+・+ 末期の部屋 +・+
龍のゆりかご
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下宿先のアパートに帰った途端に、携帯電話が鳴った。父親からだ。玄関のドアに鍵を掛けながら、片手間に通話ボタンを押す。
「何?……ふうん、いつ?……解った。週末にでも行くよ」
要件のみの会話は短く、施錠したほたるが、靴を脱ぐ前に終了した。父親が嫌いな訳ではない。ただ、父親と息子という関係に慣れていないだけだ。血の繋がった実の親子なのだが、一緒に暮らした記憶も事実も無い。今更、取って付けたように安否を気遣ったり、近況を語ったりなどしたら、不自然さに却って気まずくなる。恐らくは父親も同じ思いで、少しぞんざいに、必要最小限の言葉で、息子との会話を済ませるのだろう。
母親の退院の日が決まったという報せだった。ほたるの母親は長く心を病んでおり、入退院を繰り返していた。近頃は落ち着いてきたので、また自宅で療養することになったのだそうだ。母が家に戻ったら、逢いに来るようにということだった。逢ったところで、彼女はほたるが自分の息子であることさえ認識できないのだが、それでもかけがえのない母親だ。
幼い頃、ほたるは母親と祖母の3人で、父親とは離れて暮らしていた。その辺りの事情は詳しく聞かされていない。二世帯住宅の隣には伯母夫婦の家族が住んでいて、母の様子をよく案じてくれていた。伯母夫婦には子供が多く、賑やかないとこたちと兄弟のように育ったので、父親の姿の無い家でもほたるの境遇はそれ程寂しいものでは無かった。
母親の心が壊れ、遠方の病院に入院が決まった時、父親は病院の近くに家を建て、移り住んだ。その時にほたるも父親と暮らす話が出たのだが、学校のことを理由に、祖母の家に留まることを強く希望した。転校が煩わしかったのも嘘ではないが、それよりも、一緒に暮らしたことのない父親と生活を共にすることが不安で躊躇われたというのが、一番の理由だった。祖母が亡くなった時に、再びその話が持ち上がったが、同じ理由で断った。
決して嫌いではないのだが、結果として、父親との関係は非常にたどたどしいものとなってしまった。大学に進学し、アパートで独り暮らしを始めて、ようやくお互いに少しだけ肩の力を抜いて話すことができるようになったが、家族らしく打ち解けるのは難しいだろうと感じている。
「…まあ、俺ぐらいの歳だと、親父と会話が無いなんて、普通に普通だけどね…」
無体に放られた鞄が、それを受け止めたベッドのスプリングに揺すられて無気力に転がった。投げた次いでの動作で冷蔵庫を開けて中を検分する。最近は買い物をサボっていたので、ろくなものが入っていない。トマトとスモークチーズで適当に肴を作り、アルコール飲料の缶2本をローテーブルに無造作に並べた。これで夕食は終わり。食生活が乱れているなあと思いながら、改める気は無い。他人に対してもだが、ほたるは自分自身のことにも無頓着な漢だ。
無感動、無関心、無表情……何かと『無』の字を冠されるほたるだが、だからといって情緒が欠落しているわけではない。興味や好奇心の在り処や方向が、大多数の人間と違っているだけだ。ほたるは大学の構内で遭遇した出来事について、やや興奮気味に思いを廻らせていた。池から飛び出した竜。それを吸い込んだ鏡。非現実的だが実際にほたるの目はそれらを目撃した。そして何よりも、不思議な事象の中心にいた子供のことが、突き抜けて気になっていた。辰伶と名乗った子供は、あの辰伶だろうか…
変な表現だが、昔はよく、母親と2人で父親の家に行った。近くに神社があり、その高く聳える石段を登り詰めると、必ず鳥居の下に遊び相手は居た。それが辰伶だった。
いつから辰伶との親交が始まったのか、昔過ぎてはっきりとした記憶は無い。どのように出会い、何が切っ掛けで仲良くなったのか。確かなのは、辰伶に逢うことだけを楽しみに、父親の家に行っていたことだ。辰伶は必ず神社で待っていた。考えてみれば不思議なことだ。ほたるが父親の家に行くのは、母親の気分次第だったから、決まった日付や曜日ではなかった。勿論、2人の間に連絡手段などあろうはずも無く、それにも関わらず、辰伶は当たり前にほたるの訪れを待っていたのだ。
母親が入院し、父親が引っ越したので、ほたるはそこへ行く手段を失った。辰伶とはそれきりだ。別れの印にと、最後の日に辰伶から舞扇を貰ったが、宝物にすると言いながらそれも失くしてしまった。思い出して、ほたるは自分の薄情さに額を押さえた。あんなに辰伶のことを好きだったのに…
それはそれとして、今日、大学で出会った不思議な子供は、あの辰伶なのだろうか。桜色の鱗の竜を姉と呼んでいたが、辰伶が人間でないなら、姿が全く成長していないことにも納得がいく。本人である可能性は高い。そして幼馴染の辰伶がそんな不思議な力を持っていたのだとしたら、ほたるの訪れを正確に察知していたことにも、説明がつくのではないだろうか。
「でも、俺の名前を聞いても、全然覚えがないみたいだったなあ…」
10年以上も昔のことなので、忘れてしまったのだろうか。
「話したら思い出すかも…」
ほたるは床に座ったまま身体を伸ばして鞄を手繰り寄せ、中を探った。浄衣姿の子供から手渡された水晶玉を取り出す。これを水盤に沈めて名を呼べということだが…
取り合えずローテーブルの上の夕食の跡を片付け、水盤の代用品を求めてキッチンスペースを物色した。目に付いた茶碗を手に取り暫く眺めていたが、徐に中に水晶玉を入れ、水を注いだ。
「…いいのかな。こんなんで…」
空いたローテーブルに茶碗を据え置き、その前にして床に座り込んだ。
「辰伶」
もっと大きな声で呼ばなければダメだろうか。そう思った途端に茶碗から飛沫をあげて辰伶が顔をのぞかせた。
「お呼びにより、ただ今参上いたしました」
そう言って現れた辰伶は、昼間に見たよりも随分とミニサイズだった。
「何で…ちっちゃいの?」
「出口が小さかったので、大きさを合わせないと潜れませんでしたから」
「…ああ、納得…」
水からあがる為に辰伶が茶碗の縁に寄った。その為に重心が偏り、グラリと茶碗が倒れそうになった。水がこぼれては堪らないと、ほたるは慌てて辰伶を掴みあげた。不思議なことに辰伶の髪も白い浄衣も全く濡れていなかった。
テーブルに下ろされた辰伶は、部屋を見回して感嘆した。
「こちらがほたる様のお社ですか。珍しい造りですね」
「ええと…何を勘違いしてるか知らないけど、ここ、神社とかじゃないから。普通のアパート」
「……え?」
大きく目を見開いて、辰伶はきょとんとしている。
「俺、カミサマとか全然関係ないから。普通の人間だし」
「ええっ!?」
信じられないとばかりに、辰伶は驚愕の叫びをあげた。
「じゃあ、どうしてほたる様は私の存在を認識できるのですか!?」
「……」
謎、謎、そこかしこに謎。謎だらけの今夜は長くなりそうだ。
よくある造りの1Kのアパートの1室。無個性なシングルベッド。床に直置きにしたテレビ。吊るしっぱなしのジャケット。散乱したコミックや週刊誌。ラックに収まりきらないCD…
そして、折り畳み式のローテーブルの上には、茶碗サイズの小人さん……そこだけが局地的にメルヘンだ。メルヘンがほたるを見上げ、おずおずと言った。
「ほたる様はご自分のことを『普通の人間』と言われましたが、本当ですか?…すみません、お言葉を疑う訳ではないのですが…」
「逆に訊きたいけど、何で俺が普通じゃないと思うの?」
「それは…ほたる様がこうして私と普通にお話ししてるからです」
「それって変なことなの?…まあ、小人と話してるなんて、変には違いないけど」
「小人じゃありません」
唐突に辰伶は本来の大きさに戻った。
「うわっ…」
狭いテーブルの上で大きくなった為にバランスを崩し、ほたるの方へ倒れ込んだ。咄嗟のことに、ほたるは両腕を差し伸ばして辰伶の身体を抱きとめた。
「…すみません」
「…お前さ…しっかりしてるように見えて、なんか危なっかしいね」
「…面目ないです…」
ほたるは辰伶を抱えたまま、背凭れにしていたベッドに座りなおした。隣に辰伶を座らせて、話を再開した。
「そういえば、俺も変だなって思った。皆、お前のこと無視してたじゃない?…俺以外の奴は、まるでお前の姿が目に入ってないような…」
昼間、大学構内で辰伶を見かけた時に感じた違和感を、ほたるは思い出した。辰伶の姿が見えていない訳ではないのに、浄衣姿の子供という凡そその場に馴染まない存在を、誰も訝しがる様子は無かった。それ故に、ほたるは声を掛けずにいられなかったのだ。
「そうなのです。任務遂行の妨げにならぬよう、人々が私を見ても関心を持たぬように、この身に術をかけてあります。普通の人間なら、私のことは無視するはずなのです。でも、ほたる様は違いました。どうしてほたる様は私に気づくことができたのでしょう。とても不思議です」
それは確かに不思議なことだった。何故、ほたるには術が効かなかったのだろうか。根拠はないが、それこそが、この辰伶がほたるの幼馴染の辰伶である確かな証拠ではないかと、ほたるは思った。
「…お前は…何者なの?」
…俺の幼馴染じゃないの?ほたるの胸中で、期待が勝手に高まってしまう。懐かしさが溢れる寸前だ。
「池から出てきた竜を『姉』とか呼んでたけど、お前も竜なの?少なくとも人間じゃないよね。だったら、昔…」
「人間です」
「え、でも…」
「昼間の私の所業をご覧になって誤解されたのでしょうが、あれは竜神様からお借りしたもの。私自身には何の力もありません。私は竜神様の養い子であるというだけの、ただの人間です」
ただの人間。それではこの辰伶は別人なのか。ほたるはそうは思えなかった。容姿はそっくりで、名前も同じ。これを偶然の一言で片付ける方が無茶だろう。
「ええと…『竜神様の養い子』って、どういう意味?」
「私は竜神様に仕え、守護を頂いてます。竜神様は私の舞をとても喜んで下さって、実の子のように良くして下さいます。御子様方も私を兄弟同様に思って下さいますので、兄上様、姉上様と呼ばせて頂いております」
なるほど。それで、あの桜色の竜を『姉上様』と呼んでいたのだ。
「竜神様の御子様方は各地の沼や滝壺などに散っておられるのですが、近頃では使える通水点も減って、往来が難しくなってしまいました。1番末の佐久良毘売(さくらびめ)様が、人工池に取り残されてしまいましたので、憐れんだ竜神様が私を迎えに遣したのです」
「通水点って?」
「竜族が移動に使う道です。清らかな湖沼や滝、泉、霊的な力の強い池などにあって、これらは全て繋がっています。この通水点を利用することによって、遠方の地でも一瞬で移動することができるのです。ほたる様に渡した水晶玉もその一種です」
「ふうん。便利だね」
「その通水点も、最近では人の手によって護岸されたり、汚染されたりして、繋がらなくなってしまったものが多いです。特に人間の街中にあるものは、もう殆どが使えません。佐久良毘売様がお住まいだった池もそうです。そこからは他の通水点も遠く、すっかり身動きがとれなくなってしまいました。幸いこの辰伶は人の身なので、地上を不自由なく移動できます。それで竜神様から神鏡を託され、佐久良毘売様を迎えに行くようにと仰せつかったのです」
ベッドに座っていた辰伶は降り立ち、ほたるの前に畏まった。
「佐久良毘売様をお連れするのに力を貸して下さいまして、ありがとうございました。竜神様もとても感謝していました」
「別に大したことはしてないけど」
「是非ともお礼をしたいのですが、何かお望みのものはございませんか」
「…別に欲しい物なんて無いなあ…」
「どうぞ何でも仰って下さい。この辰伶の力が及ばぬようなことでも大丈夫です。年に1度、竜神様が私の望みを1つだけ叶えて下さる日があります。もうすぐその日ですから、その時に頼むことができます」
「へえ…すごいね」
ほたるは暫く考え込み、徐に願いを口にした。
「2つあるけど、いい?」
「仰ってください」
「じゃあ、まずは1つ目。俺の名前を呼ぶときは『様』をつけないこと」
「……え?」
「2つ目は、俺に対して敬語を使わないこと。簡単でしょ。できるよね」
「それは…簡単ですが…」
「あ、もう失格」
「できます!…じゃない、できる。……でも、どうして?」
財産、地位、権力、奇跡の力…その気になれば、どんな願いも叶えられるのに、ほたるが口にしたのは、それらとは全く無縁の他愛の無いことだった。拍子抜けた様子で、辰伶はほたるを視凝めた。
「…友達には『様』なんて付けないし、敬語なんていらない…」
「え…?」
「…『ほたる』って名前に、覚えない?昔、そんな名前の子供と遊んだ記憶は無い?」
そこには予想外に真摯な双眸があるのを、辰伶は見たに違いない。ほたるはこの子供が幼馴染の辰伶であると、もう信じて疑うことができなかった。
「神社の鳥居の下で、いつも辰伶は待ってた。遊び場は、殆どその神社の境内で……そうだ、滝があったよね。神池の脇から神社の裏山に行く道があって、それを登っていくと、大きな滝があった…」
思い出を語るにつれて、ほたるの記憶は更に鮮明になり、場面はより詳細に、次から次へと溢れるように浮かんだ。滝の後ろの岩壁には不動明王像が安置されており、その横に大きく口を開けた岩屋には何十体もの石仏と、色鮮やかな風車が立ち並んでいた。深い滝壺の水は清らかに澄み、魚の姿も見えた。滝壺から流れ落ちる沢に下りて、ほたると辰伶は水遊びをした。水飛沫が夏の日差しにキラキラと眩しく、辰伶の銀色の髪も虹のように輝いていた。それがとても綺麗だと告げると、辰伶は笑って言った。ほたるの髪も、虹みたいに綺麗だよ。ほたるが大好きだった、輝くような辰伶の笑顔……笑顔…
「…ねえ、知らない?**県の**ってところだけど…」
「生憎と…人の呼ぶ地名では判りません。…でも、その滝は恐らく竜神様の滝です」
「やっぱり」
「でも……ああ、判りません。ほたる様が…」
「『様』はいらない」
「ほたる…が…」
酷く言い難そうに、辰伶は言葉使いに気をつけながら、戸惑う心境を訥々と述べた。
「ほたるが、私の幼馴染で、一緒に遊んだことがあるなんて……判らない……思い出せ…ない……」
「そりゃあ、本当だったら辰伶も俺と同じだけ成長してなきゃ、おかしい。どうしてか知らないけど、こんなに歳が離れちゃってて、それは説明付かないけど…でも、辰伶は本当に普通の人間なの?」
「……人間…だ…」
「でも…」
「…でも、本当の意味では、もう人間ではないのかもしれない…」
頼りなく呟き、辰伶は肩を落とした。ほたるはその時になって、自分の言葉が辰伶を傷つけてしまったことを理解した。
「ごめん」
ほたるは辰伶の身体を抱き寄せた。小さな肩。細い手足。それはどうしても子供のそれで、ほたるは哀しくなった。
「ほたるは悪くない」
抱き締められながら、辰伶は小さな子供の手で、ほたるの髪を優しく撫でた。その感触に、ほたるは身体を離して辰伶を視凝めた。
「ほたるは悪くないよ」
そう言って、辰伶はほたるの好きな笑顔を見せてくれた。過去にも同じことがあった。同じセリフで、同じ仕草で、同じ笑顔で、辰伶に慰められたことがある。そうだ。その瞬間に、辰伶を好きになったのだ。その時から、辰伶の笑顔が好きだったのだ。
「…私の一番古い記憶は、竜神様の御前で舞扇を手にしているところだ。…それ以前のことは何も覚えてない。どうして自分が人の世から外れてしまったのか…」
本当に何も解っていないのだろう。そのことに疑問を抱いたことも無かったようだ。
「そうだ。舞だ」
卒然として、ほたるは重要なことに気づいた。
「最後の別れの日に、辰伶は俺に舞扇をくれたんだ。確か…『舞扇を新しくしたから、これまで練習に使っていたのを、別れの印に貰って欲しい』って、そう言った。辰伶はね、舞をするんだよ。さっき、お前は言ったよね。『竜神様は私の舞をとても喜んで下さる』って」
「ああ、そうです!私は舞が得意なのです。人間の頃の記憶は無くても、私は舞うことを知っていました」
「舞が好きなんだね」
「大好きです!」
ほたるが舞のことを話題にすると、途端に辰伶は華やいだ声をあげた。少しはしゃいだ仕草で、言葉使いもすっかり敬語に戻っている。その事に辰伶自身も気付いたようで、『しまった』というような顔をした。それがとても可愛らしくて、ほたるの顔も綻んだ。
「ねえ、俺は別に幼馴染の記憶が欲しい訳じゃないんだ。辰伶との思い出は、確かに大事だけど、それよりも俺は、辰伶が欲しい」
「え…?」
変な表現をしてしまったことに気付いて、ほたるは訂正した。
「…つまり、お前と友達になりたいんだよ」
その言葉を聞いて、辰伶は破顔した。
「はい。喜んで」
こちらこそ宜しくお願いしますと、辰伶はお辞儀をした。そして慌てて今の行動を訂正した。
「すみません。敬語は使わない約束でした。今度会うときまでに、練習をしておきます」
生真面目で、律儀な性格だ。記憶の中の幼馴染も、そんな性分だったことを、ほたるは思い出した。
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