分水嶺
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燦々と降り注ぐ太陽の下、2つの影と鋭く反射する金属の光がぶつかり合う。
熾烈を極めた死合の果てに、独特な曲線を描く双刀が砕け散った。勝者が決まった瞬間である。ほたるは渾身の力にて振り下ろした斬撃を、辰伶の銀糸の頭髪を真紅に染める寸前で止めた。
「…なん…で…?」
勝者たるほたるの唇からこぼれた呟きは、しかし勝利に相応しかるべき喜色や昂揚を欠いていた。両者とも肩で息をしながら、その姿勢のまま動かない。ほたるは眼前で膝を屈している異母兄を呆然と見下ろしていた。内心の動揺を隠すことも取り繕うことも出来ずに。
「俺の負けだ」
辰伶は自ら宣言し、柄だけになった舞曲水を水に還した。その命は潔く勝者に委ねられ、この場の主導権をいきなり与えられたほたるは戸惑い、動揺した。こんなはずはない。こんなはずでは…
たった4年。
壬生の郷が崩壊し、ほたるが旅立ったのは4年前のことだ。幼馴染たちの笑顔と、異母兄の見守るような視線に送られて、ほたるは心の赴くままに故郷を後にした。
もっと強くなる為に。
最強の称号を手にする為に。
それは郷に残った異母兄も同じ筈だった。辰伶と自分、歩む道は違っても、どこまでも競っていける。そう思い、辰伶に負けないために、ほたるは己を磨いた。
そして4年経ってほたるは故郷に戻り、帰郷の挨拶とばかりに辰伶に死合を仕掛けた。ほんの戯れである。不意打ちに近かったが、この手の事の始まりが唐突なのは昔からで、辰伶は最初の打ち込みを苦も無く防いだ。それでもやはり驚いてはいたから、反射と勘だけで防御したらしい。ほたるの顔を見ると無言のまま事態を察し、迷惑そうに挑戦を受けたものだから、ほたるはすっかり楽しくなった。意味も無く辰伶を困らせたり、怒らせたりしたくなるのも昔と変らぬほたるの性情だ。
しかし、戯れ半分に仕掛けた死合の結果は、ほたるの予想と期待を大きく裏切るものだった。互角に刀を合わせていたのは最初のうちだけで、ふと力の均衡が崩れたと感じた瞬間からほたるが優勢になり、そのまま覆ることなく一方的な死合い運びとなった。
そして今、ほたるは己が刀の下に辰伶を屈服させている。それがほたるには俄かに信じられなかった。こんなはずは無い。辰伶の力はこんなものではなかったはず……
「辰伶…どっか悪いの?」
「どこも悪くは無い」
「じゃあ、何でそんなに弱くなったの?」
「弱くなってはいない。お前の方がより強くなった。…それだけだ」
「それだけって……辰伶は俺よりも弱いってことでいいの?」
以前からほたるは辰伶に対して『俺の方が強い』と放言していたし、それは全くの本心だ。しかし、それとは全く矛盾するのだが、ほたるは『辰伶の方が弱い』とは、一度たりとも思ったことはなかったのだ。
「悔しがってもくれないわけ?」
「…悔しくなくはない。だが……言い訳のようで言いたくは無いが……俺には壬生を再建するという使命がある」
辰伶の言葉はほたるを突き放すように響いた。それがずしりと心に圧し掛かり、そのことに動揺した。辰伶の言葉などで、まさか己が傷つくことがあろうとは思っていなかった。
「再建…まだかかるの?」
見る限り、壬生の郷は平穏で荒れた様子は欠片も無い。辰伶ら、郷に残った者たちの尽力によって、崩壊の爪痕は完全に消し去られている。これでまだ復興は完全では無いのか。まだ何か足りないのか。まだ、この異母兄は壬生から解放されないのか。
「再建して、それを維持する仕組みを整えて…だが、やはり1番問題なのは、皆の心の在り様だな。壬生一族として、壬生の郷をどうしていきたいのか。誰にでもそれぞれ思うところがあるだろう。しかし全ての者の思い通りにできるものでもない。それぞれの立場から、意見が相反するのは当然のことだ。それでも、踏みつけにされる者が、誰1人としてあってはならないと思う。そうは思うのだが、俺の目が届かない事など幾らでもあるし…」
「ムズカシイね」
「難しいな。だが、2度と壬生の郷を崩壊させぬ為には、何事にも正面から取り組まねばならないと思う。…生涯かけても」
…ああ、そうか。だから……もう、辰伶は……
「だからもう、お前のように強さだけを純粋に追求できない」
ほたるは辰伶に突きつけていた刀を引いた。
「…そうだね。俺は強くなることばっか考えてて、辰伶は壬生のことばっか考えてて、それで互角だったら俺の立場がないよ。…ま、トーゼンの結果?」
2人の道は、4年前に分かたれていた。不老長寿の壬生一族にとって、4年という歳月など取るに足らない。たった4年だ。しかしその4年で、2人の位置はこんなにも変わってしまった。そしてこれからはもっと離れていくだろう。
「…そっか、辰伶は壬生を選んだんだったね。そっか、そっか…」
「言ってくれるな。同じ条件で吹雪様のあの強さを思えば、不甲斐ないのは自覚している。お前とずっと競い合っていきたいという気持ちは……捨てた訳じゃない」
気持ちの上ではそうかもしれない。しかし実質として、辰伶はほたると強さを競うことを捨てたのだ。誰から強制された訳でもない。辰伶自身が選んだのだから、ほたるが口出しする筋合いは無い。壬生の為に生き、壬生の為に死ぬ。かつての彼の口癖が、現実となっただけだ。
道が分かれるというのは……こういうことか。ほたるは何かが終わったような気持ちになった。
「……ほたる」
心臓がドクリと鳴った。初めて辰伶から「熒惑」ではなく「ほたる」と呼ばれた。壬生を旅立つ前、「ほたる」こそが真の名であると自身で答えを出し、辰伶にもそう呼ぶよう要請した。辰伶はそれを覚えていてきちんと実践しているのだ。
それなのに何故だろうか。辰伶からそう呼ばれることに、ほたるは違和感しかなかった。他人の名前を聞くように、ほたるの耳に響いた。
「…やめてくれない?」
「は?」
「その名前、お前の口から聞きたくない」
「そうか。そういうものかもな…」
随分勝手なことを言われたというのに、辰伶は何も文句を言わない。関心がないのだろうか。ほたるは苛立ちを覚えた。
「まだ完全ではないが、『死の病』の発症を防ぐ方法が見つかったことは、聞いているか?」
「うん。灯ちゃんから聞いた。だからひとまず帰って来いって。…完全じゃないの?」
「……予防としては完全だ。だが、代償を伴う。その意味で不完全だ。だから処置を受けることを望むか否か、当人に確認せねばならん」
その話し振りからすると、その代償とやらは大きなもので、また深刻なことに違いない。
「辰伶は?」
「……」
「当然、辰伶は処置を受けたよね」
「…まだ、決めていない」
「なんで?これから長い時間をかけて壬生を再建していくんでしょ。途中でくたばる訳にはいかないんじゃないの?」
「俺のことはいい。お前はどうするんだ」
「どうって?」
「処置を受けるのか、受けないのか」
「代償って何なの?それも聞かずに決められないよ」
「ああ、そうだったな。それについては灯から説明を受けた方がいいだろう。ゆっくり旧交を温めてこい」
辰伶は所在無げに服の砂埃を払い落とすと、ほたるの視線から逃げるように去って行った。
覚えのある苦味をほたるは味わっていた。それはもう過去のこと。辰伶のことが大嫌いだったあの頃。壬生のことだけで頭が一杯の異母兄が嫌いだった。だから、彼の嫌うこと、彼の怒ることばかりしていた。殊更に自分の存在を誇示して見せたのは、彼の気を引きたかったからだったのだろうか。
死合っている最中だけが、辰伶の耳目を一身に集めることができた。辰伶を独占できる唯一の時。それ以外の辰伶の人生は全て壬生で占められている。
「…何だ。一緒じゃない……」
4年も経ったのに変わりゃしない。辰伶は「壬生」のもの。
熒惑は欲しかったものをやっと手にして、辰伶との関係にケリをつけたと思っていた。手にしたと思っていたのに。
道が分かれたのは4年前じゃない。もっとずっと前から……そう、2人が異母兄弟としてこの世に生を受けた時に分かれた。畢竟、2人の道は最初から違っていたのだ。
「俺は…辰伶に俺と同じ道を歩いて欲しかったんだ。同じものを見て、同じ場所を目指して、一緒に外の世界に行きたかったんだ…」
辰伶に対するこの執着心はどこから来るのだろう。ほたる自身でさえも持て余してしまうような、それは激しい想いの火だった。辰伶の全てを、それこそ身も心も全てを独占しなければ、この飢えた心は満たされない。
「もう、「壬生」には渡さない」
辰伶を「壬生」から奪い取ることを、ほたるは決意した。
ほたるが壬生の郷を旅立つ前。ほたるは「熒惑」の名を捨てるといった。その時に辰伶は己と世界を繋ぐ最後の糸が切れる音を聴いたような気がした。
鬼眼の狂を中心とした戦いのさ中に、辰伶は自分に近しかった者を殆ど失った。信頼を寄せた同僚、敬愛する師匠。辰伶が壬生の正義を信じて疑わなかった頃の(それが偽物だったとしても確かに)輝いていた時間を共有した者たちだった。
生き残った同僚の熒惑は「ほたる」として生きることを選んで五曜星の身分を捨てた。五曜星は辰伶1人きりになった。太四老を名乗る者ももういない。紅の王もいない。誰もいなくなった。もはや九曜は新しい時代には不要な存在なのだろう。残された自分は過去の遺物であると、辰伶は感じた。皆が死んだ時に、自分も一緒に滅ぶべきだったと後悔した。
壬生はこれから新しい時代を迎えるのだろうと、辰伶は漠然と感じていた。過去の遺物である己には、新しい時代の作り方も、どんな時代にするべきかも解らない。古い体制の構成員だった自分が、新しい時代の為にいったい何ができるというのだろうか。
しかし現実は、辰伶を悠長に思考に沈ませておいてはくれなかった。中枢が崩壊した壬生は空白となった権力の座を巡って争いが起こり、忽ち内乱状態となった。人の心は荒み、暴力が横行した。 辰伶は未来に想いを馳せることよりも、まずは目の前の荒れ果てた壬生で不安に暮らす人々を守ろうと思った。
今はただ、郷に平穏が欲しいと辰伶は願った。
いつか壬生一族に新しい価値観が生まれたら、その時には過去の遺物として過去の壬生一族に殉じることができたら。それが辰伶にたった1つ残された希望だった。