+・+ 末期の部屋 +・+
金の翼・銀の羽根
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辰伶は呆れた声で言った。
「ならば、携帯を鳴らせば良かったものを…」
「あ、そうか」
辰伶と合流して、ようやくほたるはマンションに帰ることができた。合鍵を忘れたのは仕方がない。誰にでもうっかりすることはある。問題はその後の行動だ。荷物を放り出して、いつ戻るとも知れない同居者をぼんやり待っているだけなんて、余りにも芸がないではないか…
小言くさい辰伶はウザイ。ほたるは定位置となっているソファに深々と沈んだ。こういう時は迂闊に言い訳や反論などせず、うんうんと頷いて聞き流すのが得策だ。
「聞いているのか」
ジロリとほたるを見下ろし、辰伶はキャビネットの上のコーヒーウォーマーにサーバーを置いた。コーヒーの芳香が部屋に満ちる。辰伶はキャビネットからコーヒーカップを2客取り出し、テーブルにセットした。そしてウォーマーに乗せていたサーバーを手にして、コーヒーをカップに注ぐ。
「うん。ありがと」
今朝利用したコーヒーショップのオリジナルブレンドで、すっきりした苦味が、ほたるの好みに合う。出掛けに辰伶はサーバーを店に預けて注文し、帰りしなに寄って来たのだ。
サーバーを戻し、辰伶も定位置であるほたるの向かいに座った。そして、思い出したかのように書店の紙袋をほたるへ差し向けた。
「お前の好きそうなパズル雑誌を見かけたんでな」
「へえ…」
受け取った紙袋を開けて、取り出した冊子の中身をパラパラと眺めた。
「…うん、やりがいがありそう。ありがとね」
凡そ趣味というようなものなど何も無かったほたるが、人界で暮らすようになって初めて持ったそれが、数理パズルを解くことだった。難度が高ければ高いほど面白い。恰好の暇つぶしとなった。
すぐさまほたるは、それに取り掛かった。辰伶も何か本を読み出した。そうして時折コーヒーを啜りながらパズルに没頭していたが、夢中になる余りに長時間同じ姿勢を続けてしまっていたようで、ふと体に疲労を覚えて集中力が途切れた。体勢を変えようと身じろぎしたところで、辰伶と目が合った。
「何?」
「え?…あ、いや…」
辰伶は我に返り、慌てて書籍に視線を落した。その素振りからして、どうやら辰伶はずっとほたるを視凝めていたようだ。しかも、全く自覚が無かったらしい。
「俺に見惚れてた?」
冗談でそんなことを言ったのだが、その途端に辰伶が目に見えて顔を紅潮させたので、ほたるは驚いた。ちょっと、それマジなの…?
「その…パズルはそんなに面白いのかと……夢中になっているようだから…」
お疲れ様と、ほたるは心中で労う。頑張って言い訳をしたようだが、動揺が顔と態度に出てしまっている。つくづく、嘘のつけない悪魔だ。
「あ…と、カップが空だな。コーヒーのお代わりは?」
「ありがと」
辰伶はそそくさと席を立ち、カップを取り上げて背を向けた。パズル以上に面白いものを見つけたほたるは、さて、このオモチャでどう遊ぼうかと、辰伶が知ったら憤慨するようなことを考えた。辰伶はどんな心持ちで、ほたるに見入っていたのだろうか。理由が解らないことには、からかうネタも思い浮かばない。
ストレートに追究してみるか。その思いつきは、とても良いものであるような気がした。その行為自体が、辰伶を素敵に動揺させるだろう。否、それよりもっと単純に、ほたるは理由を知りたいと思った。時々、辰伶に関して、押さえ難い衝動が沸き起こるのを、ほたるは自覚している。それは彼が自分と血の繋がった兄弟であることに関係してのことか知らないが、紛れもなく「何かを期待して」の、強い感情だった。
とは言え、あからさまに訊ねるには、少々時機を逸してしまった感がある。上手い切り口が見つからない。ほたるは思案に暮れた。
コーヒーを注ぐのに時間はさしてかからない。そうこうしているうちに、辰伶が戻ってきてしまった。考えあぐねたほたるは、先程の辰伶に倣い、彼の顔を不自然な位に凝視した。
「な、何だ…?」
注がれる強い視線に、辰伶がうろたえた。先程の動揺が尾を引いていたのか、彼の平常を崩すことは、存外簡単だった。ほたるの双眸は尚も執拗に辰伶を捕らえたまま、普段よりも少し低い声で言った。
「…辰伶は、俺に嘘ばかりつく…」
意図した言葉では無かった。しかしそれはほたるの口から自然にこぼれた。辰伶の一切の動きが止まり、再び時間が流れ出すまでの短い空白の間に、ほたるの胸の中では様々な想いが錯綜した。それらは複雑な軌跡を描いて絡まり合い、縺れて全身を縛る。一思いに断ち切ることを、ほたるは決意した。
「…嘘…など…」
「嘘じゃなければ、隠し事とか。…知ってるんでしょ。俺たちが血の繋がった兄弟だってコト」
ほたるは天界では『螢惑』という名で通っている。それは庵一族の、ほたるを拾った青年が付けた名だ。彼がどうしてもと言うので、華焔の谷の外では本名を口にせず、『螢惑』と名乗って来た。昏界を出てからは、意識して『ほたる』の名を封印した。『金の天使』、或いは『光の天使』と呼ばれているのは、『螢惑』であり、『ほたる』ではないのだ。
華焔の谷に住む妖魔の庵一族しか知り得ない、ほたるの本当の名を、辰伶は呼んだ。だから、ほたるには解ってしまった。2人が兄弟であることを、辰伶も知っているということが。
「……知っていたのか…」
気の抜けたように大きく溜息をつくと、辰伶は深々とソファに沈んだ。
「…隠していたというなら、その通りだ。迷っていたんだ。言うべきか、言わないべきか……言うにしても、何て言ったらいいのか…」
「それは、お前の父親が俺たち母子を捨てたから?」
跳ね上がるように、辰伶は上体を起こした。驚きに瞠目し、前にのめる勢いで言った。
「それは違う!俺たちは……いや、そうか……お前はそんな風に思っていたんだな…」
否定を叫んだが、後半には寂しげな落胆に変わっていた。その消沈ぶりは演技には見えない。自分でも不思議なほど冷静に観察しながら、ほたるは無言でいた。暫しの沈黙を、辰伶が破った。
「習慣、或いは文化と言うべきか。住む世界によって、それぞれ違う訳だが、魔界の婚姻制度は、他の世界とは異なる部分が大きい。…任務などで魔界から出るようになって、俺はそれを知ったのだが…。だから、魔界以外で育ったお前には、奇妙に思えるかもしれないが、魔界人にはごく普通のことであることを念頭において、俺の話を聴いて欲しい」
長い前置きして、辰伶は語り出した。
「魔界では、多夫多妻制で、重婚が認められている。その為、家族構成が多様で複雑なのだが、基本的に子供は父親の血統を重視し、子供に対する権利は正妻のみが有する。正妻とは、第一夫人のことだ。子供を産んで良いのは正妻だけという理念から、全ての子供は等しく正妻の子と見做される。そして、子供にとっては、父親の妻全員が己の母であり、父を同じくする子供は全員が兄弟だ。
具体的に、俺たちの例で説明すると、俺たちの父親の正妻は、俺の生母だ。俺もお前も、俺の母親の子供ということになる。兄弟の序列は母親の身分に関係なく、純粋に生まれた順だから、先に生まれた俺が兄で、お前は弟だ。
同時に、お前の生母は、俺の母でもある。俺もお前も、母親が2人いると言った方が、解り易いだろうか。こんなことは、魔界では全く普通のことなのだが……ほたる、ここまでは整理できたか?」
「ええと…辰伶が国語が得意なのは解った」
沈痛な面持ちで額を押さえる異母兄を慰めるように、ほたるは「よしよし」と、その頭を撫でてやった。その行為を、辰伶は情けなさそうに、やんわりと払って拒絶した。
「とにかく…俺たち家族は普通に仲良く暮らしていたんだ。2人の母親たちは姉妹のように仲が良かった。俺も、お前の母親のことは『天使の母様』と呼んで慕っていたし、とても可愛がって頂いた。やがて、お前が生まれて……あの頃が幸せの絶頂だった…」
瞳が遠い日々を懐かしむ。その色は自分と同じ琥珀色で、ほたるは胸が締め付けられた。間違いなくこの瞳に祝福されて、自分はこの世に生を受けたのだと、信じられる気がした。
「…だが、その頃から『天使の母様』は酷く体調を崩された。どうやら天界人の母様には、魔界の空気は良くないらしい。しかたなく、『天使の母様』には昏界に移り住んで頂くことになったのだが、それを『天使の母様』は渋った。理由は、…ほたる、お前と離れたくなかったから…」
辰伶は酷く哀しそうに、ほたるを視凝めた。
「先程説明したように、魔界では子供は全て正妻の実子扱いになる。お前と暮らす権利を持っているのは、『天使の母様』ではなく、俺の母親の方なんだ。…勿論、俺の母が許せば、お前は『天使の母様』の元で暮らすことができる。しかし、自分が産んだのではなくても、母にとっては、お前も愛すべき実の子なんだ。手放すことなんて、できる訳がない。魔界で育ったわけではないお前には理解しにくいだろうと思うが、魔界の母親としてはごく当たり前の感情なんだ。決して、俺の母が冷酷非情で、『天使の母様』からお前を取り上げようとしたんじゃない。それだけは…解ってやって欲しい…」
切々と真情を訴えるうちに昂ぶっていた感情を、風船から空気が抜けるように急速に萎ませて、辰伶は黙り込んだ。一旦おいて冷静さを取り戻し、話を再開した。
「魔界では常識的なことだが、天界人である『天使の母様』には、お前と引き離されるなんて、理解しようのない、辛く耐え難いことだったのだと、今なら俺にも解る。思い余った『天使の母様』は、お前を連れて姿を消してしまった。俺の母は子供を攫われて、嘆き、怒り、あらゆる手を尽くしてお前達母子の行方を追ったが、捕まえることは出来なかった」
不意にほたるは合点がいった。ほたるが華焔の谷の外で本名を口にすることを禁じられたのは、魔界の追及の手を逃れたいという、ほたるの母親の願いがあったのかもしれない。ということは、ほたるを拾った庵一族の青年は、ほたるの母親と面識があった可能性がある。今度会った時に問い詰めてやることにした。
「きっと天界に帰ってしまったのだろうと、母も追うのを諦めた。しかし、『天使の母様』に対する憎しみは消えなかった。俺も、大事な弟を盗んで行った女を恨んだ。あの頃は、それが当然だと、母も俺も思っていたから…
それから間も無く、父が任務で落命した。代わりに母が任務につき、人界へ行くようになった。『銀の悪魔』というのは、本来は母につけられた徒名だ。俺が成人して家業を継いでからは、俺がその名で呼ばれるようになったが…
…話が逸れたな。母は何度も人界へ行くうちに、これまで自分が常識と思っていたことが、他の世界でも同じだと限らないということを知った。その時になって、やっと『天使の母様』の気持ちに気付いた。自分がほたるを奪われて悲しいと思った気持ちこそ、そのまま彼女の気持ちだったのだと、母は理解し、そして彼女に辛い思いをさせてしまったことを悔やみ、憎んだことを恥じた。
そんな母に俺は諭され、また自身も人界へ訪れ、この目で世界を見て、己の見識が如何に狭いものであったかを知った。そして…俺や母の価値観をすっかり変えてしまった人界に興味を持ち、少しの間、暮らしてみたくなったんだ」
それで辰伶は長期の休暇を取り、魔界を出て独り人界に居たのだ。銀の悪魔がまさかそんな理由で滞在しているとは、誰も想像がつくまい。辰伶という悪魔は、どんな時でも一途で、どこまでも純粋なのだ。天界の連中が知ったらどんな顔をするだろう。
「…人界に来て良かった。お前と巡り会うことができて…」
過去の話だったのが、いきなり現在に及んで、ほたるは反射的に顔を上げた。弟を見守る温かい2つの瞳が、そこにある。その真っ直ぐな純粋さが気恥ずかしくて、ほたるは誤魔化すようにコーヒーカップを弄んだ。
「雪に埋もれるようにして倒れているお前を発見した時は、心臓が止まるかと思った。お前のその金色の髪が、生き別れになった弟のそれにそっくりで……本人なんだから、当然だが。別れたのは赤ん坊の頃だったが、お前のその輝く金色の髪と翼なら、絶対に一目で解ると信じていた」
翼。ほたるの代名詞ともなっている金の翼。それは一目瞭然だろう。こんな色の翼を持つ者は、他に誰もいないのだから。しかし、辰伶はそれを見ていない。それでも…
「…翼……見てないのに、俺だと解ったの?」
「お前の顔は『天使の母様』にとてもよく似ていたから」
「…似てるの?」
「似ている。とても懐かしく思った」
カップに視線を落す。褐色のコーヒーに映る不明瞭な像では、どんな顔だか解らなかった。
「…翼が無くても、俺だって解ったんだね…」
天界では金の翼しか評価されなかった。うんざりするほど翼、翼、翼……まるでそれにしか価値が無いかのように。だからほたるは己の翼が嫌いだった。憎んでさえいた。
辰伶がほたるの翼を見たがったのは、単に綺麗なもの、珍しいものが見たかったのではなく、記憶にある弟の姿を懐かしんだからだろう。今ならそれを、ほたるは信じられた。
「…辰伶、俺の翼が…見たい?」
突然のことに辰伶は驚き、一瞬だけ瞠目したが、微笑んで頷いた。ほたるは立ち上がり、上半身だけ服を脱ぎ、背中を向けた。
「……っ」
辰伶は息を呑み、立ち上がって凝視した。ほたるの白い背中には、二つの裂傷の痕があった。辰伶が声を出せず立ち尽くしている間に、ほたるは元通りに服を着て向き直った。
「ごめんね。翼…取られちゃった。見せてあげたかったけど…」
「…とら……れた…?」
「…天界を追放されたとき、天使の資格を剥奪するついでに、没収されちゃった。天界人は綺麗な翼が大好きだから剥製にでもして飾ってるんじゃ…」
嘆くでもなく淡々と事実を述べるほたるを、辰伶はその胸に強く抱きこんだ。
「ちょ…辰伶…」
「誰が…誰がお前にそんな酷い傷を…」
唐突な辰伶の行動に、ほたるは戸惑った。辰伶の反応の激しさは予想を遥かに超えていた。そして辰伶はまた唐突に身を放し、低い声で言った。
「…あいつらか…」
その声の冷たさは、ほたるが初めて耳にするものだった。ほたると同じ琥珀色の瞳が、鋭く非情な光を放っている。
厳しい顔のまま辰伶は、リビングからベランダへ出るガラス戸に向かい、極めて直線的に歩いていった。乱暴にレースカーテンを開け、続けてガラス戸を開け放った。夕焼けに染まるベランダの向こうの空から、数人の天界人がこちらの様子を見ていた。辰伶はベランダに出ると、翼を広げた。
「辰伶!?」
ほたるは駆け寄ったが、辰伶は天界人たちに向かって飛んでいた。すぐに激しい乱戦となり、マンションの真上あたりに移動してしまって、ほたるからは見えなくなってしまった。ほたるは急ぎ屋上へ走った。辰伶…辰伶の翼…
「…そんなことって、あるの…?」
魔界人の翼は黒い。夜の闇のような漆黒の翼が、悪魔の象徴だ。しかし辰伶の翼は違った。彼の髪と同じ銀色に輝くような白。ほたるが母の形見として大事にしている羽根と同じ色だった。
息を切らせたほたるが屋上に辿り着いた時には、惨劇は終わっていた。夕闇が迫る屋上では、天使たちが散らした羽根が血に塗れて、無数に舞っていた。
薄闇の中で黒ずんで見える血溜まりの中心で、銀の悪魔は怪我どころか返り血1つ浴びておらず、彼の徒名の由来である銀の髪を、風に吹かれるままに靡かせていた。やがて時間と風が惨状を洗い流し、何事もなかったように争いの痕跡は消え失せた。
「辰伶…その翼…」
ほたるが声を掛けると、辰伶の険しかった表情が緩んだ。
「俺たちの父親は、魔界人と天界人のハーフだった。俺には天界人の血が4分の1流れている。この白い翼はその証しだ」
つまり、ほたるは4分の3が天界人の血で、残りの4分の1が魔界人だったということだ。だが、そんなことは些細な事実に過ぎない。ほたるを最も驚かせた真実が、ここにある。
「これは…お前のなの?辰伶の羽根だったの?」
ほたるの、たった1つの宝物だった銀の羽根。己の母のものではないかと、他人から言われるままに、ほたるもそう思い込んでいた。
「そうだ。油断していたら、赤ん坊だったお前に容赦なく毟り取られた」
ほたるの過去の悪行を、辰伶は苦笑いで責めた。
「何で言ってくれなかったの?俺は…」
この羽根の持ち主に逢いたいと、ほたるはずっと思っていたのだ。ほたるを慰め、支え続けてくれた、この銀の羽根の持ち主に。
「お前はそれを母親の形見と思っているようだったから。他には何も無いようだし。母親を偲ぶ物が何1つ無いなんて、そんな哀しいことは告げられなかった…」
顔も知らない母親を慕う気持ちもある。けれど、羽根から僅かに感じる漣のような優しい労わりの波動こそ、ほたるが心から求めていたもの。その持ち主が辰伶と解ったところで、失望などするはずがない。羽根の持ち主に会えて良かった。それは魔界の住人である悪魔で、ほたるが仇と思っていた男の息子で、たった1人の……兄弟だった。
「それに…」
少し決まり悪そうに、辰伶は付け足した。
「羽根を毟られた時、反射的にお前を叩いて泣かせてしまって、俺は母親から叱られて…お前なんかどこかへ行ってしまえなんて思っていたら、本当にお前が消えてしまったから……俺にとっては余り良い思い出じゃないんだ」
辰伶はそっとほたるの背に手を回し、包み込むように抱擁した。これこそ、ほたるが本当に求めていたもの。ずっと望んでいたもの。心が熱くなった。そして実際に、背中の肩甲骨辺り…辰伶の掌が当てられているところが、瞬間的に熱くなった。
「何?」
驚いてほたるは身を離した。辰伶は満足気に微笑んでいる。その背中には銀の翼が無い。
「辰伶…何したの?」
「やはり、天使には翼が無いとな」
かつて馴染んだ感覚が、背中にある。ある予感を持って、ほたるはそれが何か確かめた。
「お前の方が似合うな」
辰伶の銀の翼が、ほたるの背にあった。辰伶が移し替えたのだ。信じられない行為をした異母兄を、ほたるは茫然と視凝めた。その視線の先で、辰伶はゆっくりと瞳を閉じ、その場に崩れた。咄嗟に手を伸ばし抱きとめたが、バランスを崩して2人共に床に崩れ落ちた。
「辰伶……辰伶!?」
呼吸が無い。鼓動も聞こえない。ほたるの呼びかけに、辰伶はピクリとも応えない。一体何が起こったのか。焦ったほたるは、成す術もないまま辰伶の名を呼び続けた。
「よお、螢惑」
頭上から名前を呼ばれた。聞き慣れた声に見上げると、庵一族の、ほたるを拾った青年が空中から覗き込むようにして見下ろしていた。
「ゆんゆん…」
「遊庵だっつってんだろ。…で、どうしたんだよ。何か騒いでるみたいだけど」
「ゆんゆん、辰伶が…」
「ああん?」
遊庵は降りてきて、辰伶の状態を調べてみた。
「ふうん。こりゃ、ガス欠だな。力を使い過ぎたんだ。疲労を回復する為に、寝てるようなもんだ」
「え、でも、息とかしてない…」
「疲労がハンパなくて、仮死に近い状態なのさ。死にゃしねえから安心しろ。このまま寝かせとけば自然と回復して、そのうち目を覚ますさ」
「そっか…どれくらいかかるの?」
「さあ…100年かかるか、200年、それとも500年……ひょっとしたら1000年近くかかるかも…」
「そんなに!?」
ほたるは腕の中で何の反応も示さない異母兄の頬に、そっと指を這わせた。
「つーか、ここまで力を使い果たす程、一体コイツは何したんだよ」
「…翼」
「ああ?」
遊庵はほたるの背中の銀の翼を見て、事態を察した。
「ムチャしやがって…下手すると本当に死んじまうぞ…」
溜息混じりの遊庵の呟きに、ほたるも同意する。本当にどこまでバカなんだと思う。自分は翼なんて無くても良かったのに。銀色の翼は、辰伶の方がずっと似合っているのに…
「…起こせないの?」
「この状態から無理に意識を戻させると、これまでの記憶が全部飛んじまう。そうだな、魔界に帰ったら、吹雪って奴に相談してみな。アイツの方がこういうことは詳しいし……可愛い弟子のこんな状態を見たら、必死で方法を探すだろ」
遊庵の言葉の最後の方は独り言のようで、ほたるも余り聞いていなかった。辰伶を魔界に帰してやらなければと、そう思い、彼の力の無い身体を強く抱き締めた。
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