+・+ 吹雪様誕生日企画 +・+
雲より遥かな
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思えばとんでもない約束をしたものだ。デートは、まあ、仕方がないだろう。俺はほたるという漢と付き合うことになったのだから。…何故そうなったのか、未だに釈然としないのだが、これについては十分に選択の余地があった上で、自分の意思で承諾したのだから文句は言うまい。恋人ともなれば、デートくらいするだろう。
しかし、Wデートは余計だ。あの漢が変なことを言い出したお陰で、今の俺がどんなにマヌケな事態に陥っているか解かるだろうか。何が悲しくて失恋相手と一緒に遊園地に行かねばならんのだ。
しかも、当の失恋相手は恋人と同伴ときている。…最低だ。
ああ、でも。この最低な状況を招いたのは他ならぬ自分自身であり、言わば自業自得なのだ。酷いことをしているのは俺だ。その気も無いのに付き合うなどと言って、ほたるの気持ちを玩んでいる。
こんないい加減な気持ちで付き合うのは良くないことだ。今からでも断った方が良いのだろうか。しかしそれでは彼の面目を潰すことにならないだろうか。やはり約束をした以上は、1度はデートに付き合うべきではないだろうか。
こうして気の重い日曜日を迎えたのだが、果たして待ち合わせ場所には狂どころかほたるもいなかった。俺は約束の時間の5分前からここにいるのだが、もう15分も過ぎてしまっているというのに、一向に現れる気配が無い。俺は担がれたのだろうか。だとしたら俺は合わせて20分も滑稽な姿を晒していることになる。
あと5分だけ待って、それでも来なかったら帰ろう。もともと気の進まない約束だったのだから、むしろホッとした気分だ。これで彼に謝罪をせずに済む。
俺の隣には、少し離れて立ち尽くしている少女がいた。彼女も俺と同じ位の時間にここに来て、それからずっと相手が来るのを待っている。恋人だろうか、彼女の連れも遅刻しているようだ。少し疲れた人待ち顔だが、時折、髪や服装のチェックをしたりして、どこか楽しげだ。そこには不安の影は無い。彼女は相手が絶対に来ると信じているのだ。誰だ、こんな健気な娘を待たせている不届き者は。
ふと時計を見れば、5分どころか10分以上経っていた。帰ろう。義理は果たした。
俺がこの場を離れようとした瞬間に、少女の顔が笑顔に輝いた。どうやら待ち人が姿を現したようだ。良かったな。
彼女へと真っ直ぐに向かってくる漢の姿を見て、俺は立ち去ろうとした足をその場に留めた。
「……まだいたのかよ、チンクシャ」
「誰がチンクシャよっ! まだいたのかって、帰っても良かったって言うの!? 遅刻して人を待たせといて、その言い草はないでしょっ」
そうか。彼女が狂の恋人だったのか。しかし酷い物言いだ。チンクシャ?…十分以上に可愛らしい娘ではないか。このひねくれ者め。
「てめーら、一緒に居たのか」
「ら、って…?」
彼女が俺の方を見た。
「え? じゃあ、この人が…」
狂は俺に彼女を紹介した。
「辰伶、こいつは俺の下僕1号だ。…呼ぶときは『チンクシャ』でいいぜ」
「下僕じゃないわよ! 変な紹介しないでよ。私には『椎名ゆや』って名前があるんですからね」
2人はまるで喧嘩をしているようだ。普段もこんな調子だろうか。…狂は、こんな漢だっただろうか。彼女を前にした狂は、俺の知っている狂とどこか違う気がする。少なくとも、俺を辱めた漢と同じ像を結ぶことはできない。
「遅刻したんだから一言くらい謝んなさいよ。私も辰伶さんも30分以上待ってたんですからね」
「…ほたる……てめえが謝れ」
狂の背後にはほたるが居た。狂と一緒に来たらしい。
「なんで俺が?…あ、そうか。俺は下僕2号だから、狂の代わりに謝れってこと?」
「……遅刻の原因がてめえだからだ」
「ほたるさん、ひょっとして…また寝坊したんですか?」
「寝てたら狂に起こされた」
どうやらこのほたるという漢は遅刻の常習犯らしい。狂はほたるが寝坊することを見越して、彼を迎えに行って遅刻したのか。…そんな面倒見の良い漢だっただろうか、狂は。
俺の思考を読んだかのように、狂は面倒臭そうな口調で言った。
「…今回だけだ。次からはてめえらで何とかしろ」
それはつまり…俺がほたるを呼びに行けということか? 待ち惚けを喰らわぬ為に。…ご忠告はありがたいが、次などというものは無い。時間にルーズな奴は嫌いだ。
「えっと、遅れてごめん。なんか寝てた」
ほたるは謝罪をしたが、俺の声は不機嫌にトーンダウンした。
「…遊園地に行きたいと言い出したのは、貴様だったな」
「うん」
「それなのに、寝坊したのか」
「うん。待っててくれてありがと」
ほたるは全く悪びれる様子無く、嬉しそうに笑った。俺は深く溜息をついた。この漢は空気を読めんのか。
「行くぜ」
狂は地下鉄への階段をさっさと下りて行ってしまった。
「行きましょう、ほたるさん、辰伶さん」
ゆやという少女は小走りに狂の背中を追った。俺達もそれに続いた。人込みでも長身の狂はよく目立った。狂は隣に追いついてきた彼女の手をとった。彼女は驚いて狂を見上げた。
「…てめえは鈍臭えからな。…はぐれるんじゃねえぞ」
「…うん」
椎名ゆやはとても綺麗に笑って頷いた。どんなに文句を言おうとも、彼女は本当に狂のことが好きなようだ。そして、どんなにぞんざいな態度で振舞おうと、やはり狂も彼女のことを…
何だか気が滅入った。俺は彼女のようには笑えない。彼女のように狂に話しかけることはできない。男女という性差を差し引いても、俺と椎名ゆやは全く似たところが無い。…無意識に彼女と自分を比べている自分に気付いてしまい、余計に気が滅入った。階段を下りていくのと比例して俺の心も沈んでいった。
「辰伶…」
名前を呼ばれて我に返った。
「何だ?ほたる」
「つまんない? 遊園地、嫌い?」
いかん。顔に出ていたらしい。俺は何とか笑おうとしたが、うまく出来なかった。笑顔は苦手だ。慌ててその失敗を取り繕う言葉を連ねた。
「そんなことはない。遊園地なんて初めてだから……楽しみだ」
「そうなの? 1回も無いの?」
「無いな」
父も母も騒々しい場所が苦手だから……いや、もう自分に言訳なんて必要ない。父と母と俺と、仲良く揃って出掛けるなんて、そんな夢のようなことは小学生の時にはとっくに諦めていた。
「俺は母さんに連れてってもらったことがある」
「そうか」
「自分で行くのは初めて」
「そうか」
「だから、辰伶と行けて凄く嬉しい」
「……」
この時になって初めて、俺はほたるという漢のことをまともに見た。狂にばかり気をとられていて、ほたるのことは余り関心がなかったが、こうして改めて見ると、ほたるは非常に容姿に恵まれた漢だった。少し身長が低めだが、極めて整った顔立ちであり、体躯も細身で手足がしなやかに動く。これだけの容姿があれば、わざわざ俺なんかを選ばずとも、相手なんて幾らでもいるだろうに。
ほたるはポケットから煙草とライターを取り出すと、慣れた仕草で1本を口に咥えて火をつけた。煙草のケースには見覚えがあった。それはあの日に狂が吸っていたのと同じ銘柄だ。狂と…同じ…
「…やめろ」
身体を鋭い怖気が突き抜けた。
「…俺の前で吸うな。…煙草は……嫌いなんだ…」
「……」
ほたるは無言で揉み消した。…俺は酷いことをしている。
俺はまだ狂のことを忘れていない。煙草1本で震えが走るほどに、あの日のことをこの身体は忘れていない。狂への想いは、気付かされた時には既にズタズタに切り裂かれていて、最初から絶望しかなかった。ぼろぼろで惨めな想いを、それでも捨てられずに未練がましく抱え込んでいる。
ほたるの申し出を受けたのは、狂に当てつける気持ちが少なからずあったのだろう。バカなことをした。狂にとっては微塵も当てつけになりはしないのに。狂の隣には似合いの娘が居るのに。
俺はほたるに酷いことをした。そして今も酷いことをしている。
ほたるが何故、俺を選んだのかは解からないが、多分これは一過性の熱病のようなものなのだろう。冷めればきっと、俺の元から去っていくに違いない。ならば、ほたるに真実相応しい相手が現れるまで、俺は彼の恋人の振りをしてやろう。本気でほたるが好きであるような振りをしてやろう。
せめてもの、罪滅ぼしに。
休日の遊園地は想像以上に賑やかだった。親子連れやカップルがその大半を占めている。確かに遊園地というところは独りで来るような場所ではない。そして、ほたるがWデートにしようと言った理由もなんとなく理解した。漢同士の二人連れなど、まず見かけない。
俺は、ほたるが遊園地に行きたいが為の手段にされたのだろうか。もしそうだとしたら…案外、可愛いところのある奴だと思う。
初めての遊園地の感想は、正直なところ少々苦手かもしれない。乗り物はそれなりに楽しいのだが、その前の行列には辟易した。並ぶだけで疲れてしまう。
それでなくとも、ほたると椎名ゆやの嗜好で絶叫系ばかりを廻っていたので、俺は少しゆっくりしたかった。それならと引っ張っていかれたのは大観覧車だった。それに4人で乗るのだと思っていたら、狂と椎名ゆや、俺とほたるの2組に分かれてしまった。…分かれてしまったというか、分かれたのだが。そういえば、これはデートだったのだ。
観覧車は遊園地のどの建造物よりも高かった。上昇はとてもゆっくりだったが、高さが少し変わるだけでも、そこから眺める光景は全然違うものになる。
「ねえ、辰伶」
俺は視線を窓の外からほたるへと切り替えた。
「俺さあ…今朝、辰伶に言われてから、ずっと禁煙してるんだけど……偉いと思わない?」
何を言い出すのかと思いきや…
「思わん。喫煙は成人してからだ」
「辰伶の為に我慢してるのに…」
「お前自身の健康の為だ」
「違うよ」
思わず息を呑んだ。ほたるの眼差しが、余りにも真剣だったからだ。
「…違うよ。辰伶の為だけに…我慢してる」
我慢と言っても…たかだか数時間ではないか。しかし、俺は何だかとても嬉しくなってしまった。
「偉いぞ。よく我慢しているな」
「ありがとうは?辰伶の為なんだよ」
「ありがとう。…俺の為に…嬉しいぞ」
「じゃあ、キスしていい?」
「え…?」
「さっきから口寂しくて、落ち着かないんだよね」
俺は煙草の代わりかと憤慨すれば良かったのだろうか。とにかく驚いて、俺は数秒間固まったまま、ほたるを見詰めていた。ほたるの顔が間近まで迫ってきても身動ぎ1つできず、反射的に目を瞑ってしまった。ほぼ同時に唇に柔らかいものを押し当てられた。
この状態で何をすれば良いのか解からず、長いのか短いのか判らない時間を、ただ目を閉じて、呼吸を止めて、体を固くしていた。
ただ唇と唇が触れ合っていただけだというのに奇妙に息苦しくて、やがてほたるが離れてしまっても、俺の頭の芯はぼんやりとしたままだった。
「…辰伶」
「…ほたる」
「…もう……下なんだけど…」
我に返ると、扉を開けた係員が途方にくれた顔をしていた。その後方には狂たちの姿もあり、2人とも確りとこちらを見ていた。俺は羞恥で頬を熱くしながら慌てて降りた。ほたるは全く気にした様子はなく、平常心そのものという顔をしていた。
「え…っと、じゃあ、しばらく別行動にしましょう…か?」
椎名ゆやが気遣わしげに提案をした。妙な気の利かせ方をしてくれるものだから、俺は一層恥ずかしくなった。
「ずっと別行動でもいいけど。どうせここに居られるのって、あと30分も無いし」
ほたるの言う通り、それ位でもう帰宅を考えねばならないような時間だった。
「狂はその女を送っていくでしょ。俺は辰伶と帰るから」
「…ああ」
どうやら決定してしまったらしい。俺としては、もう何だって良かった。恥ずかしくて、居た堪れなくて、それどころではなかったのだ。
狂たちとはそこで別れて、俺はほたると2人になった。
「どうする? 何か乗る? あと1個くらいは乗れると思うけど」
「…疲れた」
「じゃあ、どこかでお茶して帰ろう」
「……」
「辰伶?」
「…いらん恥をかいたではないか」
ぽつりと恨み言を漏らしてしまった。しかし、これくらいは許されるだろう。あんな思いをさせられたのだから。
「…意外だった」
「何が」
「初めてでしょ、キス…」
再び顔が熱くなった。
「…な…にを…」
ほたるに指摘されて、俺は初めて気付いた。俺は性行為については複数人と、それこそ何度と無く経験をしていたが、キスをした(された)のは、先ほどのほたるとの行為が初めてだった。それに気付いた途端に泣きたいような気分になったが、やはり涙は出なかった。見えない亀裂を冷たい風が吹き抜ける。ただ、吹き抜けるだけだ。
「…そう言うお前こそ…どうなんだ」
「俺も初めて」
俺は本当に泣きたかった。そして、このままほたると付き合っていくことに漠然とした恐怖を覚えた。真正面から注がれるほたるの眼差しを『怖い』と感じた。
その理由は…解からなかったけれど。
言い知れぬ不安に思考を掻き乱されて、俺の心は吹雪様に助けを求めた。そして、その日はほたると別れた後、真っ直ぐに吹雪様を訪ねた。
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