+・+ 吹雪様誕生日企画 +・+
雲より遥かな
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幼い頃、俺はしばしば熱を出して寝込むことがあった。特に病弱な体質ではなかったから、恐らくは心因性のものだったのだろう。当時から俺の両親は諍いが絶えなかったから、そのぎこちない空気を子供心に察知して、それがストレスになっていたに違いない。
両親の不仲は決まって父の浮気が原因だった。俺は夜は部屋の電気を1つ残らず消して眠るのだが、これはその頃からの習慣だ。独り真っ暗にした部屋の中で、深く深くベッドの中に潜り込み、両手で耳を塞ぎながら安らかな眠りが訪れるのを待っていた。隣の部屋から聞こえてくる母が父を詰る声を、聞かぬように、聞かぬように…
結局、父の浮気癖は不治の病のようなもので、いつしか母も諦め、俺も何も感じなくなった。不思議なのは、そこまで夫婦仲が冷え切っていながら離婚の話がどちらの口からも出なかったということだ。父にとって浮気は浮気でしかなく、母にしても父への未練を完全には断てなかったのだろうか。それとも、単に世間体を慮ってのことだろうか。
とにかく俺は子供の頃、自分の家が居心地悪くて仕方がなかった。小学校の高学年位の頃からそれは強くなり、家に居るのが嫌で堪らなかった。俺は幼い頃から嗜んでいた日本舞踊や武術の稽古に没頭した。両親や家に対する不安や鬱屈した想いを、その時だけは忘れていられた。
俺がいつまでも家に帰らず、遅くまで道場に残って剣術の稽古をしていると、師匠である吹雪様から注意を受けた。
「辰伶、ただ我武者羅に剣を振り回せば良いというものではない。お前のそれは、稽古に熱心なのとは違う」
吹雪様の仰ることはよく理解できた。俺は剣を極めたいのではなく、ただ家に帰りたくないだけだったのだから。俺のそんな心根は、吹雪様にはすっかり見透かされていた。
「…来るか?」
吹雪様は俺の事情もよくご存知で、俺がこうしてグズグズと帰宅を渋っていると、吹雪様のご自宅に招いて下さり、時には客間に泊めて下さった。弟子としては全く甘ったれた態度であり、それを情けないとも思っていたが、それでも吹雪様の優しさに縋ることをやめられなかった。依存というのだろう。あの頃の俺と吹雪様の関係は。
夕食をご馳走になった後、よく吹雪様は舞を披露して下さった。吹雪様の舞は本当に素晴らしく、そもそも俺が日本舞踊を始めたのは吹雪様の舞に憧れてのことだ。そして俺の舞も見て下さって、色々とご指導を下さった。こうして吹雪様と過ごせる時間が、俺にとっては本当に安らげる唯一の場所だった。
だから、吹雪様と体の関係を持ったことにも、全く抵抗感は無かった。尤も、性の行為について、当時の俺が余りにも未熟で無知であったことも否定はしない。吹雪様と俺がその行為をすることの意味など、全く解かっていなかった。
最初は勿論、驚いた。しかし根本的に何も解かっていなかったので、ただ吹雪様のされるがままに任せていた。経験したことのない奇妙な感覚と、日常では有り得ない人肌の近さに、漠然とした恐怖と背徳の気配を感じてはいたが、行為に対する嫌悪は無かった。受け入れることには苦痛を伴ったが、我慢できない程ではなかった。苦しくて奇妙な行為ではあったけれど、吹雪様の腕に抱かれることには不思議な安心感があった。
やがて、少々遅まきながらも性に関する知識が増え、セックスという行為が一般常識的に何を意味するのか知った。そして、その常識に照らし合わせるなら、俺と吹雪様の間にこの行為は成り立たないということに気付かされた。吹雪様と俺は師弟であり、恋を語り合う男女ではない。同性間の恋愛もあると耳にしたことはあったが、どのように考えても吹雪様は俺を恋愛の対象としておられるとは思えなかった。俺にしても、吹雪様に対して抱く気持ちは尊敬と憧れと……甘ったれた子供のような依存心のみだった。
そこに考えの至った俺は急に恐くなった。セックスが恐くなったのではなく、吹雪様と俺がしていることをセックスだと認識することを恐れたのだ。吹雪様の腕に抱かれながら、これは違うのだと自分に言い聞かせた。この行為は違う。吹雪様と自分だけの特別な儀式なのだと、自分を誤魔化し続けた。
ある日のこと、俺は吹雪様から接客を依頼された。どのように振舞えばよいのか尋ねたところ、いつも俺が吹雪様に対するようにしていれば良いとのことだった。そうして引き合わされた漢は、道場で何度か見たことがあった。見かけただけで話をしたことはないし、名前も知らないが、吹雪様はこの漢のことを『先代』と呼んでおられた。
どのような経緯で、殆ど面識も無いこの漢に引き合わされたのか知らない。しかし、俺がこの漢をどのように持て成せば良いのか、それはすぐに解かった。客を待つために指示された部屋には床が伸べてあり、俺は夜着用の浴衣を着せられていたから。
「辰伶、君は本当に可愛いね」
『先代』と呼ばれていた漢は、まるで子供のような人懐っこい笑顔で、俺の肩に手を掛けた。柔和で優しげな風貌にも係わらず、俺は得体の知れない恐怖を、その笑顔に感じた。
その恐怖の前に、俺は思考力を麻痺させてしまった。俺は吹雪様から仰せられた通りにするしかなかった。吹雪様から教わったように着衣を脱ぎ、吹雪様に対するように指や唇や舌を使い、腰をうねらせた。
「吹雪が仕込んだだけあるね。私は君みたいな素直な子が大好きだよ」
吹雪様とするのと全く同じ行為でありながら、それは全然別のものだった。行為に慣れた体であったから苦痛や負担は殆ど無かったが、心が悲鳴をあげていた。早く終わって欲しいと、そればかり考えていた。
行為が終わり漢が去った後も、俺は布団に臥したまま動けずにいた。思考を失ったまま、茫然と薄闇の奥を見詰めていた。
その闇が割れて、吹雪様が現れた。吹雪様は後ろ手に襖を閉め、俺のすぐ傍に片膝をついて、俺を覗き込んだ。
吹雪様の顔を見た途端に涙が込み上げてきた。泣けて泣けて、俺は吹雪様に縋りついて泣いた。泣きながら吹雪様を求めた。
吹雪様に抱かれながら、やはりこの行為は違うと思った。さっきまでの行為とは全く違う。吹雪様の腕の中には不思議な安心感があった。吹雪様と俺との間で交わされるこの行為は特別なのだと、性行為とは全くの別物なのだと、強く思った。思い込もうとしていた。
それから何度か『先代』なる漢を接待し奉仕したが、俺が泣いたのは最初のそれきりだった。俺の中の何かが崩れてしまったらしく、それによって出来た隙間から冷たく乾いた風が吹き込み、涙を凍らせてしまうのだった。
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