+・+ 吹雪様誕生日企画 +・+
雲より遥かな
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こんなことなら寄り道などせず、まっすぐに家に帰るのだった。学校を出た時から空は既に怪しげな雲に覆われていたのだが、恐らく大丈夫であろうと根拠も無いのにそう高を括って書店に立ち寄ってしまったのが失敗だった。会計を済ませて店を出ようとした俺は土砂降りの雨を前にして呆然と立ち尽くしていた。
急な降り出しであったから、このまま店内で雨足が緩むのを待った方が良かったかもしれない。しかし雨によって足止めをくらっているという状況に堪らず苛立ちを覚えた。書店の向かいにはコンビニがあったから、そこまで走って傘を買うという選択肢もあったが、それはとても無駄な金を使うような気がした。小遣いが少ないというわけではないが(むしろ同年代の中では多く貰っている方だが)、俺は無駄遣いが嫌いだ。
俺は制服の上着を脱ぐと、買ったばかりの本と通学鞄を濡らさないようにそれで包み、小脇に抱えて雨の中へ飛び出した。ここから家までの道のりで屋根があるのは鉄道の高架下ぐらいだ。ひとまずはそこまで走りきって一息ついた。雨水が目に沁みて視界がぼやけるので、ハンカチを取り出して顔だけ拭いた。
「てめえは……辰伶か」
思いがけず名を呼ばれて、声の方を見た。
「狂…」
雨宿りの先客は俺の旧知の人物で、狂という名の漢だった。無明神風流という武道の流派があるのだが、狂はその門下生だった。無明神風流は、俺が教えを受けている無明歳刑流と祖を同じくし、昔は頻繁に合同練習や交流試合を行っていた。そういうよしみで俺達は互いに見知っていた。
「久しいな。…村正様はお元気か?」
「…まあな」
俺の師である吹雪様と、狂の師である村正様は古くからの友人同士で、非常に親密な仲だった。…数年前までは。
2人の間にどんな経緯があったのか知らないが不和が生じ、それから両派間の交流はぱったりと無くなってしまった。村正様の温かいお人柄を、吹雪様に対するのと同じくらい慕っていた俺は、それがとても残念でならなかった。
狂と顔を会わせるのはそれ以来で、込み上げる懐かしさに心が昂揚した。狂は昔から無口な漢で余り話をしたことは無かったのだが、この漢には独特の魅力があり、惹きつけられるものがあった。
狂はアクの強いクセのある笑みを口元に刷いて言った。
「ずぶ濡れじゃねえか」
「ああ。しかしもうすぐ家だから」
「…ふん」
狂もずぶ濡れだった。狂は俺とは違う学校の制服で、そういえば、彼の家はこの近辺ではなかったはずだ。
「こっちには何か用事で?」
「…何でそんなこと訊くんだ?」
「もし雨で困っているのなら、傘を…」
家から傘を持ってきて貸してやろうと思ったのだが、余計なことだっただろうか。狂はしばらく無言のまま俺の顔を見詰めていたが、再びあの独特な笑みを浮かべた。
「いらねえよ、今更。用も済んだし、帰るだけだ」
「しかし、風邪をひくのでは? 家は遠いのだろう?」
「…んなヤワじゃねえ」
「だったら…」
躊躇いがちに、俺は提案してみた。
「よければ…うちに来ないか? ……近くなんだ」
「……いいぜ」
何となく断られるような気がしていたので、狂の返事は少し意外で、それ故に堪らなく嬉しさが込み上げた。
「では、走るぞ」
俺は制服に包んだ鞄を抱え直し、1度だけ狂を振り返ってから高架下から雨の中へ飛び出した。俺の後ろを狂が付いて走っているのを背中で感じながら、飛沫を跳ね上げて直走った。
「遠慮せず上がってくれ。誰も居ないから」
「……」
家には大抵、誰も居なかった。もう1年近くこんな状態だ。父は海外に単身赴任中で、たまに帰国しても何処かの愛人の処に行っているらしく、殆ど家には帰って来なかった。
母もそんな父にはとっくに愛想をつかしており、それならと自由気儘に旅行に出掛けたりして家に居ないことが多かった。家に篭ってピリピリしているよりは健康的だ。今回はカナダだったか北欧だったか、何か言っていたような気がするが、俺もよく聴いていなかったので記憶が曖昧だ。
狂にバスタオルを渡し、俺も濡れた髪を拭きながらリビングに案内した。
「シャワー、浴びるか?」
「…いらねえよ」
狂は濡れた上着を脱いだ。狂にリビングで待ってもらって、俺は着替えを取って来た。狂の方が俺よりも少し背が高いようだが、それ程体格に差があるわけではないので、俺の服でも用は足りるだろう。
狂に着替えを渡し、俺もシャツを脱いだ。俺は鞄と書籍を守ることに上着を使ってしまったので、シャツが肌にくっついて透けてしまうまでにぐっしょりと濡れてしまっていた。濡れたシャツが肌に張り付く感触が不快で、さっきからずっと、早く着替えたくてしょうがなかった。脱いだシャツを放り出して、新しいシャツに袖を通していたのだが、ふと、狂の視線に気付いた。
「なんだ?」
「…てめえ……本当だったのかよ」
「……何が?」
狂は無口な上に、言葉足らずだ。狂が何のことを言っているのか全く解からず、俺は訊き返した。途端に肩を強く掴まれ、同時に足を払われて、俺は狂に床へ押さえつけられる格好となった。
「な、いきなり何を…」
「てめえ、吹雪のオンナやってんだってな」
俺は凍りついた。狂は不機嫌そうな顔で俺を見下ろしている。
「な…にを…こ…」
何を根拠にそう言うのか。俺はそう言いたかったのだが、声が震えて言葉にならなかった。それでも通じたらしい。俺の首筋から鎖骨を、狂は人差し指で引っかくように辿った。
「…この跡は吹雪のじゃねえのかよ。それとも先代のクソ野郎か?」
俺は一声も発することが出来なかった。そこは確かに昨夜、吹雪様が触れた場所だった。しかし何故、そのことを狂が知っているのだろう。のみならず狂は、『先代』という漢とのことも知っていた。俺は頭が混乱していた。
「このことで村正が、てめえの師匠と言い争ってんのを、聞いたことがあんだよ。……まさか…とは思ったんだがな…」
着替えの途中で腕に引っかかっていただけのシャツを乱暴に剥ぎ取られ、喉元に荒々しく口づけられた。俺は我に返って叫んだ。
「やっ…やめろっ!」
必死に狂の肩を押すが、体勢が悪くて押し退けることが出来ない。顔を捩ろうにも髪を掴まれて侭ならなかった。冷たい指が体を弄っていく。足も床を蹴るばかりで、俺の抵抗は何一つ功を奏さなかった。そんな俺の無駄な足掻きが狂の癇に障ったらしく、苛立ちの篭った声で言われた。
「吹雪には足開いてんだろ」
その言葉は俺の心臓を深く抉った。ショックの為に一切の抵抗を忘れて茫然と狂を見詰めた。狂の顔には、今まで見たことのなかった表情が浮かんでいたが、それがどういう感情に基づくものなのか、俺には解からなかった。
何だか全てがどうでもよくなってしまった。俺は狂の行為を受け入れた。自ら動いて協力してやった。
「…手馴れてんじゃねえか」
そんなことは、どうだっていいことではないか。
「…辰伶……」
どうでもいい。こんなことはどうでもいいことだから。
「……」
もう、どうでもいい…
カチリと金属の音がした。大きく息を吐くのが聞こえ、俺の視界を白い煙が流れて消えていった。狂は煙草を吸うのか。…未成年のくせに。
「…出て行け」
俺は酷く疲れていた。俺が今まで経験した中には、これほど荒々しく激しい行為は無かった。心身ともに疲弊しきっていた。
「…出て行け……俺は……煙草の臭いが嫌いなんだ…」
衣擦れの音。…ああ、狂が服装を整えているのか。狂が床を踏む音が段々と遠ざかる。狂がノブを回した音が小さく鳴って……ドアが閉まる音がした。この空間から狂は居なくなった。
そのまましばらくの間、とりとめもなく天井を眺めていた。しかしいつまでもこうしているわけにもいかず、俺は緩慢に上体を起こした。全身が気だるい。…そうだ、シャワーを浴びよう…
シャワーを浴びて体が温まったせいだろうか。まだ疲労が残っていたが、それでも何となく気分が落ち着いた。
外はまだ雨が降っていた。狂はこの雨の中を出て行ったのか。傘を貸してやれば良かったと小さな後悔をした。しかし、あの時はどうにも動く気分になれなかったし、何よりも狂の顔が見られなかった。
「軽蔑……されたのだろうな…」
手馴れている。行為の最中に狂に言われた言葉が、頭の中をぐるぐると際限なく回っている。溜息が出た。
「事実だからな。仕方ない…か」
ああ、でも…いい加減、鬱陶しい。俺は携帯を取り出し、メモリーに登録されている番号に掛けた。
「辰伶です。……あの、吹雪様……今から伺ってもよろしいでしょうか」
身体には狂の跡が残っているが、吹雪様は気にはなさらないだろう。どうでもいいことだから。
戸締りや火の元を確かめ、俺は家を出た。身体は再び冷えてしまったが、傘を叩く雨の音が、今の俺には心地よかった。もっと、もっと、土砂降りになればいい。俺は気付いてしまったのだから。
俺は、狂が好きだったのだ。
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