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金の翼・銀の羽根

-3-


 穏やかな日々が過ぎた。取り立てて争うこともなく……いや、実に他愛の無い、争いとは到底いえぬ攻防が毎日繰り広げられているのだが、それは寧ろ平和の象徴的なものだった。『喧嘩するほど仲が良い』とは、人界発祥の名言の1つである。

「ほたる、起きろ」
「……」

 辰伶が声を掛けるも、返事は無い。もぞもぞと身じろぎ、煩いとばかりに布団に深く潜り込む。見た目に反して気の短い辰伶は、怠惰に任せてベッドから出ようとしないほたるが頭から被っている布団を引き剥がした。布団の中では、毛布を体に厳重に巻きつけた巨大イモムシが生息していた。

「いつまで寝ているつもりだ。とっくに日は高いぞ」
「…………まだ8時じゃない…」
「もう8時だ!」
「……9時までは誤差の範囲だから…」
「意味がわからん。…まったく、朝食が冷めてしまうではないか…」

 突如として、ほたるが跳ね起きた。先ほどまで寝ぼけた声をしていたのが嘘だったかのように、剣呑な光を帯びた双眸が鋭い視線を辰伶に突き刺した。

「朝メシ……作ったの?」
「ああ」
「…お前が?」
「他に誰がいる」

 辰伶が朝食を準備……冗談ではない。料理は魔法を使わなくてもできると、ほたるに教えられて以来、辰伶は料理にいたく興味を持ってしまったらしく、やたらとキッチンに立ちたがる。しかし、興味と向上心が必ずしも美しい花を咲かせるとは限らない。極々短期間の内に、辰伶には料理のセンスが欠片も無いことを、ほたるはその味覚と胃腸で思い知らされたのだ。

 朝から劇物は御免だ。辰伶を突き飛ばし、ほたるはパジャマ姿のままキッチンに走った。勢い飛び込み、目の当たりにした光景は余りに予想通りで、その場に膝を着いて脱力した。

「そんなに空腹だったのか。ならば素直に起きれば良いものを」

 暢気な声を掛けてきた相手を、ほたるは自分の左肩越しにギロリと睨みつけ、出し得る限りの最も低音な声で言った。

「…料理は お れ が するって、言ったよね…」
「いつもやらせてばかりでは申し訳ないだろう?お前は寝ていたし…」

 その気遣いが、却って大きなお世話なのだ。ほたるは苦々しくなった。本当は料理をしてみたいだけのくせに、尤もらしい理由をつけるところがウザイ。

「まあ、料理といっても簡単なものばかりだがな。トーストと、サラダと、スープと、オムレツだ」

 辰伶が指したカウンターの上に並ぶ皿を、ほたるは端から順に視線で追った。備長炭と、前衛芸術と、スライムと、廃棄寸前の台所用スポンジ……にしか見えない。しかも、妙に酸っぱい臭いが漂っている。

「…なんか、全体に酢みたいな臭いがするんだけど。その前衛サラダのドレッシング?」
「サラダだけじゃない。トーストにも、スープにも、オムレツにもふんだんに使ってある」
「ちょ……酢なの?本当に、何かが化学変化したわけでもなく、ストレートに酢が入ってるの?全部の料理に?」
「酢は体に良いらしいからな」

 どこで聞き齧ったか知らぬ知識を披露し得意気にふんぞり返る悪魔に、元天使は殺意にも似た怒りを漲らせて罵った。

「この料理オンチのメシマズ悪魔!俺を殺したいの?保険金でも掛けてるの?」
「…酷い言われようだな」

 一応は、辰伶も自分なりに料理の不出来を感じていたらしい。ほたるの渾身の罵倒に憤慨することなく、神妙な顔でカウンターの上を眺めた。

「少し……失敗した…かな?」

 そう言って煮込みスライム(辰伶曰くスープ)を試食しようとするのを、ほたるは全力で止めた。

「もういいよ。責任感じて自害なんてしなくていいから」
「自害?(何故、味見が自害になるんだ?)」

 こんな得体の知れないもの(元は食材)を口にしたら、天界人だろうが魔界人だろうが、無事には済むまい。結局、それらは全て廃棄処分となった。そして、辰伶が朝食を作る過程で惨憺たる有様となったキッチンを、2人は一緒に片付けた。

「…朝から無駄にエネルギーを消耗したなあ…」

 ほたるがそう呟くのを、辰伶は申し訳なく聞いた。

「片づけが終わったら、コーヒーショップに行こう」
「ああ、そのまま買い物にも行こうかな。冷蔵庫の中の新鮮な食材が速攻で生ゴミになっちゃったし、酢は空だし」
「根に持つな。見てろ。いつかお前がびっくりするような料理をつくってやるからな」
「今でも驚異的なんだけど。頼むからキッチンに近づかないで。半径1キロメートルくらい」
「家に入れんではないか」

 特に何があるでもないが、笑顔で悪態をつける平和な日々が、彼らの日常となっていた。


 朝食をコーヒーショップで済ませた後、2人は別れて各自で出掛けた。ほたるは食材の買い直しに、辰伶は書店に。辰伶の行き先が書店と告げられた瞬間に、ほたるは同行の誘いを断った。書店に立ち寄った辰伶は無駄に長いからだ。

 買い物に余り時間を掛けないほたるは、さっさと用事を済ませてマンションに戻った。そこで己の失敗に気付いた。鍵が無い。合鍵を渡されていたが、マンションを出た時は辰伶と一緒だったので、持って出るのを忘れてしまったのだ。

「…て、ことはつまり、辰伶が帰って来るまで入れないってこと…?」

 左右両手の荷物を交互に見下ろし、ガックリと肩を落とした。前述の通り、書店に入った辰伶は無駄に長い。いつ帰ってくるか見当もつかない。すぐには帰ってこないということだけは確実だ。

「サイアク…」

 その場にしゃがみ込み、溜息をついた。とりあえず、アイスクリームを買わなかった自分を褒めてみる。季節が冬で、生ものが傷みにくいことも良かったと思える。だんだん思考が前向きになってきた。

「ま、いっか」

 荷物を扉の前に置く。誰かに盗られて惜しいものは無い。さて、これからどうしよう。辰伶が居るだろう書店は解るが、そこまで行くのも面倒くさい。

「待ってれば、そのうち帰ってくるし」

 ほたるはマンションを出て、公園を漫ろ歩いた。少々寒いが天気は良い。日当たりの良いベンチに腰掛けた。これはいい。ぼんやりと日向ぼっこをしながら時間を潰すのは嫌いでは無い。

 しばらくそうしていると、目の前に鳩の群が舞い降りてきた。頭を前後に振って歩き回り、時々地面をつついたりしているが、何か餌になるようなものが落ちているのだろうか。よく解らない。

 ふと、群の中の1匹がほたるの方へ近づいてきた。この1匹だけが真っ白で、悪目立ちしている。さっきまでこんなのが群の中にいただろうか。不自然さに、ほたるは目を眇める。足元まで来た白い鳩は、思念でほたるに語りかけてきた。

 …―― 螢惑 …

 ほたるの表情が険しさを増す。思った通りだ。

「…天界が今更、俺に何の用?」

 ほたるは天界では『螢惑』と名乗っていた。ほたるを育ててくれた妖魔が与えてくれた、ほたるのもう1つの名前だ。

 天界の使者である白い鳩は羽ばたいて、ほたるの座っているベンチの背凭れに留まった。

 …―― 何故、『銀の悪魔』をのさばらせたままでいる …

「別に。関係ないし」

 …―― 関係なくはあるまい。お前の母親の仇だろう …

「正確には、仇の息子だよ」

 態々こんなことを言いに来るという事は、ほたるの読み通り、天界は2人を噛み合せ、相争わせる心積もりだろう。この時点で辰伶と争うのは得策と言いかねる。だが、天界の使者に罵詈雑言を浴びせて拒絶するのも簡単なことで、それはいつでも出来る。ならば少し相手の出方を探ってみるのも手だ。

「…俺に何をさせたいの?」

 …―― 天界に徒なす『銀の悪魔』を討て …

「…簡単に言ってくれるね…」

 …―― 『銀の悪魔』を討ち取れば、その功績によっておまえの処分は取り消しにしてやる。階級も以前通り。悪い話じゃない筈だ …

「……」

 天界人の資格を剥奪され、天使としての力を殆ど失ったに等しいほたるが、『銀の悪魔』と互角に戦う事など出来るはずが無い。そんなことは天界も承知だろう。それを敢えて焚きつける事の意図はどこにあるのか。

 追放された天使がその恨みから、後に天界に災いを成さぬよう、禍根の芽と成り得るものは摘み取っておこうといったところか。天界が直接手を下したのでは外聞が悪いので、『銀の悪魔』を利用することにしたのだろう。ついでに『銀の悪魔』にも、何らかのダメージが与えられれば儲けものだ。

 はっきり言える。天界は、端からほたるの勝利を期待していない。口先だけの恩賞なら、幾らでも惜しみなく弾もうというものだ。

 やっぱりろくなモンじゃない。ほたるが天界の思惑通りに動いてやらねばならない義理はなかった。そもそも仇云々というなら、辰伶の父親だけでなく、天界もそうだということに気付いていない辺りが厚かましいと、ほたるは思う。ついでに言うなら、鳩に変身するにしてもありふれた灰色のドバトでは我慢できないというメンタリティの持ち主とは懇意にしたくない。

「別に天界なんて帰りたくないし、放っといてくれないかなあ」

 …―― 『銀の悪魔』に情けを掛けられて腑抜けたか …

「……関係ないと思うけど…」

 辰伶は関係ない。もともと天界に愛着など微塵も無かったし、階級にも未練などない。殊更、辰伶と争いたくないからじゃない…筈だ。

 …―― 処分が取り消しになるということは、お前が失った全てが戻ってくるということだぞ。当然、お前の大事なアレも …

「あ、『銀の悪魔』だ」

 ほたるが指差す遥か先の人ごみに、銀色の頭が小さく見えた。慌てふためいた白い鳩は忙しく羽ばたき、空の彼方へと飛び去った。

「小心だなあ。そんなに『銀の悪魔』が怖いの?…あんなにカワイイのにね」

 程なくして距離が近づき、辰伶もほたるに気付いた。ヒラヒラと手を振ってみせると、笑顔で手を振り返してきた。

「可愛い過ぎ…」

 本当に、あれは悪魔として大丈夫だろうか。そんなことを思う立場では無いと思うが、少し心配になってしまった。


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