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今宵の宴に
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辰伶は大きく溜息をついた。それを見咎めて、歳世は尋ねた。
「おかしいか?『老松に藤と橘』の狩衣だが」
「あ、いや…」
辰伶は我に返った。そうだった。今は歳世と舞の衣装合わせをしていたのだ。
祝賀会を1週間後に控え、今日は舞台の為の衣装合わせに集まっていた。本番の五曜連舞は衣装から採りものまで事細かに厳密に決まっているが、今回は余興である。こういう時は面を着けず、衣装も華々しく煌びやかなものを纏うのが習いだった。特に衣装は舞人のセンスが問われる重要な見所である。
独舞はそれこそ舞手の裁量でどのようにも着こなせば良いが、しかし2人が並び立って舞う双舞では、2人の衣装が余りにちぐはぐでは拙い。その為に事前に衣装合わせが必要なのである。
木を司る五曜星は歳子と歳世がいるが、2人が舞うわけにはいかない。今回の余興では、歳世が辰伶と共に舞台を務めることとなった。
「良い袍だな。採りものの扇子だが、やはりこちらの『紅白梅』が映えるのではないか」
「では、それにしよう」
そして、また1つ辰伶は溜息をつく。歳世もつられたように小さく溜息を漏らした。
「螢惑のことか?」
今日の衣装合わせに、螢惑は来ていなかった。
螢惑の舞の指導に辰伶が手こずっていると、歳世は噂で聞いていた。
「螢惑の覚えが悪いのか?」
「…筋はいいんだ。呑み込みも速いし、何よりも勘がいい。そう、決して才能が無いわけじゃないと思うのだが…」
螢惑は、辰伶の指導に良くついてきているといえる。辰伶の言葉に直ぐに反応し、その通りに動くことが出来る。しかし、
「覚えるのは速い。だが、それと同じく忘れるのも速いんだ…」
昨日教えた所作は、明日になれば忘れていると言う具合に、覚えた端から忘れていくので、結局のところ、全く何も身についていないのである。
「それは、やる気がないのではないか?」
「そう思うか」
辰伶もそう思う。しかし一方で、自分の教え方が拙いからではないかと、この真面目な漢は思ってしまうのである。
もし、本当に螢惑にやる気がないのなら、端から舞の稽古にも出て来はしないだろうし、祝賀会自体をすっぽかすに決まっている。だから現状として、少なくとも螢惑が辰伶の指導をおとなしく受けている以上は、螢惑にやる気がないと一概に決め付けることは出来ないと、辰伶は思う。
では、原因は何かと考え果てた末に、辰伶は自分の指導能力にも疑いを抱いてしまうのである。それが溜息の理由だった。
色々疑問な点は残るが、多分、螢惑にやる気がないというのは当たっているのだ。そして、何よりも自分に教わるのが気に喰わないのだと、辰伶は思う。
『そんなに俺に教わるのが厭なら、さっさと覚えてしまえ。そうすればすぐにでも、この不愉快な時間から解放されるんだぞ』
あからさまに辰伶を嫌う螢惑に、そう嗾けてもみたが、彼にはこの論法も通用しなかった。なだめようが、けなそうが、挑発しようが、怒鳴ろうが、一向に螢惑の態度には真剣さが顕われない。
残り僅か1週間で、螢惑の舞が完成する確率は皆無に等しい。最近では祝賀会のことを考えると、胃の腑に痛みを覚える辰伶だった。
「ところで、辰伶。午後から空いた時間はあるか。貴方と舞うのは初めてなので、申し合わせ(リハーサル)をしておきたいと思うが」
「確かにそうだな。では、昼八ツ(午後2時)に豊楽殿で」
「わかった」
歳世が去り、辰伶は独り螢惑を待ったが、一向に現れる気配はなかった。
「あいつめ」
業を煮やした辰伶は螢惑の邸へ向かった。
螢惑の官邸を訪ねるのは、辰伶には初めてのことだった。自分の官邸とそれほど変わらない造りのはずだが、妙によそよそしさを感じてしまう。
「螢惑は居るか?」
辰伶が門番に尋ねた瞬間に、正午の鐘が鳴った。少々頭に血が上っていたのか、人を訪ねるべき時間を誤ったことに気づき、辰伶は恥じた。
「悪かった。食事時に。出直して来る」
「辰伶様。螢惑様でしたら、恐らく裏の藪の奥の庵におります」
「何でまたそんな処に」
「螢惑様は専らそちらに居られることが多いのです」
そういえば、辰伶は家人達が噂していたのを聞いたことがある。火の五曜星の邸では、主人と使用人が断絶状態にあるらしい。その原因は、主人である螢惑が邸に殆ど近寄らないからだという。そんな螢惑を使用人達も主人とは認めず、互いに無視し合っているような状態らしい。
邸では定刻に食事が用意され、風呂が焚かれ、寝所が整えられているが、料理は手を付けられることなく捨てられ、湯水は清いまま冷め、寝具も使われたことは一度もない。
使用人達が機械的に仕事を消化するだけ。それがこの邸の日常なのだと、辰伶は聞いたが、根も葉もない噂ではなさそうである。
少し考えて、辰伶は門番に家令を呼ばせた。
「これは辰伶様。今日はどのような御用向きでしょうか」
火の五曜星の家令は、辰令に恭しく礼を尽くした。
「1つ訊ねるが、螢惑は1週間後の祝賀会で舞う五曜連舞の衣装を調えていたか?」
「な、なんですと!?」
辰伶は、これで何度、螢惑のために溜息をついたことだろう。
家令の驚きからして、辰伶の予想通り、この邸の家人たちは誰も螢惑が五曜連舞を舞うことを知らなかったようだ。
(あいつめ、こんな大切なことも伝えていなかったのか)
「俺が螢惑を連れてくる。衣装を出しておけ」
辰伶は螢惑を捜しに、教えられた藪の小径を分け入った。それは径などというものではなかった。人一人すら、ろくに歩けたものではない。深く生い茂った野茨は白く小さな花を可憐に咲かせながら、その残酷な棘で近寄るものに痛みを負わさずにはおかない。
「本当にこんな処に螢惑は居るのか?」
ぼやきがこぼれる。何を好きこのんで、こんな厄介な場所に寝起きするのか。辰伶は螢惑にますます腹を立てた。
漸く視界が開けた。草も刈られていない荒れた小さな庭に、その庵はあった。風流といえなくもないが、荒廃しているという印象の方が強い。
しかしその様は驚くほど清浄で、その神寂びた光の中に踏み込むのを、辰伶は一瞬だけ躊躇った。ここは螢惑の領域なのだ。
草に埋もれ果てて、飛石の場所も定かでない。辰伶は膝ほどの草を掻き分けて進み、庵に向かって声を掛けた。
「螢惑、居るか?」
返事は無い。
「螢惑」
2度ほど呼んだが、やはり返事は無い。留守かと踵を返すと、背後で物音がした。辰伶は庭から縁側へ回ってみた。
ガタガタと音をたてて、雨戸が開けられた。戸の影から螢惑が眠そうに目を擦りながら現れた。
「…何で辰伶がいるのさ?」
寝ていたらしい。まだどこかぼんやりとした仕草で、螢惑は一本歯の高下駄を履いて庭へ降り立った。
「何でではないだろう。今日は衣装合わせをすると、あれほど言っておいただろう」
「ああ、そういえば」
「お前の物忘れは酷すぎる。もう少し何とかしようと思わないのか」
「…忘れていたわけじゃない」
螢惑はムッとした声でそういった。
「『忘れていたわけじゃない』というなら、どうしてこんな処で寝こけていたんだ」
「衣装なんて、どうせコレだし」
今着ている着物を、袖を広げて辰伶に見せる。
「それでは全くの普段着だろう」
「何だっていいじゃない」
「よくない。恥をかいてもいいのか」
「いいよ。恥ずかしくないから」
「俺が恥ずかしいんだ!」
そうなのだ。一方の螢惑がこんな格好では、絢爛な衣装をご大層に着込んだ辰伶の方が馬鹿に見える。かといって、辰伶が螢惑に合わせて普段着で舞台に立つことなど、それこそ問題外である。
「来い!」
辰伶は螢惑の手首を掴むと、強引に引っ張った。
「痛い。放してよ」
螢惑が苦痛を訴え、抗議するが、辰伶は聞く耳を持たない。振り払おうとしても、意外に辰伶の力が強くて、どうしても解くことができない。螢惑は諦めて辰伶に従って歩いた。抵抗する様子がなくなると、辰伶もその力を弱めたが、掴んだ手を放しはしなかった。
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