジュースじゃない。オレンジ・サワーだ」
「サワー?…ジュースとは違うのか?」
「アルコールが入ってるんだよ。軽いけど、れっきとしたお酒。大丈夫?気分悪くない?」
「別に何ともないぞ。お酒って、ジュースみたいに美味しいんだな」
「いや……これはそういうお酒だから…あーっ!ストップ!もう飲んじゃだめ!」

 辰伶が飲もうとするのを、その手から無理矢理もぎ取って阻止した。それに対して辰伶は不満を訴えた。

「どうして?美味しいし、気分がいいし、ほたるだって飲んでるし…」
「俺はいいの」
「どうしてほたるはいいんだ?ずるいじゃないか」

 テーブルに並ぶ新しい缶の1つをさっと掠め取り、辰伶は素早く開けて一気にあおった。

「あ、バカ!」

 途端に辰伶は噎せてしまった。ジントニックはオレンジ・サワーのように甘くはないのだ。

「何だ、これは…」
「だから、お酒だってば。ほら、貸しなよ。飲んであげるから」

 それでも諦めきれないようで、辰伶は甘くない酒を再び口にした。舐めるのが精々だ。慣れない味に顔を顰めながら、尚もアルコールに執着する。

「強情だなあ。美味しくないんでしょ。何でそんなに飲みたがるの?」
「…もっと、昔のことを思い出したいから…」
「え?」
「さっきから……何だかフワフワして、色んなことが頭の中を巡るんだ。忘れた筈の両親の顔……竜神様との出会い……ほたると遊んだこと……これは絶対にお酒のせいだと思う。もっと飲めば、もっともっと……昔のほたるに逢えるはずだ」

 その言葉に、ほたるは胸が熱くなった。もっと辰伶に思い出して欲しいという欲求が高まり、ついに打ち克てなかった。肉体的には辰伶は立派な成人なのだ。飲み慣れていない筈だから無茶をしてはいけないが、量を気をつければ問題ないという思考に支配された。

「…じゃあ、さっきの甘い方にしなよ。飲みやすくていいでしょ」

 先ほど取り上げた缶と、辰伶が手にしている缶を交換した。辰伶は嬉しそうにジュースのような酒を飲んだ。

「どう?何か見えた?」
「ああ。…凄いぞ。今まで俺が過ごしてきた時間が全部ある…」
「全部って、一度に全部?どんな見え方してるの?」

 辰伶は唐突にほたるの頭部を抱き寄せた。

「見せてやる」

 あの時の神鏡を取り出し、互いの右と左のこめかみをくっつけて、覗き込むように見させた。神鏡にぼんやりと影が映った。何の像か見極めようと視線を凝らすと、影は急激に鮮明になった。

「俺だ…」

 それは幼い頃のほたるの映像だった。過去の幻影がまるで実体のようにほたるの意識に肉迫する。鏡を見ているという意識は薄れ、自身が直に映像世界の中に在るかのような感覚に陥った。

 その空間には辰伶の過去が無限に点在し、ほたるの視界を掠めた。その1つにほたるが関心を抱くと、忽ちそれが飛来する。別の映像に興味を持つと、こんどはそちらが展開する。金色の髪をおさげにした子供、辰伶に面差しの似た美しい女性、舞の師、…
 映像の中に辰伶自身の姿が無いのは、これが、彼がその目で見たままの過去だからだろう。

 これが辰伶の瞳に映っていた自分。ほたるは我知らずに、子供の頃の自分を追い続けた。不思議な位に笑った顔ばかりだ。こんなに辰伶のことが好きだったのかと、幼い笑顔に過日の想いを蘇らせた。

『僕のこと、忘れないで。ずっと覚えていてね』

 これは別れの日の辰伶の言葉。そうだった。辰伶はそう言って、記念にと舞扇をほたるにくれたのだ。どうして失くしてしまったのだろう。大事にしようと思ったのに。宝物にすると、辰伶に約束したのに…

 懐かしくも切ない想いに浸っていたほたるは、ふと、彼方に黒い靄のような映像があるのに気付いた。何となしに興味を持つや否や、ほたるの意識体は忽ちその中へ呑み込まれてしまった。その中で見た映像に、ほたるは驚愕の余り瞠目した。

「母さん!?」

 辰伶の過去の中に、思いがけず母親の姿を見つけたことに、ほたるは動揺した。何故か胸騒ぎがする。この先のことは知らない方がいいと、ほたるの頭の中で激しく警鐘が響いていたが、最早目を逸らすことはできなかった。

『お前さえ、いなければ』

 これは、母親の声。

『僕がいると、ほたるが幸せになれないの?』

 そして、辰伶の声。

 青白い手がするすると伸びて首に絡みつく。やめて!と、ほたるの意識体は叫ぶ。母さん、やめて…

 窒息の感覚。水に落ちた衝撃。流れに翻弄される体。そしてその先で待ち受けているのは、暗い水底で光る竜神の紅い眼…


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