分水嶺
-2-
灯の研究所は住居と診療所を兼ねていた。亡き太四老ひしぎの記憶を継承し、壬生一族特有の『死の病』の克服の為に研究を続けている。彼はどの勢力にも属さない中立の存在だ。壬生一族は灯を不可侵とし、研究成果を一部の者だけが独占せぬよう協定を結んで牽制しあっている。
外の人間でありながら、灯は壬生一族の希望の担い手として尊敬され、またその物腰の柔かさと優しく気遣いに溢れた対応で、診療所に訪れる患者たちの信頼を得ていた。
「嘘。こんなの灯ちゃんじゃない」
「ああん?どういう意味よ」
「あ、やっぱり灯ちゃんだった」
てっきり壬生一族全員の弱みを握って立場を強化し、患者から法外な治療費をふんだくっているものだと信じていたとは、ほたるは言わないことにした。怒らせると怖い。
「えっと、『死の病』の発症を防ぐ方法が見つかったって聞いたけど」
「そうよ。ただし、発症の予防だから、発症しちゃったら治療方法はまだ無いの。だから研究はこれからも続けるけど、とりあえずの成果ね」
「頑張ったね」
「そうよ。頑張ったのよ。ありがとね。皆、頑張れって応援してくれるけど、頑張ったねって褒めてくれたのはあんただけよ。もう、キスしたくなっちゃう」
「え、いらない。キスなら辰伶としたい」
「ふうん。あんた、アノヒトのことが好きなんだ」
灯の声が心なしか低くなった。アノヒトという呼び方に含みを感じる。灯は辰伶のことを余り快く思っていないのではないかと、ほたるは感じた。気のせいかもしれないが、ほたるのこういう直感は大抵外さない。
「なんかさ、代償があるから、灯ちゃんから詳しく聞けって、辰伶に言われたんだけど」
「そうなのよ。だから、処置を受けるかどうか本人に選んで貰わなきゃいけないの」
灯は白衣を脱いで休憩用の椅子に深く腰掛けて、ほたるも空いた椅子に座るよう促した。
「さっきも言ったけど、まだ発症を防ぐことしかできないの。だから、発症する前に処置をしなければ意味がないわ。その為には、できるだけ早く処置する必要があるのは解るわね」
「うん」
「でもね、この処置を受けると、子供が作れなくなっちゃうの」
「え?…それって切るとか勃たなくなるとかいう話?」
「紛らわしくてゴメン。性交渉ができなくなるってことじゃないのよ。生まれなくなっちゃうのよ、一族同士でなくても」
壬生一族に子供が生まれなくなって久しい。しかし壬生一族同士でなければ、相手が壬生の外の人間であれば子を成すことができることがこれまでに判明していた。
「人間が相手でも、子供ができなくなっちゃうの。子供が欲しかったら、子供を作ってから処置を受けなければならないわ。でも、さっきも言ったようにできるだけ早い方がいいから、処置を受けるか受けないかは、本人に選んでもらうことにしたの。ねえ、大事なことだからよく考えて。でも、できるだけ早くね。『死の病』を発症したら助からないわ」
「今はまだ、でしょ」
「ほんとにアンタって子は、ほんとに……ほんとにもう、キスしちゃおうかしら」
「え、ダメだから」
なるほど。人によっては一生の選択だ。しかしほたるは子孫などいらないし、好きな相手である辰伶は壬生一族で同性だから、どうしたって子供はできない。悩む必要は無い。
「辰伶はまだ処置を受けてないんだよね。子供が欲しいのかなあ?」
「知らないわよ。子供が欲しいったって、どうせお家の為でしょ。どれだけ御大層な家柄か知らないけど」
気のせいではなかった。灯は辰伶のことが心底気に食わないのだ。理由は灯が言ったそのままだろう。家が大事。壬生一族が大事。個人の感情や事情よりも、伝統や秩序が大事。辰伶のそういうところはほたるも気に食わないからよく解る。
「知らないけど、跡取りができるまで、処置をうけられないのかもね」
「俺は処置を受けるよ。やりたいことを中途半端で死にたくないから。死ぬなら強い奴と死合って死ぬ」
「いいのね?処置は簡単だから、今すぐにでもできるけど、後悔しない?」
「しないよ。そもそも何で皆そんなに自分の子供に拘るの?」
ほたるは実の父親に捨てられ命を狙われた。家族になってくれたのは縁もゆかりもない人たちだ。血縁に拘る理由がほたるには理解できない。多少理解できるのは異母兄である辰伶へ向かってしまう不思議な感情だけだ。
「あたしにも解らないわね。だいたい家族なんて身内を都合よく利用する集団のことでしょう?気の合う仲間同士の方がよっぽど信頼できるし大切だわ」
灯は特殊な能力を持って生まれた為に道具か何かのように利用され、そのくせその能力ゆえに気味悪がられて生きてきた。鬼眼の狂に出会い、四聖天という仲間を得るまで。だから心を通わせた仲間を何よりも大切にしている。
「アンタだから話すけどね、研究してて思ったけど『死の病』って、本当に病気なのかしら」
灯は茶を入れて、ゆったりと寛いだ。もともと休診日だし、ほたるは患者ではない。とっておきの茶菓子も出してきた。
「以前から疑問に思ってたの」
机の上の書類の山を怜悧な眼差しで見詰める。つられてほたるも見たが、書かれている内容は何一つ理解できない。
「命はやがて尽きるから、それを繋ぐ新しい命を生む必要がある。なら、不死の存在に新しい命が要るのかしら。壬生一族は不老長寿よ。不死ではないけれど、人間ほど簡単に死なないわ。不死に近づくほどに、子供は必要ではなくなる。子供は可愛いとか情緒的なことはおいとくわよ。生物的な、種としての話だからね」
「情緒とか解らないから大丈夫。灯ちゃんの言いたいことはちゃんと解ってる」
「ありがとう。この手の話をすると、見当違いな反論して最後まで聴いてくれない人がいるから」
「話がつまらなかったら聴かない」
「……」
「…けど、灯ちゃんの話はちゃんと聴きマス」
灯の無言の圧力は怖い。ほたるはわざとらしいくらい姿勢を正した。
「『死の病』の発症を予防すると子供ができなくなるのって、そういうことなのかなと思ったの」
「どういうこと?」
「不死に近づきすぎて、子孫が必要でなくなるってこと」
「石や金みたいに?」
「いい例えだわ。そうよ。ほたるは天然ボケだけど、誰よりも本質を掴んでるのね」
「貶しながら褒めれるの凄い」
そんなことを考えながら研究し続けてきた灯は凄い。灯は『死の病』の治療法が存在しないと予感しながら、それでも諦めずに答えを追い求めているのだ。たった1人で。ほたるは称賛した。
「灯ちゃんはすごく頑張っているんだね」
灯はほたるを抱きしめた。ほたるは灯の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
先代紅の王や太四老の吹雪やひしぎが諸悪の根源で、彼らが滅びて壬生再臨計画が頓挫すれば、壬生の郷は平和な理想郷になるかといえば、そんな夢物語のように甘い話ではなくて。
壬生の郷は泥沼の内乱になった。別に乱を好む極悪人がいたわけでもない。ひときわ欲深い者がいたわけでもない。皆が普通に安定した暮らしを望んだだけだった。誰からも害されず、誰からも奪われず、安心して生きていたいという、当たり前の望みがあっただけだ。
しかし望みの大小は関係なく、衝突なんて幾らでも起こる。こういうことは利害が絡んでいるので当事者同士での決着は難しく、第三者の公正な裁定を必要とした。
しかし、紅の王も九曜も無くなった壬生で、公正に裁定できる第三者などいなかった。裁定者が客観的にどれだけ公正に判断を下したとしても、その者自身に万人を納得させるだけの背景がなければ、訴訟に勝った方は良くとも、負けた方は納得しなかった。
納得しない者は別の者に裁定を求め、皆が皆、自分に有利な結果がでるまで、自分に都合の良い判断をしてくれる者を求めて争い続けた。これでは話し合いの意味がない。
なし崩しに最も手っ取り早い解決方法が選ばれていった。要するに訴訟の相手がいなくなってしまえば、問題は解決するのである。
強い者、武力に優れた者が勝つという世が訪れた。むしろもともとそのような価値観であった世において、紅の王という絶対的な存在が失われてしまったことによる混乱と言えた。
強者の世だからとて、弱者も大人しく泣きをみたりはしない。強者に味方し協力することで、その傘下に入って庇護を受ける。そうして生きる道を模索した。
弱者も数を頼めば強者と成りえる。同盟を結んだ仲間の1人が害されたら、同盟者全員で下手人を袋叩きにする。それは暴力抑止の為の暴力だった。防衛のための攻撃だった。
安全の為には、やられたらやり返すのが絶対だ。やがて復讐の応酬はどちらが最初に狼藉を行ったかも不明になり、落とし処の見えぬまま争乱は拡大した。発端は小さな喧嘩でも、同盟関係者を巻き込んだ殺し合いになることは珍しくなかった。郷も人の心もは大いに荒れた。
以前は紅の王がいた。太四老がいた。彼らの下した裁定には誰も異議を申し立てなかった。皆が彼らに従うことを納得していたから、争乱が際限なく拡大することはなかったのだ。
今の壬生には、そういう絶対的な存在がなかった。人々は「当たり前の権利」を守る為、それを脅かす者に従わないで済むように、誰よりも上の主導権を求めて争った。勢力拡大の為に外敵と戦い、拡大した勢力を手中にするために身内で争う。敵味方は激しく入り乱れた。
無明歳刑流本家も例外ではなかった。本家の当主である辰伶はいち早く惣領権を強化し、一門衆である庶家を掌握することに成功した。多くの血を流すことになったが、それでも他家に先んじて一門を安定させたことが有利になり、壬生一族の中で無明歳刑流の一党は最大勢力となった。
激しい抗争の果てに、圧倒的に強大な歳刑流一党に対抗できる勢力はなくなった。それによって、それまで日常的に勃発していた争乱が嘘のように無くなり、気の抜けたような平穏が戻って来た。強力で安定した辰伶の支配の下、壬生の郷は驚くような早さで復興した。
しかしそれはどこから決壊するか解らない脆弱な平穏だった。