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今宵の宴に
-6-
辰伶が豊楽殿に着いたときには、辺りはとっくに闇に沈んでいた。前庭の白砂に立った辰伶は、簀の高欄に歳世の姿を見つけて驚いた。約束の時刻など遥に過ぎ去っていたので、まだここに居るとは思っていなかったのだ。
では何故辰伶が今更ここに来たかといえば、辰伶自身の気が済まなかったからに他ならない。歳世が待っていることを期待してではなく、ただの気休めに過ぎなかった。
歳世も辰伶に気づいた。
「ここから眺める月は良いな」
そう言って、歳世は空を仰ぎ見た。
「お誂え向きに、今宵は満月だ」
辰伶は歳世の心遣いに頭が下がる思いだった。
「すまなかった。本当に、詫びのしようがない」
「貴方が下らない理由で他人との約束を破るような人ではないことを、私はよく知っている」
そう言われて、辰伶はますます恐縮した。
「そこへ行ってもいいか?」
「どうぞ。御遠慮なく」
辰伶は予備動作など殆ど無しに軽々と高欄へ飛び上った。
「本当に今日はすまなかったな。悪いがもう一度、申し合わせの為に時間を貰えないだろうか。もし不都合でなければ今からでも…」
「それは全然構わないが…」
辰伶の横顔に平生に無い翳りを、歳世は見て取った。
「顔色が悪いようだが、疲れているのではないか?」
「そうか?月明りのせいではないか?」
「貴方は完璧主義の気がある。少しは手を抜くことを覚えたほうがいい」
「その“手を抜く”というのが、なかなか難しくてな…」
辰伶ははにかむ様な仕草で、薄っすらと微笑を唇に乗せた。彼にとっては、本気で難しいことなのだろう。余りにも辰伶らしいので、歳世は微笑を誘われた。
「貴方の『水生木』を1度だけ見たことがある。あれは4年程前だったかな」
「ああ、あの時は相手は歳子だった」
「あの頃から貴方の舞の腕が落ちていないなら…」
歳世は口元に不敵な笑みを刷いた。
「私は貴方の舞に完璧に合わせてみせよう」
「歳世、それは…」
「祝賀会までもう何日も無い。辰伶は螢惑の指導に専念しろ。そして今夜はゆっくり休め」
一点の曇りもない真円の月が、皓々と地上を照らす。闇にしては明るく、光にしては蒼い。その夢幻のような空気の中に凛として在る歳世は、竜宮からの使者に見紛うほどに清冽だった。
「歳世、おまえの心遣いは絶対に無駄にしない」
辰伶は高欄から前庭へ飛び降りた。そして数歩進んだところで不意に立ち止まり、振り返った。
「この埋め合わせは、いつか必ず」
歳世は花が咲いたように微笑んだ。
「それは楽しみだな」
歳世は深い慈しみの眼差しを、去りゆく辰伶の背中へ注ぎ続けた。小気味よく砂を踏む音は次第に遠ざかり、やがて静寂の中へ消えた。
辰伶の気配が完全に無くなるのと同時に、歳世から微笑みが消えた。厳しいとさえいえるほどに、堅い口調で背後の闇へ呼びかけた。
「辰伶に用があったのではなかったのか?」
灯も無く闇に沈んだ広廂から、螢惑が姿を現した。歳世は振り返り、螢惑をまっすぐ見据えた。
「私に用か?」
螢惑はぽつりとひとこと言った。
「ごめん」
歳世は驚いて目を瞠った。螢惑が自分に謝る理由が判らなかったこともあるが、螢惑が他人に謝ったこと自体に驚いたのだ。しかしすぐに表情を険しく改めた。
「謝る相手が違うな」
恐らく、辰伶が歳世との約束の時間に遅れた事に関して、螢惑にも原因の一端があったのだろうと、歳世は想像を巡らせた。後は自ずと想像がつく。螢惑のやる気のなさは、歳世も懸念していた。その為に辰伶に多大な負担が掛かっていることに、歳世は内心で腹を立てていたのだ。
「螢惑、おまえは舞が嫌いなのか?」
「嫌い」
身も蓋も無い言い様である。しかし歳世は甘くなく、それで放免はせずに重ねて訊ねた。
「何故だ?」
「つまらないから」
「それで?」
まだ不足らしい。歳世の眼光は厳しいまま弛まない。螢惑は補足して言った。
「最初から決まってる動きをなぞるだけでしょ。バカみたいじゃない」
螢惑の言い方が余りにぶっきらぼうだったので、歳世は思いがけず笑いを噴きこぼした。
「そうか…。そうか…」
笑いながら、歳世は舞扇を開いた。右手に持ち、左から右へと水平に1本の線を描いた。
「足捌き。手首のこなし。なるほど、予め定められた舞の所作には、舞手の意思などあろうはずもない。なればこそ…」
歳世は更に2度、同じように水平に扇を動かした。合計3本の直線は、僅かにもぶれることなく、全く同じ線を描いた。何度やっても同じだろう。百回描けば百回とも同じ軌跡を辿ることが、歳世にはできる。それは歳世の身体が覚えているのだ。
「無我の中に己を追求するのが、舞師だ」
それは歳世の舞に対する想いであり、辰伶に対する想いだった。
「舞に舞わされているように感じるのは、お前の舞が未熟だからだ。舞の型をなぞっているだけでは、ただの操り人形だ」
歳世は僅かに目を伏せ、自嘲した。
「人形の私がこんなことを言うのは滑稽だな」
「……」
いつの間にか、螢惑の姿は消えていた。歳世は小さく溜息をついた。
「辰伶、少しでも貴方の役に立てたら良かったのですが…」
その翌日からである。辰伶は螢惑の変化に目を瞠った。表情や態度にこそ表れていないが、これまでとは集中力がまるで違うのである。勿論それは悪いことではないが、辰伶は螢惑の変化の原因にまるで心当たりがなく、首を傾げるばかりであった。
何か裏があるのではと、余計な疑念を抱いて、夜も安らかに眠れない。結局、どう足掻いても辰伶は苦労性なのである。
そんな辰伶の戸惑いを、螢惑がどのように受け取っていたか判らない。いや、気づいていたかどうかも怪しい。いずれにせよ、その乏しい表情からは何も読むことはできなかった。
ともあれ、これまでの不出来を一挙に払拭して、螢惑は急速に舞を己のものにしていった。
そして、祝賀会の日を迎えたのである。
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