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雲より遥かな

-6-


 俺とほたるは息を詰め、互いに相手の心を読もうと、睨み合っていた。ピリリと空気が張り詰める。

「ジャン、ケンッ…!」

 勝負は一瞬で決まった。ふん、俺の勝ちだ。

「ふー…」

 ほたるは憮然として、疲れたように大きく息を吐き出すと、俺の自転車のサドルに跨った。俺はほたるの肩に手を置いて、後輪の軸の突起に足をかけた。ほたるは俺を乗せて、軽快に自転車を走らせた。

「俺、辰伶のガッコまで歩いてきて疲れてるのに…」
「お前も自転車にすればいいだろう」
「俺のとこ、自転車通学には許可がいるんだよ。許可とるの、めんどくさい」
「ならば駅に置いておいて、俺のところに来る時に使えばいいじゃないか」
「バカだね。そしたら2人乗りできないでしょ」

 雑多な人波を、ほたるは巧みにすり抜けていく。乾いた風が心地よい。ほたるの金色の髪が煌くのを間近に見下ろして、俺は爽快な気分を味わっていた。

「今日はどうする?」
「そうだな…」

 最近は2人で料理するのが俺達の間でささやかなブームになっている。学校帰りに2人で献立を相談しながら材料を選ぶのはとても楽しい。

「俺、コロッケ食べたい」

 コロッケか。以前にほたるの母親の直伝というのを一緒に手伝って作った。あれは美味しかった。

「買い物の前に、少し寄ってもいいか?」
「いいけど、どこ行くの?」
「京扇子の店だ。舞扇を…新しくしようと思って」
「ふうん」

 素っ気無い返事をして、誰の為だと思っているんだ。心の中で不平を鳴らしてみても、ほたるに聞こえるはずがない。ほたるの背中で、俺は独り苦笑した。

 駅の駐輪場に自転車を置いて、俺達は電車に乗った。

「ねえ……今日も泊まってっていい?」
「ああ。何だ?また父親と喧嘩でもしたのか?」
「別に。…なんとなく、合わなくてさ」

 ほたるの家の事情は余り詳しく知らないが、父親が余り家に居ないらしい。顔を合わせることの少ない父親にほたるはどうしても馴染めず、父親が居る時は家に居たくないのだそうだ。ほたるのそんな気持ちは、俺にはよく解かった。俺も自分の家に居たくない時期があったから。

 ほたるには悪いが、俺はほたるが帰宅を渋る様子に嬉しくなってしまう。俺のこの小さな喜びが、ほたるの父親に対する蟠りの上に成り立っていることについては、申し訳ないとは思う。それでもいつもよりも長くほたると一緒に居られることに、つい嬉しくなってしまう。

 俺はほたるの恋人を演じているのだが、ほたるに対して優しくしてやりたいと思う気持ちは本当だ。ほたるが望むことなら、何でも叶えてやりたくなってしまう。それはほたるを騙しているという引け目からくるのではなく、ただ俺はほたるの笑顔が見たかった。ほたるは表情に乏しい漢で、笑顔など滅多に見せてくれない。しかし、たまに見せてくれる彼の笑顔には僅かな陰りもなく真っ直ぐで、俺はとても幸せな気持ちになれるのだ。

 ほたるを何度か家に泊めたが、彼とは未だに体の関係は無かった。軽いキスなら何度もしたが、ほたるから体を求められたことは無かった。俺はほっとしていた。ほたると関係を持つことには、漠然とした不安を抱えていたから。行為自体は何度も経験しているというのに、相手をほたると想像すると何故か身震いが走る。以前にほたるの眼差しを『怖い』と感じた感覚が蘇る。

「どうしたの?ぼんやりして」
「あ?ああ…いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」
「眠いのかと思った」
「電車で立ったまま眠れるか。お前じゃあるまいし」
「俺だってこんなとこじゃ眠らないよ」
「そうか?どこでだって寝るじゃないか。俺の家でテレビ見ながらとか、この前など公園の池で2人でボートに乗っていたら眠ってしまったではないか」

 ほたるは不意に真剣な眼差しで、俺を見た。

「俺はどこでも寝るけど、誰かの傍じゃ眠れないんだよ」
「え…?」
「近くに人がいると眠れない。辰伶だけが、例外」
「……」

 ほたると居ると、泣きたいような衝動に駆られることがある。

 ほんの2、3日前のことだったか。俺達は子供の頃の宝物の話をしていた。ほたるは宝物など特に無いと言った。物に執着したことはないし、特別な思い出の篭ったものもないと、詰まらなそうに言った。

 俺にとっての宝物は、恥ずかしながら昔から全く変わっていなくて、それは今でも大事にしまってあった。ほたるが見たがったので、数年ぶりにそれは光の下にさらされることとなった。一面の舞扇が、子供の頃からの俺の唯一の宝物だ。

 そろりそろりと開いてみせる。所々破れてしまっているので、勢い良く開くのは憚られた。使い込んで、すっかりボロボロになってしまったが、それは俺が初めて手にした自分の舞扇だった。吹雪様が稽古用にと俺に誂て下さったものだ。扇面の左上から右下へ大きく流水が金で箔押しされ、それを境に上部は蒼色に塗られ、下部は白地に銀で波模様が描かれていた。水のように柔らかく、しなやかに舞えと、舞を始める俺の為に吹雪様が選んで下さった。

 そんなことをポツリポツリと話していたら、ほたるに舞をせがまれた。この古い舞扇で踊って欲しいと。拒む理由などなかったから、俺は一指し舞ってみせた。昔の舞扇で舞ったせいだろうか、舞は俺を懐かしい気持ちにさせた。ただ綺麗な憧れだけを追っていた頃の、今では無くしてしまった感情。そんなものが俺の胸を潜り抜けて、また遥かへと去って行った。

 ――― キレイ…

 舞い終えた俺に、ほたるが言った。

 ――― 辰伶、すごくキレイ。

 俺は泣きたくなった。綺麗なのはお前じゃないか。俺はお前に褒められるほど綺麗な人間ではない。

 それでも、ほたるが望むなら。俺が綺麗であることをほたるが望むなら、俺は綺麗な人間であるフリをしてやろう。ほたるが俺の舞を綺麗と言ったから、俺はほたるの為だけに綺麗な舞を見せてやるのだ。

 そんなことを思って、俺は舞扇を新しくすることにした。ほたるの為だけに舞いたかったから、ほたるの為だけの舞扇を用意したいと思った。少しでも綺麗な舞を、ほたるに見せるために。

 せめて、舞扇だけでも真っ更な心であるように。


 稽古用であるから、余り高価な舞扇である必要はない。しかし品質が悪いのでは論外だ。要の具合を良く確かめながら、俺は何枚もの扇を広げて眺め比べていた。

「ほたるはどんな色目が好きなんだ?」
「…別に俺が舞うんじゃないんだけど」
「それはそうなんだが…」

 折角だから、ほたるに選んで貰いたいと思うのは、俺の我が儘だろうか。…我が儘には違いない。ほたるの為にというのは俺の勝手な思い込みで、ほたるが俺に頼んだ訳ではないのだから。

「…あのさ、辰伶が舞うんだから、俺の好きな色じゃなくてさ、辰伶に似合う色がいいよ」
「しかし…」
「絶対絶対、その方がいい」

 ほたるは1面の舞扇を俺に差し向けた。

「これがいい」

 白と鮮やかな青。2色の境界は朧で白地の部分には銀の箔が鏤められている。現代的で空とも海とも思える抽象的なデザインだ。翻すと細かいラメが7色に乱反射して、雪にも水飛沫にも見える。

「辰伶は絶対にこれ」

 ほたるから舞扇を受け取り、俺は言葉も無くただ頷いた。ほたるが俺の為に選んでくれた舞扇は、吹雪様が誂えて下さったものとは全くデザインが違うのに、何故だろうか、それを手にした時の気持ちが鮮やかに蘇って、俺は嬉しさに胸が締め付けられた。


 支払いをし、店員が舞扇を箱へ入れてくれているのを待っていると、背後から声を掛けられた。

「君は…辰伶だね?」

 背筋が凍った。聞き覚えのある声。誰だ?

「やっぱりそうだ。吹雪の弟子の辰伶だ」

 度の強い眼鏡を掛けた漢が、人懐っこい笑顔で佇んでいた。少し甘くて優しげな声なのに、何故だか体が震える。

「あれ?覚えてないかな。そうだねえ。あれから随分経つからねえ」

 漢が眼鏡を取った。その眼を見た瞬間に、俺は思い出した。思い出してしまった。

「先代……様」
「思い出してくれたかい。ああ、本当に久しぶりだねえ。あの頃の君はとても可愛かったけど…」

 漢の指に顎を捉えられて上向かされた。

「美しくなったねえ」

 この手を払いのけたいのに、体が凍りついたように動けない。放せ。放してくれ。ここには…

「ところで…」

 だって、ここには…

「君の後ろで睨んでいるのは、君の友達かい?」

 ここには、ほたるが居るのに…!


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