+・+ 吹雪様誕生日企画 +・+

雲より遥かな

-8-


 絶望を抱えて、俺は家に逃げ帰った。全てが壊れてしまった俺には、ここしか居場所は残されていなかった。

 誰も居ない家。夕暮れて室内は薄暗かったが、灯をつける気になれなかった。色彩を失った空間の中で、何もかもが下手くそな影絵のように輪郭をぼやけさせている。薄闇の中にあっても、長年慣れ親しんだ物の形は正しく感知できるらしく、ぶつかることも、つまづくこともなく自分の部屋に辿りつき、ベッドに身を投げ出した。

「…終わった…のか?」

 何が終わったのだろう。自分の口から出た言葉だというのに、意味が解からない。終わってしまうような、一体何が俺にあったというのだろう。

 俺の部屋。ここは、孵らずに死した雛の、さしずめ卵の殻という訳だ。俺を守る最後の最後の砦。

 無造作に床に置かれた大きなクッションが、ほたるの定位置だった。あれに凭れて寛ぐ形が、俺が思い浮かべるほたるの一番自然な姿だ。

「…ほたる」

 部屋の片隅に慎ましやかにある小さな整理ダンスは、最近購入したものだ。ほたるがいつでも泊まれるように、パジャマやインナーが入っている。他にも彼の歯ブラシや整髪剤などの日用品。教科書、ノート、筆記具。それから服やアクセサリー類なども数点。

 テーブルに投げ出されたままの雑誌はほたるが持ち込んだもの。キャビネットには揃いのマグカップが2つ。キッチンにだって、ほたる用の箸と茶碗が置いてある。これではまるで同棲していたみたいじゃないか。

 これまで何気なくそこにあった物が、全て化石になってしまったかのように虚しい。俺はやっと気付いた。ほたるの前で綺麗な人間を演じていたのは、ほたるが俺にそう望んだからではなかった。ただ単に、俺がほたるに嫌われたくなかっただけなのだ。

 ほたると体の関係を持つことを恐れたのも、この体に刻み込まれた他の漢の存在を覚られたくなかったからだ。極々単純な話で、俺がほたるに見捨てられたくなかったから、嘘と偽りで塗り固めて隠していただけ。やっと気付いた。ほたるだけには、こんな俺を知られたくはなかった。

 いつだって俺は気付くのが遅いのだ。気付いた時には手遅れで、その度に俺は愚かになっていった。愚かな自分を正当化する為に無理な言訳をして、矛盾に気付かない振りをして、自ら傷を深くしていた。

 もう終わりだ。終わりにしてしまおう。吹雪様に縋るのも、もうやめよう。狂への未練も、もう捨ててしまおう。俺にはもう何も無いのだから。ほたるを失った俺に、一体何が必要だというのだろう。何も要らない。この体も、心も、命も、全てが虚しい。

 カチャリと小さな音が薄闇に響いて、静かにドアが開いた。俺はそれをぼんやりと見ていた。ドアの奥の闇の中から、ほたるが現れた。

「鍵、開けっ放しだった。…無用心だね」

 俺はベッドに寝転んだまま、首だけでほたるを見ていた。

「忘れ物」

 ほたるはテーブルの上に扇子屋の紙袋を置いた。

「わざわざ持ってきてあげたのに、お礼も無し?」
「…すまない」
「『ありがと』って、言って欲しいね」

 ほたるは音も無くベッドの傍らに立って、俺を見下ろした。

「…あの漢と、寝た?」

 俺は無言で頷いた。

「狂とも?」

 頷きで答える。

「吹雪って人とも?」

 ただ頷く。

「…俺とは、恋人ごっこだった?」

 頷く。ほたるの眉間が険しくなった。

「…全部……嘘だった?…俺と居て楽しそうにしていたのは、嘘?」

 それは嘘ではない。ほたると一緒に居ることは、心から楽しかった。それだけは数少ない俺の真実。しかし、今更それを言って何になる。俺の言葉に嘘が無いと、どうやってほたるに証明すればいい。俺は何も言えなかった。首を振ることもできなかった。

 ほたるの両手が伸ばされて来るのを、俺はスローモーションのように見ていた。闇の中で仄白く浮かぶほたるの両手が、俺の首に掛けられた。

「……っ」

 凄まじい力で締め付けらた。呼吸を断たれ、頭の芯が酷く痺れた。頭蓋骨が急激に収縮して脳を圧迫しているみたいだ。苦しさに気が遠くなっていく。視界が朦朧として狭くなり、ほたるの顔がだんだん見えなくなっていく。

 意識が途切れる寸前で、急に喉が解放された。途端に空気が流れ込み、俺はめちゃくちゃに咳を繰り返した。

 浅ましく酸素を貪りながら、俺は自分自身を罵った。どうして俺は生命活動を維持しようとするのだろう。ほたるの手の温かさを感じながら死ねるなら、今の俺には最高の幸福だ。解放されたからといって、何も息を吸うことなど無い。僅かな酸素を残らず吐き出して、ほたるの手の中で息絶えてしまえば良かった。

 呼吸が整って落ち着くと、俺の胸の上にほたるの頭があった。俺の首に緩く手を掛けたまま、ほたるは俺の胸に突っ伏して、肩を小刻みに震わせていた。

 泣いている。俺のほたるが泣いている。

「……ぉ…ぁる?」

 声が潰れてまともに発音できなかった。ほたるが泣いているのに、声が出ない。俺は両手でほたるの頭を抱いた。柔らかな髪をゆっくりと撫でる。

「……これも……うそ…なの?」
「……」
「……ねえ………こんなふうに……優しくしてくれるのも……うそなの?」

 嘘でも本当でも、ほたるが思いたいように思えばいい。俺はほたるに優しくしたい。ほたるが望むことを何でもしてやりたい。

 ほたるはゆっくりと頭を上げた。眼は赤く、頬は涙に濡れていた。湿った頬に張り付いた髪を、そっと指で払ってやる。

「…辰伶が、狂のこと好きなのは……知ってた」

 驚いた。俺はマジマジとほたるを見詰めた。

「最初に出会った時から、辰伶は狂ばかり見てたから。ああ、コイツ、狂のことが好きなんだって思った。…狂も、お前を見る時って、他の奴らに対するのと違うし。…何か……特別?…って感じだった。狂の女も特別だけど、それとも違ってて。…だから、お前と狂って、お互いに特別なんだと思った。ひょっとしたらこの2人、シたことくらいあるかもって……それくらいは思ったよ…」

 初対面でそこまで読み取ったほたるの洞察力には驚くばかりだった。普段はどこかぼんやりとした風情で、他人の話など聞いているのかいないのか判らないような印象だったから、これほど勘が鋭い漢だとは知らなかった。

「…お前が狂しか見てなかったから、何かムカついて……お前の眼を俺に向けさせてやろうと思った。だから、付き合おうって言ってみた」

 あの唐突な交際宣言には、そんな裏があったのか。ほたるの言う通り、俺は狂ばかり気にしていたから、ほたるのそんな気持ちには全く気付かなかった。

「そしたら…お前、付き合うって言った。全然その気も無いくせに。なんか余計にムカついて、お前のこと、狂から盗ってやろうって思った。…ちょっと違うかも。狂のことが眼中に無くなるくらい、俺ばっか見たくなればいいって、そう思った」

 何だか複雑な気持ちだ。俺がほたるの申し出に応えたのは、狂へ当てつける行為であったはずなのに、予想外にほたるに火をつけてしまったのか。

「俺を見ないお前が憎たらしくて……狂たちとWデートなんて嫌がらせしたし。…でも、後でバカバカしくなった。だって、お前は俺のこと何とも思ってないし、狂と狂の女がデートしてるとこなんて見たいわけないから、約束したって来るわけないじゃない。だから、俺は行く気なんて全然無くて…寝てた」

 忘れもしない。ほたると初めてデートをした日。ほたるは寝坊して大遅刻をしたのだ。こんなに時間にルーズな漢とは付き合えないと、俺は思ったものだったが、…そうか、お前は待ち合わせに来るつもりは無かったのか。

「…そしたら狂が呼びに来て、俺に言った。…辰伶は必ず待っている…って」
「……」

 あの漢がそんなことを言ったのか。俺は軽蔑されていると思っていた。まさか狂が俺のことを気に掛けてくれるなんて、夢にも思わなかった。

「辰伶…本当に待ってた。何か狂に負けたみたいで、凄く悔しかった。デート中も辰伶はやっぱり狂ばっかり見てて悔しかった。でも…」

 ほたるの瞳から、新たな涙がこぼれ落ちた。

「…でも、悔しいよりも…辰伶が来てくれたことが…嬉しかった。俺との約束…辰伶には全然楽しくない約束なのに、守ってくれてすごく嬉しかった」

 それは思ってもみない言葉だった。あんな小さなことが、ほたるをこれほど嬉しがらせたなんて、誰が想像するだろうか。そして、そんなことに喜びを見出したほたるの感性の美しさに、俺は心を洗われてゆくような気持ちになった。

「辰伶は…ずっと優しかった。俺が親父がダメで、家に帰りたくないって言ったら、黙って泊めてくれた。俺がどんどん踏み込んでも、拒否するなんてことなくて、全部…受け止めてくれた。辰伶なら何でも許してくれるような気がして、何だかすごく安心できた。辰伶の傍なら…眠れた」

 それはほたる、俺はお前に負い目があったから。優しくするのが当然だったから。…でも、そんなことはどうでもいいことだったかもしれない。俺はただ、お前と居るのが楽しかっただけなのだ。ただ、お前と一緒に居たかった。

「…あの優しさも嘘だった?…俺と居て楽しそうだったのも……全部嘘なの?」

 嘘ではない。その一言が、どうしても出て来ない。俺の胸には見えない穴が大きく口を開けていて、その中を冷たく乾いた風が潜り抜けている。その噎び泣きが、俺の心の結び目を固く凍らせてしまって、解くことができない。

「ねえ、俺の気のせいなのかな。時々、お前が…泣いてるように見える時がある。涙なんて全然流れてなくても、何だか…お前が泣いてるように見えるんだよ。今だって、お前は…」

 ほたるから落ちた涙の雫が、俺の頬を伝い落ちていく。ほたる、俺は…

「ねえ、お前は泣きたいんじゃないの?」

 ほたるの言葉が、俺の中の何かを壊した。両目に熱いものが溢れ、堰を切ったように流れた。止め処なく溢れ落ちる涙が、心の穴を埋めていく。

 俺はずっと…泣きたかった…

「辰伶が欲しい」

 視界がぼやけて、間近にあるはずのほたるの顔が見えない。

「でも…心をくれない奴の体なんか欲しくない。俺は辰伶が欲しい。辰伶の全部が欲しい」
「…ぁる…」
「俺のこと…好き?」

 好きだ。この気持ちは嘘ではない。本当に本気で、ほたるが好きだ。だから、俺は言わなければいけない。

「…ほたる……うそ…じゃない」
「うん」
「…おまえと居て……楽しかった……嘘じゃない…」
「うん。俺も楽しかった」
「…好きだ…」
「俺も辰伶が好き」
「…おまえが……」
「俺が?」

 ほたるを強く抱きしめ、思いを込めて言った。

「おまえが…欲しい」

 ほたるの顔に、俺の大好きな笑顔が浮かんだ。

「うん。俺をあげる。だから、辰伶を貰うよ」

 唇が重なった。深く激しく貪られ、俺もほたるを求めた。


⇒9へ

+・+ 吹雪様誕生日企画 +・+