分水嶺

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 時は流れて。

 日本の国は令和の御代になった。ほたるは新しい元号を気に入っている。「令」の字が何となく好き。それだけの理由だ。

 かれこれ400年以上生きているが、ほたるは人生に全く飽きることがなかった。世界中を旅して回ったが、楽しみがまるで尽きない。
 大地は本当は丸いのだと聞いて、ひたすら西へ西へと旅をしたことがある。大地が丸いというのが本当なら、ずっと進めば元の場所へたどり着くはずだ。結果は、辿り着かなかったのだが、これは地球のせいではない。ほたるが方向音痴だったからだ。この旅でほたるは、大地が丸だろうが四角だろうがどうでもいいと思った。

 ほたるには久しぶりの日本だ。今回の帰国は水舞台の公演を見る為である。遊庵に頼んでチケットをとっておいて貰った。

『現代によみがえる水舞台』

 公演の宣伝ポスターのキャッチコピーだ。演出や仕掛けを凝らした大掛かりな舞台らしい。とても豪華そうだけれど、辰伶の舞台の壮麗さには敵わない。

 ほたるはこれまで演じられた水舞台を全て見ているが、辰伶のレベルに達するものは未だにお目にかかったことがない。辰伶の技は人間に真似できるものではないのだ。それでも水舞台には懐かしさを感じる。

 ほたるの隣に並んで、1人の子供がポスターを見上げている。そのキラキラと輝く琥珀色の瞳は誰かの子供の頃そっくりだ。

「君も見るの?」
「見たいけど、チケット持ってないから」
「ふうん」

 遊庵からラインにメッセージがあった。急用ができたので、舞台は1人で見ろとのことだ。ゆんゆんナイス。いや、この状況を心眼で見ているのかもしれない。

「チケット1枚余ったからあげる」
「お金がありません」
「いいよ。どうせ無駄になるんだから、あげる」
「知らない人からこんな高価なもの頂けません」

 そう言いつつも、ほたるから少し目を逸らして指を弄んでいる。きちんと分別のあるしっかりした子供で警戒心もあるようだが、チケットの魅力に心がぐらついているのが見え見えだ。

「多くの人たちに水舞台を見て欲しいってのが、アイツの願いだから、見てやってよ」

 ほたるはいつになく熱心に口説き落とした。この時、既に予感していたのかもしれない。


 今回の舞台はまあまあの出来だなと、ほたるは評価を下した。ほたるの隣では、憧れを両の瞳に溢れさせた子供が、初めて見る水舞台に夢中になっている。時折、不思議そうに首を傾げたり、眉間に皺を寄せて難しい顔をしているのを、いつしかほたるは観察していた。舞台よりもこちらの方が面白い。

「舞台はどうだった?」

 舞台の終了後、ほたるは子供に感想を尋ねた。

「素晴らしかったです」
「本当に?」
「え?」

 チケットをくれたほたるの手前、子供はそのように言ったが、舞台を見ていた時の様子から、余り納得いっていないのではないかと思い、ほたるはそう聞いてみた。

「あの、実は……はい、そうです」
「どこが気になったの?」
「所々間違っているところがあって…」

 おや、この子供は初めて水舞台を見たのではなかったか。

「ここのところなのですが、正しくはこう…」

 身振りを交えて伝えようとするその姿を見て、ほたるはハッとした。そうなのだ。そこは本当はそれが正しいのだ。辰伶はそう舞っていた。年月と共に変容して失われた、もう誰も知るはずのない真の水舞台。

 その時、水が一筋迸った。

「え?水龍?」

 同時に子供の髪が銀色になった。一瞬だけで、すぐに元の黒髪に戻ってしまったが、ほたるは見逃さなかった。

「何でもないです!ただの手品です!いたずらです!」

 子供は誤魔化しきれないと悟ったか、一目散に逃げだした。ほたるは慌てて追って捕まえる。

「逃げないで。これを見て」

 ほたるは人差し指を立てて、その先に炎をともした。子供は驚き、逃げるのをやめた。ほたるは炎の形を変え、火の鳥を造って見せる。

「…その力……」

 ほたるが自在に炎を操る様を見て、子供の瞳から涙が溢れた。

「こんな力、誰も持ってないし、時々変な記憶を思い出すし。でも、気味悪がられるだけだから、誰にも言えなくて……」
「俺には隠さなくていい。俺にだけ話せばいいよ」

 自分以外の異能の持ち主に初めて出会ったのだ。子供はほたるに対する警戒をすっかり解いた。

「俺の名前は熒惑」
「熒惑さん?」
「やり直し。『さん』はいらない。熒惑」
「熒惑…」
「これはお前だけが呼んでいい名前だよ。お前にも名前をあげる。『辰伶』って。俺だけが呼んでいい名前だからね。誰にも教えちゃダメだよ」
「辰伶…」
「そう。俺の名前は?」
「熒惑…」
「辰伶が大きくなったら、俺と一緒に世界中を旅しよう。約束だからね」

 ほたるは子供の唇に触れるだけのキスをした。

「だから、まずはオトモダチからお願いします」
「お願いします…」

 子供はほたるが差し出す手をおずおずと握った。呆然とした様が可愛かった。


 子供を家まで送り届けたところで、背後から頭を殴られた。

「おい、この犯罪者」

 ほたるが振り返ると遊庵が腕を組んで立っていた。

「ゆんゆん、やっぱり心眼で見てたんだ」
「何が『オトモダチから』だ。いいか。くれぐれも自重しろよ」
「わかってるよ」

 灯の言った通りだった。生まれ変わりを信じていると言った灯は当然のこと、他の皆にも必ず会えるはずだ。

 きっといつか会えるはずだ。


おわり