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龍のゆりかご

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 人にも物にも頓着しない漢。それがほたるに対する周囲の印象であり、ほたる自身も自分が細かいことに拘らない性格であることを知っている。

 そんな彼が、さっきから気になって気になって仕方のないものがある。とにかくそれは目立っていた。異質であり、異常なことだと思った。

「何で…こんなところに子供がいるの?」

 大学の構内は、基本的に関係者以外の立ち入りは禁じられている。とはいえ、いちいちチェックしている訳ではないから、不可能なことではない。学生など知らない顔の方が余程多いのだから、部外者が紛れ込んでいたところで、誰も気づきはしない。

 しかし、それが子供となれば話は別だ。大学構内には小さな林があり、休息用のベンチが点在している。その1つに腰掛けて、ほたるは昼食に菓子パンを齧っていたのだが、先程から林の中の小道を行ったり来たりしている子供がいて、それがとても気になっていた。

 教職員の子供で、親に連れられて来たのが、はぐれてしまって迷子になっているのかもしれない。だとしても、この姿はどうだろう。真っ白な浄衣に差袴。神社の子供だろうか。足袋や草履の鼻緒などに至るまで全身白一色だ。髪も白銀に輝き、それを結わえている紐だけが紅色で眼を惹く。

 何よりも奇妙なのは、これほど場所にそぐわない存在を、ほたる以外の誰もいぶかしむ様子がないことだ。その子供を、すれ違う通行人がぶつからぬよう避けているから、姿が目に入っていないということはない。確かに見ているのに、誰もこの子供に関心を寄せないのだ。一体どうして、この風変わりな子供を無視していられるのだろうか。

 子供は何かを探しているらしい。何か金属製らしき丸い板状のものを、両手でしっかりと胸に抱きかかえ、途方に暮れた視線をあちらこちらへと彷徨わせている。

 ほたるは昼食のゴミを鞄にしまい、腰を上げた。所謂義侠心というものを、ほたるは持ち合わせていない。情が薄いと、同級生から非難されたことさえある。迷子の面倒を見てやるような性格では全く無いのだが、この子供が余りに不思議だったので、近づいて声を掛けた。

「何、探してるの?」

 子供は非常に驚いて、ほたるを見上げた。大きな瞳を見開いて硬直している。

「あの…貴方は……?」
「俺はここの学生だけど。おまえ、何か探してるんでしょ」
「はい。あの…この辺りに池はありませんでしょうか」
「池?」

 大学の構内に池などあっただろうか。適当に記憶をひっくり返してみる。

「そう言えば……この林の奥に小さな池があったような」
「この奥ですか」
「…確か……埋めたてるとかで、工事中じゃなかったかなあ…」
「埋めてしまうんですか!」

 急がなければと、子供はほたるが指し示した方向へ駆け出した。ほたるも後を追った。一本道なので慌てない。のんびりと歩いていくと、子供は工事用のフェンスの前で茫然としていた。何処か侵入できる場所を探すつもりなのだろう。フェンスに沿って歩き出した。

 今日は工事は休みらしく、工事車両用の出入り口には厳重に鍵が掛けられていた。子供はフェンスを見上げた。攀じ登るつもりだろうか。

「中に入りたいの?」

 声を掛けると、子供は再び驚いて振り返った。

「はい。せめて、池がどのようになっているのか知りたいです」
「ふうん」

 ほたるは予告も無しに、一気に子供を肩車した。

「うわっ」
「どう?見えた?」
「は、はい。見えます。ああ、良かった。まだ無事だ。あの、すみません。このまま、あの木のところまで行ってもらえますか?」

 フェンスの傍らに大きな木が生えていた。言われた通りそこまで行くと、子供は草履と足袋を脱ぎ捨て、ほたるの肩から頑丈そうな木の枝に移った。そこからもう少し上の枝に登ると、池に向かって身体を落ち着かせて、金属板にみえたものを掲げた。神社の祭壇などで見かけたりする神鏡だ。ほたるも近くまで登ってみた。

「姉上様」

 池に向かって、子供は呼びかけた。

「姉上様、お迎えに上がりました」

 池の水面がざわついた。突如として激しく渦を巻き、その中心に、ほたるは信じられないものを見た。桜色に光る鱗。空想上の存在である筈の竜が、飛沫を上げて頭を擡げたのだ。

「どうぞ、こちらへ」

 子供の招きに応じて、桜色の竜は池を飛び出し、身をうねらせた。あ、と思う間も無く、それは子供が手にする神鏡の中に飛び込み消えた。

「今の…何?」

 ほたるの呟きは聞こえていないようだ。子供は大切な用事をやり遂げたことに充足したらしく、安堵の息を洩らした。

 先ずはほたるが木から飛び降り、子供に手を貸した。神鏡を抱えている為に酷く難儀をしていたが、ほたるの助けを得て、何とか子供も地面に降り立つことが出来た。脱ぎ捨ててあった足袋を着け、きちんと草履を履くと、ほたるに対して姿勢を正し、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。お陰様で、姉上様を無事に竜神様の元へお連れすることができます」

 子供は丁寧に礼の言葉を述べると、感謝の気持ちを率直に瞳に湛え、輝くような笑顔で、ほたるを見上げた。それまでほたるは、今の不思議な出来事に対して問い質したい気持ちでいっぱいだったのだが、それらは全て消し飛んでしまった。この子供の笑顔が、ほたるの古い記憶を強烈に刺激したのだ。

「辰伶…?」

 呟きを洩らして、ほたるは我に返った。何を言っているのだろうと、ほたるは自ら否定した。ほたるが思い浮かべたのは、辰伶という名の、幼い頃に別れてしまった幼馴染だった。随分と昔のことだ。

 しかし、幾らよく似ているからといって、この子供が辰伶である筈はないのだ。半年だけとはいえ、彼はほたるよりも年上だったのだから。ほたると同じ青年であるはずだ。

 過去と現在の狭間で幼馴染の面影を追っているほたるを、子供の大きく澄んだ瞳が映していた。躊躇いがちに、子供が声を発した。

「あの…」
「ああ、ゴメン。ちょっと知ってる奴に…」
「私の名をご存知のようですが、以前にお会いしたことがございましたでしょうか」

 知人に似ている者がいたと言うつもりが、子供の言葉に中断された。

「…お前の名前……辰伶なの?」
「はい」

 決してありふれた名前ではない。こんな偶然があるものだろうか。驚愕の余り、ほたるは茫然と言葉を無くした。

「申し訳ございません。私は貴方様がどなたか思い出せません。どうか、お名前をお聞かせ願えますでしょうか」
「…ほたる」
「ほたる様…ですか。…すみません。お名前を聞いても思い出せません。ほたる様はどちらのお社の神様でしょうか?」
「…は?」

 何を尋ねられたのか、さっぱり解らなかった。ほたるが答えあぐねていると、子供は突然声を上げた。

「いけない!早く姉上様をお連れしなくては。後程、改めてお礼に参りとうございます。ほたる様のお社に近い通水点はどちらになりますでしょうか?」
「つうすいてん?」
「ああ、いけない。通水点は竜族の道でした。ほたる様がご存知のはずないのに、うっかりしてしまいました」

 子供は懐から直径3センチメートルくらいの水晶の玉を取り出し、ほたるに手渡した。

「ほたる様のご都合の宜しい時に、これを水盤に沈めて、辰伶の名をお呼び下さい。直ちに参上いたします。今日は本当にありがとうございました」
「あ、ちょっと…」

 早口でそれだけ言うと、子供は慌しく駆けて行ってしまった。この一連の奇妙で不思議な出来事が白昼夢ではないということは、ほたるの手の中に確かに残された水晶玉が証明していた。


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