分水嶺
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『死の病』の予防の処置を受けたほたるはそのまましばらく灯の研究所に寝泊まりしていた。たまには灯の雑用を手伝ってはいるようだが、ほぼヒモ生活だ。今日は遊庵からの昼飯の誘いに応じて、何日かぶりに外出した。
「一応、用心棒なんだけど」
「いや、自宅警備員だろ」
ほたるの自堕落な暮らしぶりを嗜めたが、毎日誰かに夕餉を世話になっている遊庵が言うことではない。
「ここのお蕎麦、美味しいね」
「だろ?何杯でもいけるぜ」
細身の2人に次々と蕎麦が平らげられてゆく様子はさながら大食い選手権だ。いつしか観衆の輪ができている。周りの声援に煽られて、あり得ない量を完食した。ほたるは当然遊庵のおごりだと思っているし、遊庵はほたるにたかるつもりでいる。
「ふう、美味かった」
「美味しかったね。まだいけたけど、お店に迷惑かけちゃいけないからね」
「俺も全然余裕だったけどな。他の客の分が無くなっちまったら悪い…ゲフッ」
「まだ食べ足りないけど、皆にも美味しさを…ぅぷっ…知ってもらわなくちゃ」
「またいこうな」
「そうだね」
当分、蕎麦はいい。ほたるも遊庵も同じことを思った。ちなみにお代は辰伶にツケてきた。(灯が怖かったから)
「灯に処置して貰ったんだって?」
「うん。ゆんゆんは?」
「受けねえ。俺は『死の病』に罹らねえ気がするんでね」
「いるよね。こういう人」
自分だけは病気にならないと豪語して医者にかかろうとはしない人は一定数でいる。病気が人を見て避けてくれなどしないのに。しかし確かに遊庵は『死の病』で死ぬようなタマに見えない。風邪もひかない。不思議と納得する。
「でも辰伶は処置してもらった方がいい気がする。あいつ、土壇場で詰めが甘いから大事な時にうっかりかかってそう」
「ああ、いるな。試験の当日に腹壊す奴」
五曜星の試験の時のことを思い出した。辰伶の実力なら、本来の力を普通に発揮すれは余裕で合格するものを、何だか酷く難儀をしていた。本番に弱いのだろうか。
「処置が済んだんだったら、さっさと旅に出ちまえよ。行きてえところはまだまだ沢山あるんだろう?」
「もう少しここに居る」
「若者がこんなところで燻ってても退屈なだけだろ。人生、冒険だぜ」
「行かない」
「何で行かねえんだよ!」
「どうして行かせたがるの?」
さんまを御馳走になった後に、鹿肉を肴に美味い酒をたんまり振る舞われた上に、土産に松茸まで持たせてくれた辰伶から頼まれたからだと、遊庵は言わなかった。
「ゆんゆんに行けって言われると、なんか行きたくなくなる」
「辰伶が言ったら?」
「もっと行かない」
遊庵も辰伶も、ほたるの性格を正しく掴んでいる。
「辰伶が出て行かせたがってるの?」
しまったと遊庵は思った。ここで辰伶の名前を出すのでは無かった。ほたるは勘がいいのだ。
「ふうん。俺のこと、そんなに邪魔なんだ」
「それは違うぜ」
遊庵は慌てて否定した。適当な誤魔化しは却って事態をややこしくする。事実を話した方が良いと判断した。
「どうもこれから無明歳刑流の惣領の座を巡って揉めそうなんだ。お前が壬生の郷にいるとめんどくせえことに巻き込まれるだろうから、その前に逃げろって話だ」
「逃げろっていうのはムカつく」
ほたるは乱暴に下駄を鳴らした。
「俺の為っぽいのは認めてあげるけど、逃げろって何?バカにしてるよ」
「いや、てめえは権力争いとか興味ねえだろうけど、てめえの言動は辰伶に敵対してるように見えるんだよ。この間の死合で辰伶に勝っちまったし。てめえを陣営に引き込めば辰伶に対抗できると思った奴らが、てめえの意思とか関係なく勝手に辰伶の敵対勢力の首謀者に祭り上げて利用するんだよ。そういうのうぜえだろ」
「利用されてるのは辰伶でしょ。俺は俺が気に入らないことはやらない。俺を利用しようとする奴は殺す。そのことで家がどうなろうと気にしない。壬生がめちゃくちゃになっても、誰が何人苦しむことになっても、俺は俺を殺さない。殺すなら俺を邪魔する奴を殺す。誰にも負けない。例えゆんゆんでもだよ」
「おい、聞き捨てならねえな。誰に負けねえって?」
「ゆんゆんにだって、俺は勝つ」
「弟子の分際で師匠に勝とうってか?」
「今すぐ証明してあげようか?」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「…今日のところは勘弁しておいてやらあ」
「…今日は許してあげる」
今、激しく動くと蕎麦が逆流する。
「俺は辰伶と一緒に外の世界に行くって決めた」
「辰伶がいなくなったら壬生は内乱状態に戻っちまうぜ」
「それが何?俺の知ったことじゃないよ」
「それが解ってて、辰伶が壬生を離れると思うか?」
「壬生から奪ってでも、辰伶を連れていく。もう壬生には渡さない」
ほたるは言い捨てて去っていった。説得は上手くいかなかったにもかかわらず、遊庵は満足げに息をついた。やるだけのことはやった。遊庵もほたるに賛成だ。辰伶だって、本当はほたると一緒に外の世界へ行きたいはずなのだから。
「もともと俺はほたるの味方だしな」
辰伶の頑固さとほたるの強引さ。さて、どっちが勝つか。遊庵は笑った。
無明歳刑流本家の屋敷にほたるが訪れたのはこれが初めてのことだった。ほたるは家人に頼んで辰伶に会いたいと取次ぎをしてもらったから、辰伶はほたるに会うまで心の準備をする時間はあったはずだ。
しかしどうやら、ほたるが実際に部屋に案内されてくるまで半信半疑だったらしい。ほたるを前にして、俄かに言葉を失っていた。ほたるは「してやったり」という気分になった。この家に来るのはずっと気が進まなかったのだが、これは悪くないと思った。
「珍しいな。お前が来るなんて。すぐに夕餉の支度をさせるから少し待ってくれ。蕎麦だが」
「…いらない。食べてきたから」
今は蕎麦など見たくもない。ここまできて蕎麦とか、ネタをひっぱり過ぎだと思う。
「では茶を。それとも酒が良かったか?」
「お構いなく」
「…驚いた。お前がそんなまともな受け答えができるとはな」
「惚れた?」
辰伶は瞳を逸らし、無言で微笑んだ。ここのところ他人に見せる作り笑いとは違う。ほたるは辰伶を背中から抱きしめた。腕の中で辰伶が居心地悪そうに身じろぐ。
「辰伶、一緒に外の世界へ行こう」
「……」
「…行くって、約束したじゃない」
「した覚えはないが」
「あ、バレた?」
辰伶は単純だから引っかかるかと思ったのだが。騙されてはくれなかったか。
「どうして俺なんか誘うんだ。お前は俺が嫌いだろう」
「好きだよ」
「嘘をつくな」
「嘘じゃないよ」
「…からかっているのか?ふざけるな。……いい加減にしろ!この手は何だ!」
服の上から撫でまわしてくるほたるの手をはたく。
「普段は俺のこと、いい加減で不真面目だって怒るくせに、俺が真面目にするといい加減にしろって言う。どっちにすればいいのかはっきり決めて欲しいなあ」
「…この手のどこが真面目なんだ」
「真面目に辰伶が好きだから触りたい」
「ふざけるな!」
溜まりかねた辰伶から怒りの水龍が迸る。水龍に後頭部を噛みつかせたまま、ほたるはなおも密着し、触るのをやめない。
「本気ならいいの?一応、辰伶の気持ちを考えて自制してるけど」
「自制などしてないじゃないか」
「自制してなかったら、服の中に手を突っ込んで、もっといかがわしく触ってる」
「……」
「本気の方が良かった?」
辰伶は渾身の力でほたるの腕を振りほどき、距離をとった。水龍まで怯えて辰伶の背後に隠れてしまった。
「そんなに怖がらなくても、優しくするよ」
「何を!?」
「やだなあ。言わせないでよ」
ほたるの言動に反応がついていけず、辰伶は翻弄されっぱなしだ。いつの間にか息が上がっていた。
「お前の気持ちは解った。解ったから落ち着け」
「辰伶が落ち着けば。隙だらけだよ」
忽ち手首を取られて強引に引き寄せられた。ほたるの顔が近づいて、有無を言わさず唇を塞がれる。深い口付けの後、ほたるの唇は辰伶の耳を愛撫するように囁いた。
「好きだ。一緒に外の世界へ行こう」
「それは、できない」
「俺の気持ちは解ってくれたんでしょう」
「それとこれとは…」
「俺のこと嫌い?」
それは一番最初に尋ねるべきことじゃないだろうかと辰伶は思ったが、ツッコミ辛い雰囲気だ。
嫌いなわけがない。こんなに狂おしく愛しいのに、嫌いになれるわけがない。
「俺のことが嫌いだから壬生から追い出したいの?俺がいると無明歳刑流惣領の座が危ないから?それとも壬生の郷が争いになるから?」
「そんな…」
「辰伶はそんなに壬生一族が大事なの?どんなに尽くしたって誰も辰伶を解ってはくれない。壬生は辰伶に何もしてくれないよ」
「……」
「俺を選びなよ」
壬生よりもずっと辰伶を大切にするから。ほたるは覆い被さるようにして辰伶を床に横たえた。ゆっくりと着衣を脱がせていく。もう力で押さえつけてはいないのに、辰伶からの抵抗は無い。
「……熒惑」
そうだ。辰伶だけはその名前で呼んで欲しい。
「…熒惑……愛してる…」
「俺も」
ほたるを見上げる辰伶の瞳が熱を帯びている。晒された肌は滑らかで、ほたるの情を誘ってやまない。ずっと手に入れたかった人。奪うことでしか手に入らないと思っていたのに、辰伶自らほたるの腕の中にいる。
しなやかな肢体を掻き抱く。欲望に支配される心地よさに酔った。
辰伶が目を覚ますと、部屋は仄明るくなっていた。両足を投げ出して座るほたるに包まれるように抱かれている。掛布代わりにかけられていた衣服がずり落ちた。
「もうすぐ夜が明ける」
辰伶が起きたことに気づいたようだ。ほたるに凭れていた身体を起こす。身体があちこち軋む。
「…寝なかったのか?」
「辰伶を見てたら眠るのがもったいなかった」
ほたるはしっかり服を着ていた。1人だけ裸なのは居心地が悪いので、辰伶も衣服を身に着けようとするが、身体を動かすことができない。溜息を吐いて諦めた。再びほたるへ身体を投げ出す。
「体…辛い?」
「ん……」
辛くなくはない。しかし辛いと答えるのも恥ずかしい。体の不調はほたるだけの責任ではないから。
「俺はすごく良かった。辰伶の身体がキレイで…」
ほたるは愛し気に辰伶の身体を抱きしめた。辰伶が小さく呻き声をあげる。
「辰伶が艶っぽい顔するから途中から止められなくなって……いろいろ無理な姿勢させちゃってごめん。辰伶は体が柔かいから大丈夫かなと思ったし」
「具体的な話をするな……居た堪れなくなる」
ゆっくりと喋るその声が掠れている。情事の後を引きずっているようで、辰伶は自分の声を耳障りに思う。
「俺と行くよね。外の世界へ」
「……行かない」
「何で?」
「…動けない」
「やり過ぎてごめん。3日後くらいならいい?」
「はぐらかすな。俺は壬生の郷から動けない。やっと…平穏になったんだ。ここまでくるには色々あったんだ。本当に色々……あったんだ」
ほたるは大きく溜息をついた。
「俺はどうしても壬生に勝てないんだね。辰伶は昔から壬生のことしか考えてない」
「俺が愛しく思うのはお前だけだ」
「壬生の次にね」
「壬生よりも、だ」
「嘘でしょ」
辰伶はほたるへ手を差し伸べた。宙を彷徨う指を、ほたるの手がふわりと捉えて絡めとる。
「壬生の郷を再建しながら、ずっとお前のことを考えていた。遥か遠い空の下の、外の世界を旅しているお前のことだけを考えていた」
「……嘘ばっかり」
「今、お前について外の世界へ行ったなら、俺は壬生のことばかり気にして考えてしまう。お前はそんな俺を殺したいほど憎むだろう。だから行かない。もう、お前に憎まれるのは沢山だ」
そんなのは詭弁だ。ほたるは辰伶を詰ってやりたかった。しかし相手は昨夜ほたるに散々痛めつけられてろくに動けないくらいに弱っている。そんな姿を見たら何も言えない。
「俺はいつもお前のことだけを想っていたい。だから1人で外の世界へ行ってくれ」
「ずるいよ…そんな風にごまかすなんて」
「愛してる。熒惑」
「ずるい……」
まだ淡い朝の光りに背を向けて、ほたるは辰伶をきつく抱きしめていた。