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今宵の宴に

-9-


 五曜連舞は前評判の心許なさを払拭し、観衆の賞賛の中に無事終了した。『水剋火』の勝手な改作(に見えるが本当はでたらめ)についても、逆にその趣向を喜ばれた程だ。一部の上流貴族の中には中傷する者もあったが、彼らの口は他人を貶す為にあるのだから、気に留める必要はない。

 一つ無事で済まなかったことがあった。祝賀会の後に、辰伶は床についてしまった。螢惑への舞の指導時に溜まってしまった疲労と心労。そして本番時の螢惑による大胆なアドリブをフォローする為に、限界まで感覚を研ぎ澄まし、神経を集中させた結果、緊張した精神が胃に穴を開けてしまったのだった。

 軽い潰瘍が出来ているという医師の言葉を、辰伶は憮然と聞いた。そんなにプレッシャーに弱かったのかと思うと、何やらヘコんでくる。

 方々から見舞いの品が届けられたが、それが余計に病身を自覚させて、辰伶を更に落ち込ませた。歳子・歳世にさっさと治して貰えば良いのだが、この弱った姿を仲間に晒すのは何だか惨めな気がした。

「辰伶、具合はどうだ」

 太白が見舞いに訪れた。辰伶は慌てて上体を起こした。

「無理するな。寝ていろ」
「いえ、もう殆ど回復しました」

 辰伶が無理をして嘘をついているのは明白だった。そうしてしまう辰伶の気持ちが太白には分かるので、それ以上は言わなかった。辰伶の性格では、客の前で寝ているほうが精神的に苦痛なのだろう。太白は辰伶の床の傍らに座した。

「すまなかったな」

 いきなり詫びられて、辰伶は困惑した。

「螢惑のこと、全ておまえに任せきりにしてしまったことが、随分おまえに負担をかけてしまったようだな」
「いえ、俺が至りませんでした。今回のことで、俺は己の未熟さが身に染みました」

 半分は社交辞令と太白に対する気遣いから出た言葉だが、半分は殆ど本心に近かった。

 太白がふと視線を動かした。

「おう、螢惑か」

 ハッと我に返り、辰伶は開け放たれた縁端を見遣った。いつから居たのだろう。庭先には螢惑が立っていた。手に小さな篭を携えている。

「何の用だ」
「……」

 辰伶は舌打ちしたい気分だった。一番会いたくなかった漢。誰よりも、螢惑には今の自分を見られたくなかった。

「辰伶の見舞いに来たのだろう。そんなところに立っていないで、こちらへあがってこい」

 太白に勧めに、螢惑は素直に従った。そんないつもの彼らしくない様子に、辰伶は違和感を感じたが、それを訝しく思うほど冷静ではなかった。弱った自分の姿を見られていることに、どうしようもない苛立ちが募る。

「何だ。また俺に何か文句でも…」
「辰伶」

 太白に窘められて、辰伶は刺々しくなる口を噤んだ。口を開けば喧嘩腰になってしまう。本当は、螢惑には言いたいことがあった。病床でずっとそのことを思っていた。それなのに、見られたくない姿を見られたことがそんなに悔しいのか、ずっと用意していた言葉が出てこない。

 どうして、「今」なのだろう。何故、選りによって、「今」なのだろう。

「……」

 螢惑は無言で、持ってきた篭を辰伶に突き出した。反射的に受け取った辰伶は、篭の中身を見て深く溜息をついた。

「そんなに俺が嫌いか」
「え?」
「こんな嫌がらせをするほど、俺が嫌いなのかよ」
「…確かに俺はお前が嫌いだけど、言ってる意味がわからない」
「お前の気持ちはよく分かった」
「辰伶の言ってることが分からない」
「これが嫌がらせでないなら何だ」
「まて、2人とも」

 太白が2人を、というよりも、いきり立っている辰伶を押しとどめた。そして問題であるらしい篭の中身をのぞいた。

「螢惑、これは…」

 篭の中身は山葵だった。たった今採ってきたばかりらしく水に濡れて美しいエメラルドグリーンをしている。しかも滅多に見られないような立派なものばかりだ。太白は苦笑を漏らしそうになった。

「螢惑、辰伶のように胃を患っている者には、山葵のような刺激の強いものは良くないんだ」
「…そうなの?」

 何も知らなかったらしい螢惑に説明し、太白は辰伶にはこう言って宥めた。

「螢惑に悪気があったわけじゃない。許してやれ」
「悪気が無かったのは認めてやろう。しかし貴様が全く配慮を欠いた奴であることは変わりない。俺だったら少なくともそれが見舞いに相応しいかどうか事前に調べるくらいのことは…」
「辰伶、螢惑は出て行ったぞ」
「え?」

 言われてみると螢惑の姿は既に無かった。山葵の入った篭も。

「八つ当たりとは、お前らしくなかったぞ」

 八つ当たり。そう言われて、辰伶は自分でも思い当たった。螢惑に対して狭量な振る舞いをしてしまったのは、螢惑に病床を見られてしまったからではなく、あれしきのことで病臥してしまった自分の弱さが悔しかったからだ。螢惑はとばっちりを受けたのだ。

 螢惑に悪気が無いことは、最初から辰伶には分かっていた。それどころか、この見舞いの品が螢惑にとって、精一杯の謝罪と償いだった。

 辰伶にはそれが分かっていた。螢惑が見舞いに山葵を選んだのは何の裏があってのことでなく、単純にそれが螢惑にとって好きなものだったからだろう。そういう行動がどんな気持ちに根ざしてのことかくらい、馬鹿でも分かる。
 冷たいことを言った。わざわざ傷つけるような言い方をした。配慮を欠いているのは自分の方だと、辰伶は自己嫌悪に陥った。

 舞の指導には手こずったし、悩み事も多かった。それでも終わってしまえば一抹の空虚と脱力感がある。何だかんだいっても、自分はあの苦労が楽しかったのだろう。まるで祭りか何かのように。

 だから、あんなことを言うつもりではなかった。言いたかったのは…

「褒めてやるつもりでした」

 辰伶は上掛けをきつく握り締めた。辰伶は、螢惑が舞台を途中で投げ出さずに、デタラメであれ最後まで演じきったことが嬉しかったのだ。だから、

「よくやったと、言ってやるつもりだったのに、…俺は大馬鹿者です」

 酷く胸が痛んだ。おかしな事だ。痛いのは自分ではないのに。傷ついたのは、螢惑の心なのに。

 辰伶は背中を丸め、螢惑のものであるはずの痛みをじっと抱きしめた。太白の温かい手が辰伶の肩を2回叩いた。


 カツカツと硬い音を鳴らして、螢惑は橋の欄干の上を歩いていた。そして、橋の真ん中までくると、川へ向かって篭を投げ捨てた。篭はクルクルと回りながら流れていった。

「嫌がらせだったら、ニンジンにすると思うけど」

 螢惑はそのまま欄干の上でしゃがみ込んだ。

「…バッカみたい」

 どんなにきつく膝を抱えても、空っぽの心は空っぽのままだった。


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