+・+ 末期の部屋 +・+
金の翼・銀の羽根
-1-
もう寒さなど、ほたるには感じられなかった。凍えた石畳に倒れ伏したまま、ファサリ、ファサリと己の身体を白く埋めていく雪の微かな音を聴いていた。
華やかなイルミネーションの大通りを1区画外れれば、深夜の街に人通りは無い。街灯の鈍い光の中を雪風が舞い、演技を終えた踊り子のように闇の中へ消えていく。その光景は幻のように、ほたるの霞んだ視界の先にあった。
己の五感が機能を果たさなくなっていくのを、ほたるは酷く冷徹に観察していた。まるで生と死の境界線を見極めようとしているかのようだ。
極限と言えるまでに『死』を至近にまで引き寄せていながら、それに対する感慨と呼べるものが、ほたるには無かった。本来ならば、天界人たる彼に地上の生物のような『死』は無い。ところが天界の天使たる資格と地位を剥奪されたことにより、ほたるの命は恒久性を失った。限りある命を日々繋いでいく地上の生物と同様になったのだ。
その身に傷を負ったまま下界に追放され、ほたるは死に直面していた。最早、金の髪に降りかかる雪を払うこともできない。身動ぎしようにも、凍えた指が微かに動いただけだった。
コートのポケットの中には大切な物がある。意識が朦朧となり、次第に先細っていく中で、ほたるはそれを手に取って眺めたいと思っていた。しかし身体は彼の意志に全く従ってくれない。
もどかしさに目を閉じる。たった1つだけ残った大切な物を目蓋の裏に描き、ほたるの意識は眠るように途切れた。
目覚めたほたるが最初に見たのは、見知らぬ天井だった。6帖の和室の真ん中に床が延べられて、そこにほたるは寝かされていた。
部屋には調度と呼べる程のものは無い。この部屋が普段は余り使われていないであろうことを、ほたるに想像させた。清掃だけは行き届いて塵も埃も落ちていないが、それがむしろこの空間の無機的な印象を助長している。微かに聞こえる空調の音だけが、リアルに生活感があった。
ほたるは起き上がって、布団を出た。動作の一つ一つが重い。まだ完全に調子が戻っていない。しかし死の際を経験した身としては、五体が随意に動くことだけでも感謝したくなる。ふらつく足で歩みを進め、隣室に続く戸を開けた。そこは穏やかな色調の明るいリビングで、ダイニングと広く一続きになっていた。
独りソファで本を読んでいた青年が、ほたるの出現に顔を上げた。銀色の長い髪がさらりと流れる。
「起きたか」
感情の篭らぬ声で、青年は言った。ほたるに声をかけたというよりは、目の前の事実を口にしただけのようだ。本を閉じ、無造作にテーブルに置いた。
「ここは何処?お前が俺を運んだの?」
ほたるの問いに青年は答えず、逆に質問を返した。
「何故、天使が行き倒れていたんだ?」
青年はほたるが人間ではないことに気付いていた。しかも天界に属するものであることまで把握している。先刻の彼に倣ってではないが、ほたるは彼の問いに対して質問で返した。
「どうして悪魔が天使なんか拾ったの?」
ほたるの正体を知る彼も人間ではない。しかし、天界人のほたるとは全く違う。魔界の住人。悪魔だ。
悪魔は人間を誘惑し、破滅させ、その魂を手に入れる。それに対し天界人たる天使は、人間を監視し、神との間に交わした契約を遵守させ、違反者を狩るのが役目だ。悪魔の誘惑に負け堕落した魂は、罪人を狩る天使たちの獲物でもある。その為、しばしば1つの魂を巡って天使と悪魔が真っ向から対立することがある。天界と魔界は敵対し、互いに相容れぬものと看做しているのだ。
死にかけている天使を、悪魔が助けなければならない理由が無い。何か良からぬ企みが潜んでいると考えるのが当然だ。ほたるの警戒心を理解し、悪魔が先に彼の疑問に答えた。
「珍しかったからだ」
「天使が?」
「天使が行き倒れていたことがだ。天界人のくせに、死にかけるなんてどういうことだ。下級のエンジェルズならまだしも、最高位の上級三階位に所属する身とあろう者が…」
「煩いなあ。余計なお世話だよ。……あれ?お前、俺のこと知ってるの?」
「座らないか?」
心を許したつもりはないが、ほたるは勧めに応じて彼の正面のソファに座り、わざとらしいほど深く背凭れに身を沈めた。
「貴様のことは魔界でも有名だ。金の翼を持った光の天使の噂は、俺も耳にしたことがある」
人界で人間に紛れている時は隠されているが、天界人も魔界人もその背には翼がある。通常天使は白く、悪魔は黒い。ほたるの翼は珍しい輝く金色で、その髪と翼の色から『金の天使』、或いは『光の天使』とも呼ばれ、その名を馳せていた。
「天界の評価なんて翼の見栄えばかりだから。この俺が熾天使だってさ」
翼が白く美しいほどに、与えられる階級も高くなる。白い翼を圧倒する金色の翼の美しさは高く評価され、ほたるは熾天使という最高の位が与えられた。しかし天界の価値観に胡乱な印象を抱いているほたるは、階位階級や権威に対して常に懐疑的だった。
「そう卑下することはあるまい。否、謙遜なのか?貴様が外見だけの能無しというなら、貴様と人間の魂を争って負けた悪魔どもの方がいい面の皮だ。貴様の能力は魔界の大貴族に匹敵すると聞いているが、それは低能な悪魔の自己弁護か?」
「俺が強いのは否定しないよ。でも、階級が翼のせいなのも本当。ま、俺には翼の色も階級も、どうでもいいことだけど」
「お前は天使にしては変わっているな。天界という所はもっと規律と階級が絶対というイメージなんだが…」
「俺は異端なんだよ。だからクビになった」
「は?」
『クビ』という単語がほたるの口から出るなど想像外だったらしく、青年悪魔は少し間の抜けた声をあげた。それが少しおかしくて、ほたるは繰り返した。
「天使をクビになった。だからもう階級なんてないし、天界から追い出された」
「……それで行き倒れて、死に掛けていたのか。しかし、クビとは……天界を追放されただけでなく、天界人たる資格すら失ったということか。何か大変な失敗でもしたのか?」
「言ったでしょ。俺は異端なんだって。俺みたいなのは、天使の資格は無いんだってさ」
「それでも、余程のことがなければ…」
「同胞である天使たちを傷つけ、怪我を負わせた」
「……」
「天使にあるまじきことだよね。正統な天使は、身体を傷つけずに心を傷つける…」
突如として我に返り、ほたるは言葉を切った。うっかり余計な事まで言ってしまった。辰伶の表情を見て、ほたるは舌打ちしたくなった。今の言葉で、天界に於いてほたるが如何に精神的な暴力に晒されてきたか、青年悪魔は理解したらしい。何かもの言いたげな眼差しが、ほたるへと注がれている。その視線はほたるを不機嫌にした。
「…天界を追われて、どこか行く当てはあるのか?」
「無いことも無いよ」
「ならいいが…見たところ、お前には暫く休養が必要だと思う。身体が本調子になるまで、ここに居ても構わないのだが……部屋も空いているし……」
ほたるは目を眇めた。
「いつもそんな風に人間を誑かすの?辰伶は」
青年は驚きに目を見開いた。
「俺がお前の名前を知ってることが不思議?お前もさ、有名なんだよ。銀色の髪の、銀の悪魔って」
若くして爵位を継いだ魔界の大貴族。近年、人間を誘惑し、魂を魔界へ堕とすことに、質量ともに最高の業績をあげている悪魔だ。彼と任務が競合した天使は、いずれも敗退を余儀なくされている。氷のような美貌と白銀に輝く髪から、天界人たちはその悪魔を『銀の悪魔』と呼んでいた。それがこの辰伶という名の青年悪魔だ。天界が最も注目し警戒している悪魔の1人だ。
予告もなくほたるは辰伶の頤に手を差し伸ばした。まるで口付けをするように少し上向かせ、囁やくように言った。
「お前の容姿なら、天使だって堕とせるかもね」
弾かれるように、ほたるの手は払いのけられた。羞恥か、それとも怒りの為か、辰伶の頬は紅潮し、琥珀の双眸がほたるを睨みつけていた。ほたるは挑発的に口角を上げた。同情や憐憫の眼差しよりも、この方が遥かに気持ちがいい。
「空いてる部屋って、どこ?」
「え…」
ほたるは立ち上がった。
「世話になるから。どの部屋を使っていいの?」
完全にペースを崩された辰伶は、少し茫然とした面持ちでほたるに説明をした。
「…その廊下の突き当たりの部屋を使ってもらうつもりだ。すぐに調える」
「俺が着てたコートは?」
「洗面所に吊るしてある。泥水で汚れていたから、クリーニングに出そうと思って……キッチンの隣が洗面所だ」
「解った」
ほたるは辰伶に背を向けた。その淡白過ぎるほたるの態度は、少しは辰伶を失望させるのに成功しただろうか。そんな無意味と思えることが、ほたるは何よりも気に掛かった。
ほたるのコートは丁寧にハンガーに掛けられて吊るされていた。ポケットに手を突っ込むと、湿った感触が少し不快だった。しかし、指先はほたるの大切な物が確かにそこにあることを探り当てたので、心から安堵した。
「良かった。ちゃんとある」
ポケットから引き抜かれたほたるの手には、純白に輝く天使の羽根が握られていた。微弱な発光が辺りを仄明るく照らし、それはまるで月の光を宿しているかのように美しい。これほど美しい羽根は、天界でも類を見ない。
ほたるは天界ではなく、昏界で育った。昏界は人界と同様に、天界と魔界の間に位置するが、人界とも全く別の世界である。その世界の住人は妖魔と呼ばれ、天界にも魔界にも属さず与せず中立を貫いている。魔界に近い辺境には『華焔の谷』と呼ばれる峡谷があり、そこがほたるの故郷だ。天界を追われて行く当てはあるのかと辰伶に訊ねられたが、あると答えたのは嘘でも強がりでも無い。
ほたるは赤子の時分に、華焔の谷に住む鍛冶を生業とする庵一族に拾われた。谷に近い森の中で、金色に輝く翼を持った赤子は、その手に天使の白い羽根を握って安らかに眠っていた。白い羽根が微弱ながらも放つ守護の力が、まるで聖母の手のように赤子の天使を守っていたそうだ。
赤子だったほたるを守ることで、全て費えてしまったのだろう。羽根には、もう何の力も残っていない。それでもほたるはこの羽根を見ていると、不思議と温かい気持ちになる。それは心の支えとなった。同時にこれは肉親を知る手掛かりでもあり、ほたるは何よりも大切にしていた。
やがて、成長したほたるのもとに、天界からの使者が訪れた。珍しい金色の翼を持つ天使が昏界に居るという噂が、天界にまで届いたのだ。この翼は天界に在るべき物だと、使者は言った。その主張も態度も気に入らなかったが、ほたるは招きに応じた。羽根の持ち主に会えるかもしれないという想いが、彼を突き動かしたのだ。
しかし天界には羽根の持ち主は居なかった。心当たりはないかと、天使たちに聞いて回った。その羽根はほたるの死んだ母親のものではないかというのが、彼らの一致した意見だった。この時、ほたるは初めて知った。ほたるの母親は死んでいたのだ。天界を追放されて。
母親の話を聞いた時の悔しさが鮮烈に蘇り、ほたるはコートの端を強く握り締めた。憤りと憎しみが、ほたるの魂を燃え滾らせる。炎のような苛烈な感情が噴出しようとするのを、ほたるは宝物の羽根を視凝めることで、辛うじて抑え込んだ。
まだ胸がチリチリとしていたが、大きく溜息をつくことで、鬱屈した想いを吐き出した。コートを握り締めていた頑な指も緩める。
母と子の2代に渡って、天界を追放されたのだ。辰伶に拾われること無く、あのまま雪に埋もれていたら、どうなっていたことか。
「…そうか。辰伶は命の恩人になるわけだ。……お礼、言ってないなあ…」
第一印象では、貴族的な横柄さと、感情を排した機械のような冷淡さを、辰伶という悪魔から感じた。しかしどうやらそれは辰伶が、天界人という敵対している存在に対して、己が取るべき態度を決めかねていたかららしい。ほたるの挑発に易々と翻弄された魔界の青年貴族を思い出して、ほたるは口を歪めて微笑した。
「…素直っていうか、悪魔がそんな平和ボケでいいのかなあ。天界がマークするくらいだから、強い筈だけど」
どのような理由があったにしろ、敵対している天界人を助けるなど、辰伶の行為は魔界人としては甚だ軽々しく愚かだ。それをあざけて、ほたるは笑う。辰伶は恩人に違いないが、素直に感謝できない。野垂れ死にしなかったことは嬉しいが、しかし、ほたるを助けたのが辰伶であってはいけなかった。
「悪魔のくせに無防備過ぎ。カワイイね、俺の異母兄は…」
異母兄という言葉に、たっぷりと皮肉を込めて、ほたるは呟いた。ほたるが辰伶に隔意を抱くのは、種族や価値観、主義などの問題ではなく、もっと個人的な拘りからなのだ。
天界でほたるは己の母親の末路と、その原因を知った。1人の天界人が魔界の大貴族に攫われ、子を宿したこと。やがて飽きられたのか魔界から放擲され、天界も救いの手を差し伸べるどころか、悪魔に汚された天使をとっくに天界から追放していたこと。…魔界で生まれた混血の天使を、天界は端から見捨てていたことも、ほたるはついでに思い知らされた。天界が歓迎したのは、己の類稀なる金の翼のみだと解っていたが、ここまで露骨だとは、さすがのほたるも予想していなかった。
ほたるは純粋に天使ではない。半分は悪魔の血が流れている。魔界の大貴族の血だ。そのことで、ほたるは天界に於いて蔑まれ、様々な嫌がらせを受けた。そして辰伶こそは、ほたるの母を死に至らしめた憎むべき悪魔の息子。ほたると辰伶は異母兄弟なのだ。
辰伶が住んでいるこの街へ、ほたるが墜とされたのは、決して偶然ではないだろう。
「天界の奴らは陰湿だから、きっとわざとなんだろうなあ。これが『神の思し召し』ってヤツ?」
罠だろうかと、ほたるは一瞬だけ疑ったが、すぐにその考えをバカバカしく思った。ほたるは追放された身だ。今更、罠を仕掛けて何の得がある。これ以上、ほたるを陥れる価値も意義も、天界には無いのだ。辰伶とほたるを噛み合わせて、どちらか…できれば両方消えてくれれば儲けものというくらいだろう。
「…勝手にすればいい。天界の意志なんて、俺は知らない」
自由になるのだと、ほたるは強く念じる。天界からも魔界からも疎まれ、天使にも悪魔にもなれぬ身だ。ならば、天使にも悪魔にもなってやらない。これ以上運命の掌の上で弄ばれるのは御免だ。
それなのに、何故だろうか、ほたるは辰伶に『世話になる』と言ってしまった。異母兄に引き合わせたのを天界の意志とするなら、そして天界に逆らうつもりなら、ここに留まるべきではない。実際に、ほたるは仇の息子の世話になろうなどと、寸前まではつゆほどにも思っていなかった。ところが、冷酷無比と噂されていた悪魔が、少しからかわれただけで頬を真っ赤にするものだから、愉快になってしまったのだ。
離れ難い魅力を、辰伶に感じてしまう。それは不思議な安らぎの波動だった。これが悪魔特有の能力だとしたら、人間たちがその誘惑に抗えないのも頷ける。
それに…銀色の髪も悪くない。ほたるが大切にしている羽根と同じ色だ。
「その羽根は…」
声を掛けられて、ほたるは我に返った。きちんと畳まれた衣類を手にして、辰伶が戸口に立ち尽くしている。ほたるの手元を見ていた。
「見たこと無い?天使の羽根だよ。俺の母親の形見」
「形見って……亡くなられたのか?」
「俺が赤ん坊だった頃に、とっくに死んでたみたいだから、顔も知らないけどね。俺に残されたのは、この羽根だけ」
「…そうか」
ほたるの話を聴いた辰伶の感想は、そのたったの一言のみだった。辰伶の反応が殆ど無い事に、ほたるは深く傷ついた。辰伶は知らない。ほたるの母がどのような最期を遂げたか、ほたるがどんな思いで生きてきたか、その原因が誰なのか、この悪魔は知らないのだ。辰伶に惹かれていた気持ちが、一瞬にして反転し、憎悪に似た暗い感情が心を染めた。
「…で、何か用なの?」
自然と声に棘が生じる。さすがに辰伶もそれを感じ取ったらしく、戸惑いながら手にしていた衣類を差し出した。
「着替えが必要だと思ったから…」
「……お前の?」
「サイズは合わないかもしれないが、きちんと洗ってあるし、下着類は未使用品だから。…明日にでも、服を買いに行こう。他にも生活に必要な日用品とか…」
「俺、金無いよ」
「ここに居る間くらい、俺が面倒みるさ」
「…やっぱりやめた」
「え?」
「出て行く。お前に世話焼かれるの、何かムカつく」
仇の家で、仇の世話になって暮らすなんて、どうかしていた。ほたるは湿った自分のコートを手に取った。
「どうしてそんな急に…」
「俺は気まぐれだからね。それより辰伶は何が目当てなの?」
「目当てだと?何のことだ」
「俺を引き止めて、辰伶に何の得があるっていうの?」
奇妙な沈黙が流れた。おや、と思っていると、辰伶の頬が見る見る真っ赤になった。その劇的な変化に、ほたるは戸惑った。
「…お前の……が…」
何が恥ずかしいのか耳まで紅潮した辰伶は俯き、消え入りそうな声で呟いた。
「何?聞こえない」
「…お前の金色の翼が見たい……から…」
予想外の返答だった。しかしそれはほたるを驚かすよりも、脱力させた。この異母兄に対して、理不尽な敗北感すら抱いた。
「…ふうん。つまり、俺のカラダが目当てってこと?」
「…っ、そんなんじゃなくてっ」
「どこが違うの?俺の翼の為にお前は貢いでくれちゃう訳でしょ」
「それとこれとは…」
「別?…だったら、俺がお前に翼を見せてやらなくても、面倒みてくれるわけ?」
「当たり前だ!」
間髪置かずに怒鳴られた。ほたるは瞠目し、絶句した。悪魔が(元)天使を保護することが『当たり前』なものか。魔界がそれほど博愛精神に満ちて、奉仕活動に熱心だなんて聞いたことがない。しかし辰伶の声や表情は嘘や冗談を言っている者のものではない。真実、見返り無しに、無償で手を差し伸べているのだ。
金色の翼のことを褒められるたびに、どいつもこいつも、翼、翼と、まるで己には翼にしか価値が無いかのようだと、ほたるは忌々しく思っていた。天界での評価も、辰伶の興味も、ただ物珍しい色をした翼に対するもの。天界だけでなく、辰伶さえもそうなのかと思い、ほたるは失望したのだが、しかし、それは早合点だったらしい。金の翼に興味があるのも本当だが、それは決して最重要ではないのだと、他の者が言ったら嘘としか聞こえない事を、辰伶は生真面目に言った。
「…ほたる」
躊躇いがちな声で名を呼ばれる。ハッと我に返り、ほたるは辰伶の瞳を視凝めた。彼から名前を呼ばれたのは、これが初めてだったのだ。
「…俺さ……お前に俺の名前…言ったっけ…?」
「名前くらい知っているさ。魔界では有名だと言っただろう。だいたい、貴様とて俺の名を知っていたじゃないか」
「……そうだね」
この時、ほたるには『全て』が視えた。勿論それは、ほたるが『全て』と思った『全て』に過ぎないのだが、少なくとも、自分自身を納得させるだけの解答は得ることができた。
「…服、貸して」
辰伶は抱えていた服をほたるに手渡した。先程彼が激昂したときに握り締めてしまったらしい跡が、皺になってついていた。それを何ともなしに、ほたるは指でなぞった。摩擦の熱が指先を仄かに温めた。
「着替えたら、外へ食事に行こう。ずっと寝ていたから、腹が減っているだろう?」
頷いたのか、俯いたのか、ほたる自身にもよく判らない動作で応えた。辰伶の声を聞くと、少しずつ心が温かくなって、何かが埋められていくような気がする。それは宝物の羽根に似ていた。仇の息子である異母兄に対して、何かを期待しはじめている自分を、ほたるは戒めようとして、失敗した。
何も言わないが、辰伶はほたるが己の異母兄弟であることを知っている。名を呼ばれた時に、ほたるはそれを確信した。黙っているのは辰伶なりに何か思うところがあっての事だろう。敢えて兄弟の名乗りをあげぬのは、ほたるとて同じことだ。彼が打ち明けるまで追究はしまい。
天上の至宝とまで称された光の翼。その輝きを辰伶に見せてやりたいと思い、ほたるは遣る瀬無い笑みを浮かべた。
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