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後継なき舞台

-1-


 壬生の郷にも冬が到来し、季節は雪を召喚した。

 刺すような空気の冷たさにも係わらず、辰伶は障子戸を開け放ち、真っ白に化粧された庭を臨んで笛を吹いていた。傍らの火鉢に緩く熾された炭火の鈍い赤色が、寒々しいこの部屋で唯一温もりを与える。

 やや風が強い。風向きに対してこの座敷は、中に雪が吹き込むことはないのだが、雪見としては風雅さに欠ける。庭の松の木は風に殴られ、しなやかな枝を大きく揺らしている。その針のような葉は雪が降り積もる傍から払い落としてしまうため、松の木全体がまるで靄が掛かったように白くけぶっている。

 笛の音も無粋な風に千切られて、その豊かな響きを味わうこと無く遥かへと流されてしまう。何を思い、誰を想って吹くのか。誰か聴かせたい相手でもいるのか、そのひたむきな姿には、侵し難いものがあった。

 ふと、辰伶は吹くのを止めて、笛を持つ手を下ろした。座したまま、身体ごと振り返る。

「時人様」
「やあ、辰伶」

 いつからそこにいたのか、時人が襖口に立っていた。

「どうぞ、時人様。こちらの火の傍へ。すぐにお茶を…」
「お構いなく、とは言わないよ。寒くてたまんないから、熱いのちょうだい」
「畏まりました」

 辰伶は人を呼んで時人をもてなすよう指示した。そして全開に開け放っていた障子戸を閉めに行く。

「いいよ。そのままで」
「ですが、お寒いのでしょう?」
「僕も雪が見たいんだよ」
「では、半分だけ閉めましょう」

 辰伶が障子戸を閉めている間に、時人は火鉢にかじりつく様にして当たり、炭火に手をかざしては擦り合わせた。その様子を見て辰伶は火鉢に炭を足して火の勢いを強くした。

「すみません。気がつかず。お声を掛けて下されば宜しゅうございましたのに」
「ん…なんか、ちょっと声掛け辛くてサ」
「私ごときに、時人様が御遠慮など…」
「ごときって、辰伶は大袈裟だねえ。それこそ僕ごときに、辰伶が低姿勢になることないのにサ」

 程なくして用意された座布団や茶を時人に勧め、辰伶も火鉢を挟んで座した。

「貴方は引退したとはいえ元太四老。そして、私の尊敬して止まない吹雪様の忘れ形見です。どうして粗末に扱えましょう」

 時人はチラリと横目で辰伶を見遣ると、拗ねたように言った。

「ホント、お前らしいよ。でもさ、それって結局、僕自身を見てないってことだよねェ」
「……」
「『元太四老』、『吹雪の子』っていうのが、辰伶にとっての僕の価値ってコト」
「申し訳ございません」

 辰伶が詫びの言葉を述べると、時人はクスクスと笑い出した。

「正直だね。もっと要領よくさあ、『そんなことございません。この辰伶、時人様ご自身の人格も尊重しております』なーんて……アッハ、そんな心にもないこと、お前には言えないか。だいたいさあ、僕とお前の繋がりなんて、せいぜいそんなもんじゃない? 僕にとってもお前なんて父様の弟子って認識しかないしねえ…」

 時人は屈託なく笑った。昔の耳に障るような金属的な笑い声とは違う。随分と仕草が大人びた。いや、たおやかに、可憐になった。

「…父様の話がしたくて」

 不意に真顔になって、時人は辰伶に言った。

「雪を見てたら、無性に父様の話がしたくなった。こんな話ができるの、お前しか居ないから…」
「私も、吹雪様のことを思い出していました。この雪のように高潔だった、あの方のことを」

 彼の人がその名に雪の名を持っていたからだろうか。雪を見て時人は亡き父を想い、辰伶は永遠の師匠を想った。立場は違えど2人は同じ人を偲び、やるせない心の捌け口を求めていた。彼の人の思い出を語れるのは、互いに互いしかいない。

「心ゆくまで、語り合いましょう。雪も暫くは止みそうにありませんし」

 何処を見ても白い庭で、葉陰の千両の実だけが赤く目を惹いた。



―――過去―――



 池泉に浮かぶ、瑞々しい苔に覆われた中島。そこにひっそりと佇む観月堂から眺める月が、吹雪は殊の外、好きだった。観月堂へは渡廊を通って行くのだが、その間に目にする杜若や睡蓮などの水生の花も美しく、また季節によって葉の色を変える木々の影も、澄んだ水面に彩を添えた。月も良いが、花も良いものだと、吹雪は思った。

 静かな漢は、板縁も軋み音1つ立てずに歩いていた。ふと、吹雪のよく知る者たちの笑い声が聞こえた。

「村正、ひしぎ、お前達も居たのか」
「おや、吹雪」

 声の主は吹雪の親友達であった。村正とひしぎは2人で碁を打っていたのだ。丁度勝敗が決したところだったのだ。

「やっぱり強いですね。ひしぎは」
「村正も中々のものでしたよ。では、約束のものを」
「はいはい」

 そう言って村正はひしぎに香炉を差し出した。吹雪の覚えでは、その香炉は村正が紅の王から下賜されたものだったはずだ。

「な…、お前達、賭け碁をしていたのか」
「その方が面白いでしょう」

 ひしぎは手に入れたばかりの香炉を眺めながら、しれっと言った。

「しかもそれは紅の王からの…。村正っ、貴様はそんなものを賭けの対象にするとは…」
「まあまあ。物には余り執着しないひしぎが珍しく欲しがった物ですから、きっと大事にしてくれるでしょう。だからいいじゃないですか。どうですか? 吹雪も一局」
「俺は賭け事は嫌いだ」
「相変わらず硬い漢ですねえ。金品を賭けるのが不謹慎というのなら、罰ゲームというのはどうですか?」
「お断りだ。罰ゲームなど、貴様らは何を言い出すか知れたものじゃない」

 みもふたもない吹雪の返答に、ひしぎは挑発的に口角を上げた。

「おや、吹雪は勝負をする前から、自分の負けを認めるんですね」
「…なんだと」
「罰ゲームなんて、私は気にしませんよ。どうせ勝ちますから」

 ひしぎの挑発に、吹雪は余裕の笑みで返した。

「その手には乗らんぞ。わざと俺のプライドを刺激する言い方をして、目論見通りに事を運ぼうとしているのだろうが、そうはいかん」
「そうですか…」
「生憎だったな」
「吹雪も必死ですね。貴方は囲碁が下手ですから」
「なっ…下手だとっ」
「将棋もここぞというところで読みが甘いし。勝負勘に欠けるんですよ」
「…そこまで言うなら受けてやる。ひしぎ、お前が相手だな」

 吹雪を盤の前に座らせることに成功したひしぎは、村正へ片目を瞑ってみせた。村正は傍目には判らないくらい小さく頷いた。

 吹雪はひしぎが言うほどに囲碁や将棋が下手という訳ではないが、絶賛するほど得意でもない。対するひしぎは壬生最高の頭脳の持ち主と言われるだけあって、こういう知的ゲームで負けたことは殆どない。結果は最初から見えていたようなもので、吹雪はひしぎ相手に良く善戦したが、最終的には及ばなかった。

 小さく舌打ちをした吹雪は、その後も数秒間は未練がましく盤を睨んでいたが、どうにも打つ手が無いことを認めて溜息をついた。

「投了だ。…それで、何をすればいいんだ」
「そうですねえ。3回も『待った』を聞いてあげたのですから、さて、何をしてもらいましょうかねえ」

 勝者のひしぎと、そして観戦していた村正も、人の悪い笑みを浮かべている。吹雪は酷く厭な予感がした。2人がこういう顔で笑うのは、大抵、ろくでもないことを考えているときなのだ。村正のような悟りの能力はなくとも、長年の付き合いで吹雪は熟知していた。

「では、吹雪。罰として、姫時に求婚していらっしゃい」
「な…っ」

 余りの内容に、吹雪は言葉を失った。

「貴方が村正の妹に想いを懸けていることは判ってますよ」
「謀ったなっ! ひしぎ、村正も!」
「勝負自体は公正でしたでしょう。負けた貴方が悪い」
「約束は約束ですからね。潔く告白して、見事玉砕していらっしゃい」

 吹雪は勢い良く立ち上がると、無言のままに足音高く部屋を出て行った。その様子を見送ったひしぎと村正は、吹雪の足音が聞こえなくなった頃を見計らったかのように、会心の笑みを浮かべた。

「うまくいきましたね、村正」
「見事でしたよ、ひしぎ。全く、こうでもしなければ、いくら不老長寿の壬生一族といえども、姫時は待ちくたびれてお婆さんになってしまうよ」
「本当に見ていてもどかしいというか、苛々するというか。姫時の想い人が誰かなんて、見れば解かるでしょうに」
「そこが吹雪の吹雪たる所以といえば、そうなんですけどね」


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