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鳥は還らない

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 夕食後に再び大浴場を堪能した辰伶は、浴衣姿のまま外へ散歩に出ていた。夜の風が上気した肌に心地よい。下草が白玉の露を抱き、独り歩く辰伶の裾を濡らす。

 良い月だ。辰伶も今宵は刀剣の代りに笛を腰に帯びていた。無用心といえばそうなのだが、しかし壬生の五曜星の要職にある彼を害することができる者など、滅多にいるのものではない。ましてや人間など、辰伶は端から問題にしていない。それに、いざという時には、彼には特殊能力がある。

 辰伶は自分に近しいものである水の気を感じた。空中の微小な水の粒子が、巨大な水の気配に引かれ、緩やかな流れを作っているのだ。その流れを辿ると、水の気を集めていたのは涼やかな滝だった。水の飛沫が月光で銀色に光って散る。

「これは、趣のある」

 岩場に腰を下ろし、笛袋を紐解いた。竹に穴を開けて漆を塗っただけの簡素な笛である。辰伶が自ら作ったものの内の一本だ。

 無明刑歳流本家の長子と生まれ、その家門を守り家名を高めることに縛られ、同じ世代の子供と交わることの少なかった辰伶にとって、笛作りは唯一許された『遊び』だった。
 辰伶が楽を嗜むのは精神修養や教養の為であるが、むしろそれを建前に、辰伶は堂々と『遊ぶ』ことができたのである。中でも横笛は辰伶と相性が良かった。特にこの簡素で素朴な篠笛が、何故か辰伶は好きで、好みの音色を求めて何本も自作した。笛を吹くことよりも作ることの方に、より喜び覚えた。

 歌口に唇を当て、指孔へ指を優雅に滑らせて、笛を水平に構える。長音を試してみれば、空気も良い湿り具合で、繊細な音が闇へ溶けるように響いた。

「さて、何を吹こうか…」

 自然に頭に旋律が流れる。辰伶は心のままにそれを追って曲を奏でた。

 そうしてしばらく笛に没頭していたが、ふと、背後に人の気配を感じて手を止めた。覚えのある気配である。

「まさか…」

 振り返り、闇を見透かす。

「何か聞いたことある音だと思ったけど、何で辰伶がこんなところにいるの?」
「螢惑」

 月明りの下に姿を現したのは、ほたるである。そして彼は五曜星の螢惑でもあった。

「お前こそ何でこんなところに…」
「オレは狂の監視をしてるだけ。知ってるでしょ」

 ほたる(螢惑)は先代紅の王の命令で、壬生を裏切り出て行った鬼目の狂の監視の任に当たっていた。そのことは辰伶も承知であったが、しかしまさかこんな旅先で出くわすことがあるなど、全く思ってもみないことだった。

「で、辰伶は何してるの?サボり?」
「サ、…お前と一緒にするな」
「サボってない。ちゃんと狂を見てる」
「近くに狂がいるのか?」
「うん」

 見れは螢惑が着ている浴衣には『歓杳楼』という縫い取りがあった。偶然にも隣り合わせに宿泊してしまったようだ。いくら想像外の事とは言え、こんなに近くにいて気が付かなかったとは、少々羽を伸ばし過ぎていたかもしれない。

「辰伶は何してんの?」

 咄嗟に答えられなかった。一方が真面目に任務に取り組んでいるというのに、自分らは遊んでいるというのは、どうにもばつが悪い。しかも、先ほどほたるに『サボりか』と問われて、違うと言い切ってしまった手前、いまさら慰安旅行ですとは言えたものではない。別にサボっているわけではないが、仕事をしているわけでもないのだ。

「あ、そうか」
「な、なんだ」

 突然納得したほたるに、辰伶は動揺した。

「狂のことが知りたいんでしょ」
「は…?」

 ほたるの出した答えは飛躍していて、何故そういう答えが出るのか解からない辰伶は間抜けな声をあげてしまった。

「辰伶は昔から狂のことで頭が一杯だったからね」
「俺が!?」

 その指摘は意外すぎて、辰伶は驚くばかりである。

 ――俺があの漢を意識しているだと?

 まだ、幼少の頃、大人たちが悪し様に噂する鬼の子は、辰伶には全く不思議な存在だった。そして、一族の方針に真向から逆らって信長を殺した彼の行動は、辰伶の理解を遥かに超えていた。非常に興味を引かれる存在だった。

 初めてその深紅の瞳と対峙した時。その時の彼の行動も、辰伶には未だに理解できない。理解してはいけないと思っている。ただ、その紅い瞳は鮮烈な存在感となって辰伶に植え付けられている。

 自らを顧みて、辰伶は愕然とした。ほたるの洞察は間違っていない。辰伶は狂を強く意識していたことを認めざるを得なかった。

 だがそれでも、それだけで頭が一杯などと言われるのは心外である。狂と同じくらい、いや、ひょっとするとそれ以上に辰伶の気に懸かってしかたがないのが誰か、この漢は知りもしない。

 ――螢惑…俺の弟。

 ほたるは辰伶の異母弟である。

 同じ血を引く兄弟でありながら全く境遇の異なる二人は、その性質を水と火のごとく違ったものにした。事あるごとに反発し、刃を交えたことさえ一度や二度ではない。

 何処に在ろうとも常に孤独の中に身を置き、誰の干渉も許さず、その場その時の己の感性のみで行動を決めるのがこの漢、ほたるである。自分とは全く違う道を行くこの異母弟が、辰伶には殊のほか苦々しく、腹立たしく、また哀しいほどに眩しかった。高空を行く雲のように自由な彼を、羨望する気持ちもあった。

 ふと、辰伶は嫌な符合に気づいた。壬生の枠を超え、辰伶の秤では測れぬ2人の漢。辰伶が最も気に懸かる相手が、最も意識する漢と行動を共にしている。それが自分にとって、どういう意味を持つのか。

 そんな辰伶の心境には全く構わず、ほたるは無遠慮に語りだした。

「狂は強いよ。壬生にも無い、本物の強さを持ってる」

 ――本物の強さ?壬生に無いだと?それは俺が狂に劣ると言いたいのか?

「狂はすごく強いから、狂の周りに集まるのも本当に強い漢だけ。壬生では五曜星と聞くと、みんな頭ばっかりペコペコしちゃってバカバカしかったけど、四聖天は面白いよ。四聖天と聞くと、強い奴が蟻みたいに群がってくるから。でも俺、ちょっと不満なんだよね。本当に強くて腕に自信のある奴は狂のところへ行っちゃうんだもの。やっぱり狂が一番人気だね。強い奴はみんな狂とやりたがってる。俺もいつか死合ってみたいと思うし。あ、四聖天の他の奴らともやってみたいかも」

 いつもと変わらぬ鉄仮面で表情にこそ出ていないが、ほたるは普段になく浮かれているように思える。少なくとも、辰伶はこんな風に他人のことを饒舌に語るほたるを見たことは無かった。

 ――まさか、螢惑が変わった?

 誰とも交じらず、頑なに己を閉ざしていたはずの彼が、何ゆえの変化だろう。

 ――それは、あの漢のせいなのか?

 自分の出した答えに辰伶は酷く衝撃を受けた。そして衝撃を受けたことに狼狽した。ほたるが鬼目の狂によって変わったとして、それが何故こんなに心を騒がせるのかが解からない。とにかく辰伶は動揺を抑えて言った。

「螢惑。きさま、任務を忘れてはいないだろうな」

 昏い焔が辰伶の胸をチリチリと焦がす。ほたるの口から狂の名が出るたびに、苛立ちが全身を駆け巡る。

「四聖天などと、浮かれた名で呼ばれているようだが、お前はあくまで壬生の五曜星・螢惑であることを忘れるな」

 ほたるは少し目を眇めて、低い調子で言った。

「忘れられるんなら、忘れていたい」
「…螢惑」
「壬生なんて大嫌い」
「螢惑」
「中でも辰伶が一番嫌い」

 ほたるの言葉は辰伶の心臓を深く刺し貫いた。指先が細かく震えるのが、自分で解かる。これは失望というのだろうか。

 辰伶にとっても、ほたるは好感から一番遠い相手である。以前から決して友好な関係にはなかったが、特にほたるが先代紅の王に対して反逆行為を働いて以降は、辰伶は嫌悪を超えて憎悪にも近い感情を抱いていた。

 そんな関係であったから、これまでも彼に面と向かって悪感情をぶつけられたことは何度もあったし、自分も相応に返していた。それを痛みに感じたことなど一度も無かった。敵愾心に燃える彼の瞳を平然と受け止め、正面から見返していた。

 それなのに、どうして今更、彼の言葉に失望しているのだろう。

「お前はっ!お前は狂を選ぶのか!俺たちを、壬生を裏切って…」

 咄嗟に口をついて出た言葉に、辰伶は愕然とした。


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