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鳥は還らない

-5-


 ほたるの双眸が大きく開かれている。驚いているのは辰伶も同じだった。この正体不明の苛立ちと痛みは、螢惑が壬生から離れていくという喪失感からくるものだった。それは辰伶には俄かに受け容れ難い事実だった。

「辰伶は、勘違いしてる」

 先ほど辰伶が笛を吹いていた岩場に座って、ほたるは言った。

「俺は誰も裏切ってない。…裏切るような『仲間』なんて、最初からいない」
「螢惑…」

 辰伶は息が詰まる思いで、螢惑の言葉を聴いた。螢惑は自分自身の変化に気づいていない。

 何も信じない。誰にも頼らない。独りで生きて、独りで強くなる。仲間と呼べるものも、呼びたい奴もいない。端から仲間ではないから裏切りようがない。螢惑はそういう漢だった。壬生にいた時は。

 先代紅の王に刃を向けた咎で、鬼目の狂の監視として樹海の外へと遣られた螢惑。その口が語るのは狂に対する憧憬を混じえた紛れも無い親近の情だった。螢惑は知らないのだ。孤独な者がそんな声で仲間のことを語りはしないということを。頑なに孤高に拘る余りに、自分の変化に気づいていないのだろう。

 辰伶は名家に生まれた。両親に期待を掛けられて育ち、太四老の吹雪を師と仰ぎ、太白や歳世という素晴らしい武人たちを友に持ち、五曜星の1人として大勢の部下を従えている。これだけの知遇に恵まれながら、不思議と螢惑の孤高な魂に共鳴して止まない。

 その孤独感は螢惑が辰伶の心に冷たく植えつけたものだったはずだ。それなのに、この漢は非情だ。辰伶独りを孤独の底に置き去りにして、自分だけ無責任にも鬼目の狂と四聖天の仲間たちのもとへ行ってしまった。独り残った辰伶は自分のものでないはずの痛みに苛まれている。痛める必要のない心に、無用の痛みを感じている。

 勿論、それは螢惑の与り知らぬことではあるのだろうが、辰伶は言いようの無い理不尽さに駆られた。

 だから、教えてやらない。

 螢惑が、どんな顔をして仲間のことを語っていたか。
 辰伶が、どんな想いでそれを見ていたか。

 『仲間はいない』という螢惑の言葉に、どれほど気持ちが和いだか。螢惑が自身の変化に気づかぬうちは、まだ壬生の一族だ。仮そめに過ぎなくても。

 でなければ、この喪失感の行き場が無い。

 長い沈黙を破って、螢惑が言った。

「ねえ、もっかい笛吹いてよ」

 予想だにしない言葉を耳にして、辰伶は目の前の漢を凝視した。

「……意外なことを言う。お前は俺が嫌いなんだろう。さっさと何処か行け」
「笛吹いてる時のお前は、そんなに嫌いじゃない」
「口うるさくないからか?」
「うん」

 何故か笑いが漏れた。面白いことなど何もないのに。

「はっきり言う奴だ」

 この時、辰伶の心象に一瞬だけ浮かんだのは、一羽の鳥が遥かに飛んで行く、遠い姿だった。もう螢惑は壬生には帰らないかもしれない。例え身体は還ったとしても、心は彼が認めた漢たちと共に在り続けるのだろう。今ここで辰伶が何を言おうとも、言わずとも、最終的には同じことだ。

(そうだ。所詮、俺は雲にはなれない。飛び去る鳥を追いかけて捕まえることなどできない。いつだってただ見送るだけ。俺は風にいいように振り回されるだけの、間抜けな風見鶏だ)

 夜の静謐の中を篠笛の旋律が流れた。

 いつか螢惑が行ってしまうだろう遥かな地にまで、この旋律は届くだろうか。


終わり

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