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雲より遥かな

-7-


 俺を捉えていた漢の手を、ほたるが鋭く払いのけた。ほたるは俺を背に、恰も漢の視線を遮る壁のように立ちはだかった。ほたるの行動に漢は少し驚いた顔をしたが、すぐに元のように人好きのする笑みを口元に湛えた。

「そうか。君は辰伶の恋人なんだね。…あれ?じゃあ、辰伶は吹雪とはもう終わっていたのかい?」
「…吹雪?」

 ほたるが怪訝そうに俺を振り返った。俺はきっと、酷く蒼褪めた顔をしていたことだろう。血の気が引いていくのが、俺にもはっきり解かったから。

「…吹雪って、辰伶の師匠だっていったよね。それが、辰伶と何なの?」

 俺は答えられなかった。声が出せなかったのだ。ほたるの問いには漢も答えず、別のことを言った。

「卵が死んでしまっていても、諦めきれずに温め続ける親鳥も居る。…かわいそうにね」

 謎めいた言葉だ。だが、俺にはその意味が解かってしまった。漢は暗に吹雪様のことを指して言ったのだ。哀れな鳥とは吹雪様のこと。そして、死んで腐ってしまった卵とは…俺のこと。

 この漢は知っているのだ。ほたると付き合っていながら、俺が未だに吹雪様と関係を続けていることを。

「あんた、誰?」
「私はね、狂の古い友達なのさ」
「…狂の?」

 狂の名が漢の口から発音されるのを、俺は気の遠くなりそうな闇の奥に聞いた。この漢は、俺の狂に対する想いまでも知っているのか。恐ろしい。俺は、この漢が恐ろしくて堪らない。

「狂はね、昔からとても強かった。上級生にだって、彼に勝てる子なんていなかった。だからね、狂は上級生の子たちから随分睨まれていたよ。勿論、彼はそんなこと気にするような子じゃなかったけどね」

 漢の語りは唐突で一方的で、舞台演劇の独白シーンを見ているような気持ちになった。この漢の眼に俺の姿は映っているのだろうか。そう疑問に思うほど、漢は傍若無人に語った。

「強い者はね、知らず知らずに弱い者を踏み付けにするものなんだよ。それでも大抵は自分よりも強い者に、いつかは出会って痛い目みるから、他人の痛みを知るんだね。でも、狂は誰よりも強いから、彼に痛みを教えてあげられる者なんて、そうはいない。そこでね…」

 瞳に慈悲の光を湛えて、漢は言った。

「私はね、狂に『痛み』を教えてあげたかったんだよ。肉体的な痛みじゃない、心の痛みを。狂が他人の痛みを思いやれない冷たい人間になってしまって、皆から避けられて孤立してしまったら、かわいそうだろう?」

 信じ難いことだが、この漢は本当に狂を哀れんでいた。心の底から狂を思いやっていた。底知れず慈愛に溢れたこの漢の瞳と声は限りなく優しげで、だがしかし、その優しさはどこか狂気じみて見える。俺には理解できない。

「辰伶、君は他の子供達のように狂を敬遠したりしなかったから、狂にとって君は特別だった。だから君を狂から取り上げちゃえば、少しは痛みを感じるんじゃないかって思ったんだけど…」

 理解できない。

「ごめんね。まさか狂があそこまで君のことを大事に想ってたなんて、私も気付かなかったよ。頭に血を昇らせて大事なものを壊してしまうなんて、まるで癇癪もちの子供だね。でも、大丈夫だよ」

 漢はほたるを押しのけて、俺の手首を掴んだ。何故こんなことをするのか、咄嗟に理解できなかった。

「君は私が貰ってあげるから。だからね、もう吹雪を解放しておあげ。それから、」

 漢はチラリとほたるを見た。

「彼との恋人ごっこも、もう十分楽しんだだろう?だから、もういいよね」
「……恋人…ごっこ…?」

 ほたるの瞳が俺を射る。ああ…もう、何も理解できない…

「君は壊れたくらいの方が美しいよ」

 俺は漢の手を振り払い、後ろも見ずに店を飛び出した。何度も人にぶつかりそうになったが、なりふり構わず走った。衝動のままに走った。

 理解できない?違う。本当は俺は理解していて、ただそれを認めたくないだけなのだ。

 漢が言ったように、俺はとっくに壊れていたのだ。俺が壊れてしまっているから、そのせいで俺は俺の周りにあるものを悉く正しくない形に歪めてしまうのだろう。吹雪様との関係も、狂との関係も、ほたるとの関係も、どれもこれも正しい形にならないのは、俺のピースが狂っているから。

 全てを、俺が歪めてしまうのだ。


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先代様はとてもお優しい方ですが、極めて余計なお世話様です。

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