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鳥は還らない
-3-
「何だか疲れてしまったな」
せっかく温泉にきたというのに、歳子の非常識な振る舞いに、辰伶はゆっくり湯を堪能することもできなかった。
「まあいい。後でもう一度入ろう」
時間はあるのだ。幸いにして浴場は終日使用が可能だった。
ふと、辰伶は歳世のことを思い出した。どうせ今の時間は歳子が使っているのである。歳世にも教えてやろうと思った。歳子と歳世に割り当てられた部屋を訪ねた。
「歳世、入ってもいいか?」
「辰伶か?どうぞ」
歳世は浴衣姿で寛いでいた。
「今の時間、男湯を女性陣に明け渡したから行って来るといい。せっかく良い温泉旅館に来たのに、露天風呂も何も無しではつまらないだろう」
「まあ」
歳世から笑みがこぼれた。
「それは嬉しいことだ。そのような気配りをしてくれる殿方は辰伶が始めてだ。ではお言葉に甘えて戴いてこよう」
歳世は手早く入浴の支度を始めた。
「そんなに喜ばれるとは思ってもみなかった。余程、女湯は条件が悪いのだろうな」
「そうだな。男湯に比べるとな」
歳子と歳世の部屋を辞して、辰伶は自分の部屋に戻った。こちらも既に寛ぎモードで、太白は地酒をゆっくりと手酌で楽しんでいる。鎮明は按摩を呼んで揉ませていた。
「辰伶、意外に早かったな。お前の事だから、もっとゆっくりしてくると思ったが」
「そうはいかない事情ができまして…」
辰伶は事の顛末を簡単に話した。
「はあ〜〜〜。歳子はんも困ったお人どすなあ。気持ちは解からんでもないどすが。…あ、もう少し強めに頼んます」
へいと按摩が答える。
「まあ、貸切だからそれも良かろう。皆が楽しめればいい。辰伶、一杯どうだ」
「戴きます」
「何やな。辰伶はんも来はったことどすし、お料理運んでもらいまひょか?」
「そうだな。しかし、螢惑が来られなかったのは残念だったな。先代紅の王の命令では仕方のないことだが」
ここには居ない一人の仲間の不在を、太白は惜しんだ。
「あいつは、こんな処に来はしませんよ。…そういう奴です」
辰伶は窓の外を見やった。夕闇が迫り、既に月が出ていた。
それは獣道以外の何物でもない。掻き分けるようにして竹薮の中の細い道を、ほたるはどんどん進んでいく。続くアキラは、ほたるが通った為に撓った竹に打たれて散々である。
「本当にこんなところにあるのかよ」
「たぶんね」
「おいっ、『たぶん』って何だよ」
「間違ってなかったら『ある』ってこと」
急にアキラは不安になった。そういえばほたるは筋金入りの方向音痴だったのだ。方向が分からないというよりは、道を覚えようという気がないのだが、どちらにしてもそんな人間の案内にのこのこと付いてきてしまったことに、アキラは後悔し始めた。
「ほら、あった」
アキラの心配は無用に終わった。今回は目的地に辿り付く事ができたようだ。
「すごい…」
意外に広さのある温泉だった。少し温度は低めだが、今の季節には調度良い。2人は刀と脱いだ着衣をそれぞれ岩の上に置いた。もう辺りは暗くなっていたので、半ば手探りで注意しながら入っていく。
アキラは座ると調度良い深さになる岩に落ち着いた。ほたるはその隣の大岩の向こうから湯に入っていった。のんびりと一息ついた頃、アキラは岩陰に向かって声を掛けた。
「よくこんなところ見つけたな」
「……」
「藪の陰だし、道から全然見えないじゃないか。天然が天然を呼んだのか?」
「……」
「お前でもたまには役に立つよな。…なあ、さっきから何黙ってるんだよ。寝てるのか?」
「ああ。もしかしてアキラ、オレに話しかけてた?」
「え?」
声の方を見ると、ほたるはアキラの正面にいた。しかしアキラが話しかけていた岩の陰からは水音がしていて、依然として誰かが入っている気配がある。アキラは岩の向こうを覗いてみた。
「わっ!何だよ、おまえ」
「ウキ?」
アキラがずっと話かけていたのは湯治に来ていた野生の猿だった。
「誰?それ。アキラの知り合い?」
「俺に獣の知り合いはいねえよ」
「いるじゃない」
「え?」
一瞬、何のことか分からなかったが、すぐに思い立って笑い声をたてた。
「いるいる。『梵』って名前のでっかい獣が」
アキラはひとしきり笑った。ほたるはニコリともしないが、彼はもとからそういう漢だった。
天然の岩風呂は十分以上に広く快適だ。アキラは顎すれすれまで湯に浸かり込み、存分に四肢を伸ばした。
のんびり寛いでいる中、急にほたるが立ち上がって、アキラを驚かせた。
「何だ?」
「……」
ほたるは目を閉じた。どうやら何かの音を探っているらしい。アキラも耳を澄まして森の気配を探ってみたが、怪しい物音はしない。
「敵か?」
「ううん。…笛の音が」
「笛?」
アキラはもう一度聞き耳をたてようとしたが、ほたるが大きく水音をたてたので、それに邪魔されてしまった。ほたるは温泉を出るとさっさと浴衣を身に付け出した。
「あ、おい」
困惑しているアキラを置いて、ほたるは闇の中へと行ってしまった。
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