+・+ 末期の部屋 +・+
金の翼・銀の羽根
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マンションから通りを隔てて正面に緑地公園が広がっている。それを通り抜けたところにあるホットドッグ屋が、辰伶のお気に入りの店らしかった。ほたるが辰伶と暮らすようになって、食事は基本外食なのだが、最初に連れて行かれたのがこの店で、それからも何度も利用している。
「何だ?どうかしたのか?」
声を掛けられて、ほたるは我に返った。物思いに耽る余り、辰伶の顔を長く凝視し過ぎてしまったようだ。
「ちょっと…辰伶に拾われたばかりの頃を思い出してた」
初めてこの店に来たときの事だ。ほたるに向かって辰伶はさも得意そうに言ったのだ。
『いいか、ほたる。この店はカードではなく『現金』というもので支払いをするんだぞ』
その言葉に、ほたるの頭の中は真っ白になった。コイツは何を言ってるんだと思っていると、辰伶はほたるに紙幣を見せて、大真面目に『これが現金だ』と言った。続けて『この紙に書かれているこの数字が…』などと説明をしだしたので、これには唖然としてしまった。天界人だったほたるは人界のことに疎いだろうと思ったのだろうか。それにしても馬鹿にしすぎではないか。気付けば店員が必死に笑いを堪えている。
『お金の使い方くらい、知ってるよっ!』
思い余ったほたるは怒鳴ってしまった。辰伶は目を大きく見開いて驚いたが、面罵されたことで気分を害した様子はなかった。
「むしろ、感心してたよね」
「…あの頃は、人界も社会の仕組みは魔界とそれ程変わらないと聞いていたのに、まさかカードが使えない店があるとは思わなかったから…」
「それは辰伶が知らないだけで、多分、魔界にも使えない店があると思うよ」
「そ、そうなのか?」
己の認識不足を恥じたのか、辰伶は赤面した。彼のそういう顔を見ると優越感が刺激されて、ほたるは気分が昂揚してしまう。
「あの後もさ、今みたいに、テイクアウトしたホットドックを公園のベンチで食べたじゃない。その時も辰伶は的外れな知識自慢を披露してくれたよね。『これはナイフもフォークも使わずに食べるんだ。皿もいらないから、テーブルが無くても大丈夫だし、立ったまま食べてもいい。すごいだろう』って。俺、それのどこが『すごい』のか解らなくて、何て答えていいか困ったよ」
「……そんなに的外れだったか?」
辰伶の頬の赤味が更に増す。その表情は、ほたるに満足感を齎した。ほたるはすっかり楽しくなってしまった。
「天界だと光冠(いわゆる天使の輪)が支給されて、それを介して直接エネルギーを供給されるから、天使は食事なんてしないけどね。それでも、ナイフとフォークと皿とテーブルが完全に揃って無ければ食事が出来ないなんて思ってないから。手掴みだろうが、立ち食いだろうが、別に驚いたり感心したりしないし、まるで大発見みたいに他人に語ったりしないよ」
これで止めを刺せたかと思いきや、ほたるの予想に反して、辰伶は一変して神妙な顔つきになった。
「お前は光冠が無いが、もしや天界を追放になった時に…」
「うん。没収された。だから死に掛けた訳」
「つまり、エネルギーの供給が断たれたということだろう?…大丈夫なのか?」
どうやら辰伶はほたるの身を案じてくれたらしい。
「別に。人間や妖魔や、お前たち悪魔みたいに『食事』って方法でも生命活動は維持できるから。効率は悪いけどね」
「そうか。ならば良いが」
そう言って、辰伶は微笑を浮かべたので、ほたるはそれ以上はからかう気が殺がれてしまった。
「…辰伶は人界に住んでどれくらいになるの?」
「1ヶ月…は経ったな…」
「1ヶ月じゃ無理ないのかなあ……でも、人界に来たのは、これが初めてじゃないよね」
「何度も来ているぞ。任務で」
「そうだよね。辰伶は『銀の悪魔』だものね」
その異名は天界が最も警戒すべき悪魔に付けたものだ。強大な魔力を持ち、狡知に長け、天界に多大なる被害を齎したとして、闇の中で銀に輝く彼の髪の色からそう呼んだ。誇張もあるだろうが、しかしその名に込められた酷薄なイメージから、実際に目の前に存在する辰伶という悪魔は程遠い。
そもそも辰伶という悪魔は、天界と魔界の対立関係を抜きにしても、ほたるには個人的に憎むべき理由がある。母親を破滅させた悪魔の息子であり、仇も同然だ。それなのに一向に殺伐としてこないのは、辰伶という悪魔が人界に於いて余りに浮世離れしていて、事あるごとにほたるを脱力させてしまうからだ。
「何度も来てる割にはさ、人界の仕組みを知らなさ過ぎない?よくそれで人界に住もうなんて思ったね」
「何度も来てはいるが、いつも任務の為だったから、私的なことに時間を割けないだろう。だが、ずっと興味はあった。だから少し長期に休暇をとって、暫く人界の生活を楽しんでみることにした」
「長期って、どれくらい?」
「150年」
「…俺達には高々150年だけど、人界で暮らそうと思ったら結構長いよ。住む国とか場所にもよるけど、かなりお金がかかるよ。どうやって稼ぐの?魔術でズルとかしちゃうの?」
「そういうことに魔術を使うのは、魔界では違法だ。心配しなくていい。魔界での財産を、他の世界で通用する金銭類にトレードする仲介業者が、昏界の妖魔にいる。彼らの運営する銀行に口座を開けば、人界でもクレジット契約ができる。派手に豪遊などせず、普通に慎ましやかに暮らせば、何と言うことも無い」
「…慎ましやか…」
辰伶が人界での居所と定めたマンションは、この国では高級の名に値する物件だ。大層な『慎ましやか』があったものだが、魔界に於ける彼の身分なら、その気になれば豪邸に150年といわず1000年だって余裕で住めるのだから、それを思えば慎ましやかという表現も強ち間違いと言えまい。
辰伶の浮世離れした言動の数々は、魔界という人界とは異なる文化背景によるものとは違う。単純に、彼は世間知らずの貴族の御曹司なのだ。
「魔界での財産って、どうやって稼ぐの?」
「魔界では大魔王を至高とし、その配下に4人の魔王が居る。その4人の魔王から命令を受けて、俺達悪魔は任務を遂行する。その働きや功績によってポイントが加算され、一定以上貯まると位が上がる。位に相応して、大魔王から年金が支給されるんだ」
「じゃあ、悪魔が人間の魂を堕落させて手に入れようとするのは、金を稼ぐためなの?」
「簡潔に言えばそういうことになるかもしれん。それと、家名を高める為だ。位は親から子へと代々受け継がれ、相続した者はさらに位を上げる為に任務に励まねばならん。或いは、位はポイントに換算し直して財産として分与もできるし、譲渡も可能だ。天界は違うのか?」
辰伶の問いかけに、ほたるは説明するのに丁度いい言葉を懸命に探した。
「天界は……位が上な方が上っていうか…」
「上が上って、そのままだろう」
「部屋が上なんだよ」
「…よく解らんな」
「ええと、天界はカミサマってのが1番偉くて、ナントカみたいに高いところが大好き。そのカミサマに近い場所に居れるっていうのが天使の名誉で、位が上だと高い場所にある部屋が貰えるわけ。で、カミサマは綺麗なものが好きだから、近くには綺麗なものを置いときたいから、羽根が綺麗な天使の位を高くするわけ」
「……」
「カミサマなんて見たことないけど、たぶん翼フェチの変態だと思う」
身も蓋もなく言い切ったほたるを、辰伶は唖然として視凝めた。
「なに?」
「いや…天界というところは、もっと美しい世界なのだと思っていたから、お前がそんな風に言うなんて驚いた」
「他の天使はどう思ってるか知らないけど、俺には酷く詰まらなくて、下らない世界だったよ」
「戻りたいとは思わないのか?」
「全然。…ま、どっちにしても無理だけどね。俺はもう天界人じゃないから」
「そうか……だったら、このまま…」
「何?」
「あ、いや…」
辰伶は言葉を切り、そのまま黙り込んでしまった。しかしほたるには彼が飲み込んでしまった言葉を正しく推測できた。辰伶はほたるに『このまま人界に留まって、一緒に暮らさないか』と言おうとしたのだろう。
それは悪くない提案だと、ほたるは思った。辰伶が言葉にしていたなら、『いいよ』と、衒うことなく同意していただろう。しかし辰伶は途中で止めてしまったし、ほたるは自分から言う気は無かった。口にするには余りにも現実感がなく、とても空々しい気分になりそうな気がしたからだ。同じ思いで、辰伶も言葉にするのを止めてしまったのだろう。
中途半端に終わった会話の後には不自然な沈黙が残された。空になったホットドッグの包み紙を、2人して持て余している。ほたるはチラリと横目で異母兄の横顔を窺い見ると、呟くような気怠い調子で言った。
「何かさ…外食ばっかだよね。あんなに立派なキッチンがあるのに…」
話題を変えたいだけだったので、特に意味があって言ったことではない。
「すまんな。しかし俺は料理魔法は知らんのだ」
「……料理って、魔法使わなくてもできるけど…」
「そうなのか!?」
辰伶が驚きの声を上げる。もう呆れる気持ちを起こらない。笑みさえ零れてくるのを、ほたるは自覚した。
「じゃあ、今日の夕食は俺が作ってみせようか?」
「ほたるは料理ができるのか?」
驚きと感心の眼差しが心地よい。さて、この世間しらずの悪魔に何を食べさせてやろうか。ほたるは無性に楽しくなった。
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