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今宵の宴に
-8-
どこにでも悪意は存在する。
螢惑が五曜星になって知った事といえば、精々それくらいのことだろうか。
彼がまだその地位を手にする前、社会的には芥子粒ほどの存在価値も認めらていなかった頃は、彼にとって世界は悪意に満ちていた。悪意とは殺意であり、それは螢惑の身体に傷と痛みをもたらすものだった。
五曜星となった後は、彼の命を狙ってくるような殺伐とした悪意はなくなった。それに代わるようにして、貴族たちからの誹謗中傷という名の悪意が螢惑に寄せられるようになった。素性のしれない彼が、五曜星という普通では望むべくもない地位に在るのが面白くないらしい。
この悪意は傷も苦痛も齎さないが、しかし螢惑の心をすっかり空洞化させた。世界に対して何も期待してなどいなかったが、何か酷くがっかりしたような気分になった。誰も彼もくだらない。何もかもつまらない。自分も含めてバカバカしい。
悪意が有形から無形に変わっただけだった。変わらない。何も変わりはしない。
今も、至る所に悪意が存在していて、螢惑に対して熱烈なアピールをしている。『衣装ばかりは立派』『舞の不出来を、絢爛な衣装で誤魔化すつもり』『実力の無いものほど、上辺を飾りたがる』『所詮は虚仮威し』、それからそれから…。
優雅な管絃の旋律に紛れるようにして囁かれる声が不快だ。
螢惑の前を行く辰伶が呟いた。
「虚仮威しかどうか、見てもらおうではないか」
背中越しにも彼の苛立ちがオーラとなって見える。意外と挑発に乗りやすいタイプなのだと、螢惑は自分の前を歩く漢を見て思った。
「単純…」
「何か言ったか?」
「別に」
本当に、辰伶はわかりやすい。わかりやすいのに、ある部分よくわからない。今回でいうなら、辰伶が怒っている理由が螢惑には理解できない。
上級貴族たちの誹謗中傷を漏れ聞く限り、槍玉に上がっているのは自分と歳世であり、辰伶に向けられたものは1つもなかった筈である。それなのに、辰伶は中傷された当人以上に感情を高ぶらせている。これが辰伶ご自慢の仲間意識というものだろうか。そういうところがウザイと螢惑は思う。
本日最後の舞、『水剋火』が始まった。調和の舞と言われる相生舞に対し、対照の舞と言われる相剋舞は、舞手の性質が違う程に面白みが増す。水の優雅さと火の激しさという対極の性質が競い合う『水剋火』は、中でも人気を博している。
しかし、対照とは2つが拮抗していて成るものである。その為には、調和の舞以上に、2人の舞手の力が吊り合っていることが要求される。
辰伶の舞の腕は既に証明されている。その意味で、この舞の出来不出来は、螢惑の舞に懸かっていた。
螢惑は隣の辰伶を窺がい見た。内面の雑多な感情をきっちりと押さえ込み、その挙動には些かも乱れは無い。
空っぽの心に小さな火が灯った。そんなにこの舞台が大事なら、少しは本気を出してやってもいいかもしれない。
前評判では、螢惑は辰伶に及ばぬどころか、舞を一通り演じきることさえ危ういと噂されていた。観衆の殆どが螢惑の無様な姿を嘲うことを半ば目的としていた。昨日までの螢惑の舞の出来であったなら、観衆はその歪んだ期待感を大いに満足させることができただろう。
辰伶と螢惑の舞が始まって、それは直ぐに衆目に明らかとなった。辰伶と螢惑が見せたそれは、完璧にして欠点の無い、全きの『水剋火』であった。
(こいつ、本番に強いんだな)
辰伶は感心すると同時に、どこかで納得する部分もあった。螢惑には衆目に対して、自分を良く見せようとか、上手くやろうという気負いが全くない。それゆえに緊張して失敗するということがない。良く言えば自然体。言い方を変えれば無頓着だ。
もともと舞のセンスはあった。そのことは、練習を通して辰伶は気づいていた。螢惑が舞を覚えてさえしまえば、辰伶にとって不安材料はもう何もなかった。
無いはずだった。舞は最初から順調で、一分の隙も無く完璧である。それなのに、辰伶は共に舞う螢惑に対して説明のつかない違和感を感じていた。
俺は、誰と舞っているんだ…?
だから、舞なんて嫌いなのだ。
舞の旋律。舞の拍子。舞の所作。それらは至上の甘美さで螢惑を腕に抱き、深い酩酊を齎す。その甘さが、螢惑には不快だった。如何に忌避しようとも、粘質な蜘蛛の糸のように絡みつき、螢惑は捕らえられる。
舞の指導を受けているときから、螢惑はこれを予感していた。本気で舞えば舞うほどに、自己というものが消滅していき、替わりに得体の知れない何かが、その空虚に入り込もうとする。
勝手に入ってきた奴が勝手に動いて、それが舞になるだなんて。バカバカしい。舞なんて簡単だ。こんなの誰だってできる。誰がやったって同じ。
(俺じゃなくたって、ううん、俺じゃない方がいいなんて、それって、俺は要らないって事じゃないの?)
採物の剣を手首で返す。陽光が跳ねて白い輝きが走る。
(歳世はすごかった)
(辰伶もすごい)
2人とも、どんなに舞に没頭しても、ちゃんと自分のままだった。傍らで螢惑と同じく採物の剣を閃かせる辰伶は辰伶以外の何者でもない。
『舞に舞わされているように感じるのは、お前の舞が未熟だからだ。舞の型をなぞっているだけでは、ただの操り人形だ』
そういう事なんだろうか。
恐ろしい奴だと、辰伶は舞の相手を務める螢惑に対して思った。
辰伶は誰彼からも『舞の天才』と賞賛されてきたが、その評は所詮は芸事の域のものに過ぎなかったのだと思い知らされる。そう、芸事、芸術としての舞については、辰伶は極めきっていた。
螢惑は、それとは違う。託宣を受ける巫女が神憑りへと導入する為の始原の舞。正しく神事の舞だ。五曜舞の本質を螢惑は誰から教えられることもなく、本能的に会得していた。
衣装も舞台も余興色の軽薄さに置かれていながら、螢惑のこの神々しさは何だろう。生物の生臭さが欠片もない。どこまでも清涼に澄み、しかしながら草木のような脆弱さは無い。あるのは炎の性のみ。
螢惑に同調すれば、辰伶もその高みへと引き上げられるだろう。その誘惑の吐息を至近に感じながら、しかし辰伶はそれに身を委ねることをしなかった。直感的に、辰伶はそれが間違っていることを知っていた。
どれほど舞人として至高であろうとも、これは螢惑が望む姿ではない。螢惑は拒否している。何故なら…、いや、難しく考えることはない。この舞は螢惑には似合っていない。浮いている。どれほど完璧で優れていようとも、舞が持つ意味として正統であろうとも、辰伶はこんな舞い方をする螢惑に何の魅力も感じなかった。
こんな舞をしたいわけじゃない。
一瞬だった。螢惑の動きが止まった。ただしそれは本当に極僅かな瞬間のことであり、気づいたのは共に舞っていた辰伶だけであったが、確かに螢惑の所作に乱れが生じた。
そして、それに続いた動きは辰伶を一瞬、それこそ辰伶本人にしか分からないほどの一瞬だけ止めさせた。
…何だこれは!
辰伶は内心の動揺を必死に抑えた。舞の相方である螢惑が、見も知らぬ舞を舞っている。
(何を考えている、螢惑!)
螢惑の変質を感じ取り、辰伶は即座にアドリブで返した。そうして横目で螢惑を窺うが、ふざけている様子もなければ、辰伶に嫌がらせを仕掛けているような素振りもない。真剣にデタラメを舞っている。デタラメといっても水剋火本来の所作ではないという意味で、舞踊としての型や流れは損なわれていない。
舞の変貌は、当然観客にも知れた。
「ほう、これは…」
「改作とは、今宵は見応えがありますな。勿論、辰伶殿の作でありましょうが」
「まったく、余興の意味をよく存じておられる」
東の対屋では、仲間である五曜星たちが驚きに固まっている。滅多に動揺しない太白が、少し声を上ずらせて歳世に尋ねた。
「改作したという話は聞いていたか?」
「いや、螢惑に教えるのが一杯一杯だった筈だから、そんな余裕があったとは思えない。…まさか、途中から振り付けを忘れてしまったのか?」
「え〜〜〜〜!?じゃあ、やっぱりデタラメを舞ってるの!?」
「御2人ともようしてはりますなあ。とてもデタラメには見えまへんわ」
まだ舞を習って日も浅いというのに、これだけの舞を創り出せる螢惑は確かに優れた舞のセンスを持っているといえる。しかし、熟練した天才である辰伶の才能はそれをさらに凌駕するものだった。
他の者であったなら、螢惑の変化に対してこれほど的確な対処はできなかっただろう。呆気にとられてその場に棒立ちになるか、動揺して己の舞を乱れさせるか、そのまま融通をきかせることなく舞い続けて水と火が全くちぐはぐな水剋火を披露していたかのどれかだったに違いない。辰伶であったからこそ、このデタラメな舞が1つの舞踊としての形を保っていられたのである。
螢惑の動きを読み、それに合った所作を瞬時に創り上げる。戦闘ではリズムの無い螢惑の動きを読むことはできない。しかし舞には節があり、拍子があり、曲がある。その範囲を外れないのであれば螢惑の動作を読むことは、辰伶には不可能なことではない。
辰伶は螢惑が作る空気の動きに全神経を集中させた。そして次第に辰伶の所作に螢惑を引き込み、最後には完全に辰伶が主導となって乱れることなく舞を終了させた。
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