分水嶺

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 外の世界へ旅立ったほたるを、辰伶は見送ることが出来なかった。ほたるとの情事で体調を崩し、暫くは動くことができなかったからだ。不調は長引いたが、辰伶が弱っていることが噂になって世情が不安定になると良くないので、無理矢理床上げした。

 激務が堪えたが、弱みは見せられない。医者には仕事を減らして養生しろと忠告されたが、辰伶は平常通りに政務を執った。だから病気の治りが悪いのだと叱られたが、全く聞こうとしなかった。

 ある晴れた午後、辰伶は灯の診療所を訪ねた。長いこと辰伶はこの診療所を訪れてはいなかった。灯とは価値観が違う。どちらのせいでもない。

「あら、お忙しい無明歳刑流惣領様がいったい何の御用……」

 反感を隠しもしない灯が、辰伶の顔を一目見て言葉を詰まらせた。

「辰伶、あ、あんた……」
「解るのか。さすが専門家だな」
「待って、ちゃんと検査して調べるから。何かの間違いかも」

 辰伶は穏やかに首を横に振った。

「今日は診察してもらいに来たのではない。俺の本心を言っておきたくて」
「…何よ。聞くぐらいしてあげてもいいけど」
「俺が『死の病』の予防を受けなかったのは、子孫が欲しかったからじゃない。結婚なんてしたくないし、跡取りなんて、本当はどうでも良かった。無明歳刑流惣領という立場さえも、欲しければ誰にでもくれてやっていいと思っている」
「……これまでの言動を考えると、とても信じられないわね」

 今さらこんなことを言って信じて貰えるとは、辰伶も思っていない。それでも灯に言っておきたいことがある。

「俺は熒惑と生きていきたかった。熒惑と一緒に同じ道を歩きたかった」
「じゃあ、何であの時ほたると一緒に行かなかったのよ」
「……」

 鬼眼の狂によって壬生の郷が破壊されたとき、瓦礫と化した陰陽殿の跡に立ち尽くす辰伶を、ほたるが外の世界へ誘ってくれた。それを信じれば良かったのかもしれない。しかし辰伶は自信が無かった。多少は解り合えたかもしれないが、根本的に異母弟からは嫌われていると思っていた。だから一緒に行く勇気がなかった。

 荒れ果てた壬生の郷を放っておけない気持ちもあった。壬生の郷に残った辰伶は心の空虚を埋めるようにして、日々、争乱の対処に奔走した。何ら壮大な図面を脳裏に描いていた訳ではない。その時、その時に出来得る方法で鎮めるだけだった。

 熒惑を担ぎ上げようとする熒惑派を辰伶が皆殺しにしたのも、外の世界に旅立った熒惑を、彼らが無理矢理連れ戻そうと画策していたからだ。辰伶はそれが赦せなかった。

 熒惑の存在が争いの種になること自体が嫌だった。それは、辰伶の父親が熒惑を殺そうとしたことを正当化するようなものだから。

 熒惑の邪魔をする奴も、利用しようとする奴も、辰伶には赦せなかった。辰伶の熒惑への想いは深く激しすぎた。激しすぎて、辰伶の心は誰にも見えなかった。

「気づいたら、壬生から動けなくなっていた。殺戮の上に築いた平穏だ。これを守るためには力を誇示しつづけなければならない。しかし、自ら背負った業とはいえ、このまま永劫の時を生きるなんて地獄だ」

 もっと言ってしまえば、熒惑がいない世界を生き続けるのが恐ろしかった。だから熒惑が『死の病』の予防を受けるのが確実になるまでは、予防を受けたくなかった。そうこうしている内に、もはや予防を受ける段階ではなくなってしまったのだ。『死の病』を克服する為に真摯に研究している灯が聞いたら怒るだろう。

「俺にとって『死の病』は生きる苦しみから解放してくれる希望だった。だから処置を受けなかった」

 灯は泣いた。辰伶の頭を胸に抱いて、子供のように泣いた。ほたるの言った通りだ。灯はとても優しい人だ。

「ありがっ……ありがとっ……話てくれて…」

 しゃくり上げながら灯が言う。

「ありがとう。俺の為に泣いてくれて」

 最後に和解できて良かった。ほたるが好きになった人たちと解りあえて良かった。

「熒惑を頼む。それから、壬生のこともよろしく頼む」
「別れみたいなこと言ってるんじゃないわよ。治療はこれからよ。簡単には死なせてあげないから」
「全て任せる。研究の役に立ててくれ」

 辰伶は弱った姿を見せなかった。灯以外の誰にも病に気づかせることなく、辰伶はこれまでと変わらず責務を熟した。そうして辰伶は着実に準備を進めていった。

 最後の晴れ舞台の準備を。


「権力者らしく、とことん私利私欲に走ってみた」
「素敵よ。惚れ惚れしちゃう暴君ね」

 灯に水舞台の装束を着つけられながら、今日のこの日を迎えられたことを、辰伶は夢のように思う。壬生の最高権力者という立場を利用して、辰伶自身が細部に至るまで拘り、美の粋を極めた最高の舞台だ。衣装や装飾品は灯が調えてくれた。

 壬生の郷全ての仕事を強制的に休ませて、全員を観客として招待した。外の世界からも招いた。辰伶が出会った嘗ての敵も味方も全て呼んだ。

「それにしてもやり過ぎじゃない?1人1人全員に招待状を自筆で書くなんて」
「その節は世話になった」
「腱鞘炎なんて笑っちゃうわよ」

 この事も、辰伶に反感を持つ者たちからは、あざとい宣伝工作と酷評されたが、辰伶はもう何も気にならなかった。

「熒惑は来てくれるだろうか」
「絶対に来るわよ」
「だといいんだが」
「まさか自分1人の為にこれだけの舞台が催されたとは思わないでしょうけどね」

 辰伶の頬が淡い紅色に染まる。

「最愛の人に最高の姿を見せたいなんて、カワイイことするじゃない」
「もうやめてくれ。恥ずかしい」
「そういうの、大好きよ」

 水舞台は壬生の郷が平和だった頃の象徴だ。皆にあの頃の壬生を思い出して欲しい。壬生一族の心が荒れ果てた今、何としても開催したいと周囲に説明したはずだが、灯には辰伶の本心がばれていた。自分の一世一代の晴れ姿をほたるに見せたいだけなのだ。

「一番いい席を用意したのに……まだ来ていない」
「アタシの勘だともう来てるわね。めんどくさい奴だから、招待された席とは違う場所でコッソリ見てそう」
「確かにそういう奴だ」
「じゃあ、アタシも行くわね。ちゃんと狂の隣の席を確保してくれたのよね?」
「大丈夫だ。抜かりない」

 さあ、始まる。最初で最後の舞台が。

 水舞台を演じることは、幼い頃からの辰伶の夢だった。吹雪の美しい舞を見てすっかり魅了され、いつか自分もあの舞台に立ちたいと思っていた。水舞台の崇高な意味を思うと、昔から自分の動機は不純だったかもしれない。でも純粋に焦がれていた。

 様々な想いが辰伶を去来する。何も苦しいことはなかった。全てが遠い日のことのようだ。

 ほたるの為に用意した席はやはり空席だった。それを目にしても落胆しなかった。この会場のどこかにほたるがいることを辰伶は疑っていないから。

 ほたるを争乱に巻き込みたくないからと壬生の郷から出させておいて、勝手な都合でまた呼び寄せて、きっと文句を言ってくるだろう。ほたるの為、壬生の為を思うなら、呼び戻してはいけなかった。でも、誰よりもほたるに舞台を見て欲しいという我儘を抑えられなかった。灯に唆された気がしないでもないけれど…

 水龍が乱舞する。やがて舞う辰伶の指先から、たなびく髪から、翻る衣から光の粉が流れ出した。水と光りの飛沫が舞台を煌めかせる。輝き以外、何も見えなくなった。

 後に壬生史上で最も美しいと讃えられた水舞台はこうして幕を閉じた。


 その後の壬生の歴史を掻い摘んで説明する。

 無明歳刑流の惣領にはほたるがついた。次代の惣領が決まるまでの中継ぎとしての就任だった。惣領と言っても特に何を指示するでもない。上がってくる報告に対し常に「良きにはからえ」という態度だったが、それがむしろ一門衆に歓迎された。決定は一門衆の話し合いに委ね、自らは承認しかしなかった。

 この『バカ殿作戦』は紅虎からのアドバイスによる。現状を詳しく知らない上の者が現状にそぐわない指示を出すより、担当者のやりたいように任せた方が上手くいくというのだ。細かいことに口を出さず、全体の方針を示せということだ。さすが、現役天下人のアドバイスは的確だった。
 ただし、不正は見逃さなかった。多少の怠惰には寛容を示したが、ほたるを謀ろうなどと舐めた輩には容赦しなかった。

 壬生一族は主な勢力の代表者による合議制になった。辰伶の沙汰を規範とするために辰伶の言行や統治の記録が有志によって集められ、編纂された。それはやがて作成される法令、法典の基となる。壬生の歴史は力による支配の時代から法による支配の時代に移行していった。

「壬生の長い歴史の中でも、辰伶様以上に一族1人1人に寄り添って下さった支配者はいない」

 ほたるにそう言ったのは、辰伶の生前の言行を書に纏めた有志の1人で、以前は反辰伶の急先鋒だった男だ。男は辰伶から貰った水舞台への自筆の招待状を宝物にしていた。

「これまでは辰伶様が何をしても穿った見方しかできなかったけれど、辰伶様の水舞台を見て、考えがガラリと変わった。全てが壬生の平穏のため。あの方は生涯かけて壬生に尽くして下さった。それを壊したくないと思った」
「水舞台って凄い威力だよね」

 その男の気持ちはほたるにはよく理解できた。無明歳刑流が内輪もめで弱体化していこうと、ほたるにはどうでもいいことだった。しかし辰伶の水舞台を見て、辰伶が守ってきた家を少しだけ面倒見てやる気になったのだ。

「後の世からみると、辰伶様は旧い時代の最後の支配者と位置づけられるかもしれない。だが、我々にとって、辰伶様こそ壬生を新しい時代に誘って下さった指導者なのだ」
「辰伶が聞いたらきっと喜ぶよ」

 男は、辰伶の事跡が同時代の人々にどのように受け止められ、それが壬生にどう影響したかを書き記しておくのだといった。ほたるは彼にお弁当のおにぎりを1つあげた。無明歳刑流本家の賄い方が作るシャケおにぎりは人気でたいてい喜ばれる。ほたるは梅干も好きだ。

 水舞台も新しい時代を迎えていた。観客として招待された紅虎の随行者の中に水舞台に大いに感銘した者がおり、無明歳刑流に教えを乞うていた。やがて水舞台は将軍家から保護を受け、外の世界にも細々と伝授されていくことになる。

 『死の病』の研究は絶えず続けられたが、最終的に誰も灯以上の成果を出せなかった。
 いつも身綺麗にしていた灯は美しく年をとった。ほたるは灯の手を握りしめて言った。

「灯ちゃん、辰伶の次ぐらいに好きだから結婚して」
「……は?」

 手に何かを握らされた。開いてみると、灯の掌には金の指輪が乗っていた。美しい石がついている。

「何これ」
「どっかの国だと、結婚を申し込む時に指輪を渡すんだよ」

 ほたるは偉そうにふんぞり返った。

「何の冗談よ」
「本気なんだけど」
「……そうね。あんたって、そういう奴だったわ」

 灯は大きく溜息をついた。

「お断りしとくわ」
「何で?」
「あたしも狂の次ぐらいにあんたが好きだからよ」

 今でも辰伶を忘れていない男などお断りだ。

「何だってこんな皺だらけになってからそんなこと言うのよ。30年前だったら少しは考えたのに」
「うん、灯ちゃんのこと凄く好きだなって、最近思ったから。…灯ちゃんと会えなくなったら凄く寂しくなるなって思った」

 どんな生き方をしても人間は老いて死ぬ。不老長寿の壬生一族であるほたるは多くの友人、知人を見送った。長く生きていれば新しく知り合う人間もいるけれど、鬼眼の狂と行動を共にして得た仲間はほたるにとって特別で、その頃の仲間はもう残り少ない。

「そんな顔するんじゃないわよ。いつかまた会えるわよ。あたしは生まれ変わりを信じてるの。きっと辰伶にも会えるわ。……皆、またどこかで会いましょう」

 灯はニッコリ微笑み、ごく自然な動作で金の指輪だけを巻き上げた。

 指輪は灯の左手の中指に嵌められて埋葬された。『死の病』の研究に捧げた生涯だった。

 その後、壬生では争いが全く起こらなかったわけではない。度々血が流されたが、その度に壬生の法令を拠り所に収められた。子供は相変わらず数が増えなかったので、壬生一族は緩やかに衰退し、壬生の郷は穏やかに滅亡した。

 郷は消滅したが、壬生一族が1人もいなくなったわけではない。庵一家はいち早く外の世界へ住処を移して人間社会に溶け込んでいた。一族の者が、人間社会に上手く適応できるようサポートしている。壬生一族は世界中に散らばって無限に近い寿命を生きていた。


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