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嘆き鳥の眼球
※ほた辰アンソロ『たしかなこと』参加作品
クァン クァン クァン ・・・ ・・ ・ ・
クァン クァン クァン ・・・ ・・ ・ ・
螢惑は足を止めた。今のは鳥だろうか。天を振り仰ぐが、灰白色の靄にけぶる空を横切る影は無い。
11月の、冬を目前にうら哀しく立ち枯れた葦の沼はどこか魂が虚ろで、その畔に在る螢惑は、幽界の境目を浮遊する霧の粒のように、自身の存在を希薄に感じていた。無為の時をゆらゆらと取りとめもなく漂泊していた螢惑であったが、そんな彼の意識を俄かに刺激したのは一羽の鳥の啼き声だった。
地形の所為だろうか。鳥の声はいつまでも反響し、木霊が唄に唄い継ぐ。孤独な鳥の幻想世界。仲間からはぐれた鳥が、白茶けた薄や葦の陰に残像の鳥を潜ませて、かりそめの群れを夢想している。
ヒユーィ ・・・ ・・ ・ ・
何処かから、笛の音がした。
ヒユィ ユウィ ユィ ユィ ・・・ ・・ ・ ・
木霊たちはすぐさま笛吹きに姿を変え、四方八方から笛を追いかけて寂寥の唄を唄い継いだ。
霧の細かな水滴に濡れて、服も髪も忌々しく重い。帰りたい。今すぐ帰りたい。この笛の音を聴いていると、そんな想いに胸が締め付けられる。遠い異国に在って故郷を偲ぶような、そんな痛みに螢惑の魂は打ち震えた。
バカなと、螢惑は思った。彼にとって此処、壬生の郷は自分の生まれ育った地だ。つい半年ほど前までは、先代の紅の王の命令で壬生の郷を離れていたが、その時ならいざ知らず、故郷にあって「帰りたい」も何もあったものではない。
「要するに、ここは俺の故郷じゃないってこと?」
それならそれで構わないと思った。壬生の郷には大して良い思い出が無い。追われて、傷つけられた幼い日々。生きることに必死で、強くなることだけに夢中で、この地に安らぎの記憶は無い。
「…笛吹いてるの…誰?」
水辺に漂う霧が笛の音をいたずらに反響させてしまうので、音のする方向が杳として掴めない。螢惑は笛の主を求めて沼の畔を探し歩いた。
沼には短い桟橋が掛かっていた。すっかり古びたそれは霧の湿気を吸ってふかふかと柔らかく、螢惑の高下駄の音を鈍くした。
ヒユィ ユウィ ユィ ユィ ・・・ ・・ ・ ・
桟橋の先端から遥かに沼の奥を眺めた。対岸近く、朽ちて半分水に沈んだ小舟の突端に、笛吹きの姿はあった。
「何で…あいつ?」
それは螢惑のよく見知った人物だった。螢惑と同じく五曜星の地位にあって、火を召喚する螢惑に対し、水を操るその漢は、名を辰伶といった。火と水のように性格の異なる二人が相容れることはなく、螢惑とは昔から諍いが絶えない相手だ。
螢惑は彼が嫌いだった。何ものにも縛られることを良しとしない螢惑にとって、壬生に全てを捧げる彼の在り方は理解の外であった。
そして、螢惑にはもう一つ彼を忌むべき理由があった。辰伶は螢惑の異母兄だった。もっとも辰伶の方はそれを知らぬらしく、それが更に螢惑の苛立ちを煽り立てた。同じ父親の血を引きながら、片方は正統の名を冠して光の中にあり、片方は闇に葬られようとした。自分の立場がそんな不公正を礎にして立っていることを知らない異母兄が、澄ました顔で壬生の正義だ、使命だと口にすると、螢惑は虫唾が走った。
笛を吹いていた者の正体は、螢惑にとって余りにも意外だった。壬生に命まで捧げると言って憚らない漢が、その最も愛する壬生の地に在って望郷の唄を奏でているのだ。螢惑は暫し立ち尽くした。孤独な鳥の啼き声に似た笛の音を、狂おしく聴いていた。
癇に障る。螢惑は踵を返した。辰伶がそんなにも孤独がる理由が解からず、無性に腹が立った。愛する一族の中に在って、人々から称賛を浴び、仲間からは信頼を寄せられている。そんな漢が孤独だなんて、性質の悪い冗談にしか思えない。
頭に血が昇った螢惑は、不注意な一歩を踏み出してしまった。朽ちた桟橋の板を踏み外してバランスを失った螢惑は、高く水飛沫を上げて沼に落ちた。 その音に辰伶が気付いた。辰伶は羽ばたく水鳥のように衣を翻して水面を駆けて来た。
「掴まれ。大丈夫か」
手を差し出されたが、螢惑は無視した。晩秋の沼の水は冷たく、それでなくとも水が嫌いであったが、それ以上に辰伶が嫌いだった。辰伶の手を取るくらいなら、水の中の方がマシだと思った。しかし強引に腕を掴まれて、引き上げられた。
「…螢惑ではないか」
どうやら相手が誰か知らずに助けたらしい。そうだろうと螢惑は思った。この漢が自分など助けるはずがないという確信があった。
「こんな季節に沼に落ちるなんて、またぼんやりしていたのだろう」
「…別に」
螢惑を掴んでいる辰伶の手を振り払おうとして、そこが水の上であることに気付いた。水を操る辰伶の力で、二人はまるで地面に立つのと同じように水の上に立っていたのだ。今、辰伶の手を離せば、また水の中に落ちてしまう。それは嫌だなと、螢惑は先程とは反対のことを思った。
「あ…」
二人は同時に天を見上げた。雨が降ってきた。
低い岩棚の下で、二人は並んで雨を凌いでいた。繁みの陰となって、パッと見には発見できないこの場所に、辰伶は迷うことなく螢惑を案内した。どうやら辰伶はこの辺りにはたびたび訪れているらしい。ここに来るたびに、あんな風に笛を吹いているのだろうかと、螢惑は隣の漢の横顔を見ながら思った。その視線を受けて、辰伶は言った。
「寒いか?」
「…別に」
「じきに日が暮れる。こんなところで雨宿りなどせずに、帰った方が良かったかもしれんな。お前、そのままでは風邪をひくだろう」
「…別に」
沼に落ちた螢惑はずぶ濡れだった。濡れそぼった着物が螢惑の体温を無遠慮に奪っていく。堪らず身震いした。
「別にということはないだろう。もう晩秋だ。日が暮れればどんどん冷え込むぞ」
「別に、こんなの…」
螢惑の体を一瞬だけ炎が包み込んだ。瞬き程度の間だけ螢惑が召喚した炎は、それだけですっかり着物を乾かしてしまった。
これで無理にでも家に帰らなければならない理由は無くなった。それを螢惑は「あれ?」と思った。これではまるで自分が辰伶と一緒にこの場に留まって雨宿りをしたかったようにみえてしまう。
螢惑は考えた。辰伶がつまらない言訳をして家に帰りたがったから、自分はそれの邪魔をしてやったのだ。この漢は野宿などしたことはないだろう。ふふん、いい気味だ…
ヒユィリィ ユウィ リィリィ ・・・ ・・ ・ ・
突然の笛の音に、螢惑は我に返った。辰伶は岩に腰掛け、夢を見るような眼差しで雨垂れの落ちる先を見つめながら、笛を奏でていた。
雨音に溶け込むように、辰伶の笛が唄っている。その澄んだ音色は深い優しさに溢れ、螢惑は心地よく聴き入った。辰伶は嫌いだが、笛の音は嫌いではないかもしれない。
螢惑は不思議に思った。先程も同じ笛の音を聴いた筈なのだが、あの時は切なさに胸が潰れそうだった。それなのに、すぐ隣で奏でられているこの音は包み込むように温かく、心が和らぐ。
「さっきも笛吹いてたよね…」
辰伶は演奏を中断し、手を下ろした。
「うるさかったか?」
「同じ曲?」
「そうだが…」
「ふうん」
それでは何が違うのだろうか。螢惑は辰伶の笛を凝視した。辰伶は居心地悪そうに身動ぎした。
「笛…もういいの?」
「迷惑なんだろう?」
そうではなかったのだが。螢惑は肯定も否定もせず、全く関係ないことを言った。
「辰伶は…何処へ帰りたいの?」
辰伶は驚きに眼を見張り、螢惑を見詰めた。
「それとも、何処かへ行きたいの?」
「…唐突だな」
それきり、もう辰伶は笛を吹こうとはせず、笛袋にしまってしまった。
螢惑は思い出した。辰伶は幼い頃、外の世界に憧れていた。壬生の郷を深く懐に抱く樹海の、遥か向こうに広がる果てしない世界。辰伶の瞳は昔の方が綺麗だったと螢惑は思う。彼がまだよく笑っていた頃の、あの瞳が好きだった…
螢惑は我に返った。「好き」とは何事だろう。自分は辰伶が嫌いなのだ。昔の瞳の方がイイとは思うが、好きだなんておかしな感情だ…
辰伶は今でも外の世界に憧れをもっているのだろうか。壬生の為に生き、壬生の為に死ぬことを信条とする漢に、そんな心がまだ残っていたのだろうか。
ふと、螢惑は辰伶の体に無数に絡みつく鎖の存在を見たような気がした。しかしそれは一瞬のことで、そんな幻を見たことさえ、螢惑はすぐに忘れてしまった。
「ねえ、謝ってよ」
長い沈黙を破って、螢惑は言った。それを言われた方は意味が解からず、暫しの空白の後に聞き返した。
「何を謝れというのだ」
「だって、辰伶のせいだし」
「何のことだ」
「沼に落ちてずぶ濡れになったの、辰伶のせいだから謝ってよ」
「俺が何をしたと言うのだ」
「あんなところに辰伶が居たから、落ちた。ほら、早く謝ってよ」
「納得のいく説明も無しに、易々と頭を下げられるか」
「辰伶は…」
螢惑はその場にしゃがみこんだ。俯いた顔を長めの前髪が隠した。
「辰伶は…俺に借りがあるんだよ。…大きな、大きな借りがね…」
辰伶からは螢惑の表情が見えない。螢惑の丸まった背中が殊更小さく見えて、それを見下ろしていた辰伶は、掛ける言葉も無いままに眼を逸らした。寄り添うこともできず、並んで雨の音を聴いていた。日はとっくに暮れ果てて、月も厚い雨雲に隠されていたから、辺りは完全な闇だった。
不自然な沈黙に耐えかねたのか、辰伶は呟くように言った。
「それで、俺は何をすればいいんだ?」
螢惑は顔を上げて、辰伶を見た。
「…何…って?」
「謝るだけでいいのか?」
「ひょっとして……辰伶…」
自分たちが異母兄弟であることを、辰伶も知っているのだろうか。浮かんだ疑問を、螢惑は即座に打ち消した。辰伶が知っている筈が無い。
兄だとか弟だとか、言葉自体には何の力も無い。しかし兄弟であるという事実の前に、時折、螢惑は辰伶に対して奇妙に臆病になる。それを自覚するたびに螢惑は苛立ち、辰伶に対する感情は攻撃的に苛烈さを増す。
果たして自分という異母兄弟の存在を辰伶に知って欲しいのか、それとも欲しくないのか。そんな単純なことさえ答えが出せない。 螢惑は自嘲した。ここは暗くて、雨の音ばかりして、互いに互いしか居ないから、心がカンチガイを起こしているに違いない。
気怠げに、螢惑は言った。
「ねえ、俺が欲しいって言ったら…何でもくれるの?」
ぼんやりと、辰伶が答えた。
「俺が持っているもので…俺の自由になるものなら」
雨は降り続いている。互いの息遣いさえ聞こえそうなほど近くに居ながら、闇の中では相手がどんな表情をしているのか判らない。
「お前の命が欲しいって言ったら?」
「それは駄目だ。俺の命は壬生のものだから」
「お前の体が欲しいって言ったら?」
「それも駄目だ。この体は指一本に到るまで、壬生の為に尽くさねばならん」
「お前の…心が欲しいって言ったら?」
「俺の心は……」
辰伶は瞳を伏せた。
「そう…心すらお前の自由にはならないの…」
「……」
「じゃあ、お前から欲しいものなんて…無いよ」
螢惑は己の膝をきつく抱きしめた。
「俺の命とか体とか…心とか……お前はそんなものが欲しいのか?」
「命と体と心の他に、自分のものって言えるものってあるの?」
再び沈黙が二人の間に訪れた。雨の音だけが聞こえる。
「…あるぞ」
呟きに似た声で、辰伶が言った。
「俺のもので、お前にやれるものなら、ある」
「へえ、何?」
「俺の時間を…お前に」
「ふうん」
螢惑はニヤリと笑うと、突然刀を抜いた。長く編まれた己の後ろ髪を掴んでその根元から切り落とし、辰伶に投げて寄越した。
「これに見合う時間を、俺にちょうだい」
螢惑の金色の髪を両手で受け止め、辰伶は茫然と螢惑を見ていた。
「ねえ、どれだけくれるの?」
「朝まで…」
「うん」
「月の見えない夜は、全てお前に…」
螢惑は辰伶の両肩に手を置き、ゆっくりと唇を寄せた。辰伶は瞳を閉じて、螢惑の背中を抱きしめた。深い口付けに、二人は雨の音を忘れた。
…ねえ、辰伶…
辰伶の肌に所有の印を付けながら、螢惑は心の中で言い募る。
…ねえ、辰伶…
…本当は、俺はお前の眼が欲しい…
きっといつか自分は再び外の世界へ旅立つであろうことを、螢惑は予感していた。その時には、辰伶の二つの眼球を持って行きたいと思った。
壬生を離れられない辰伶の為に、彼が見たがった外の世界を彼の角膜に映し、彼が憧れた美しいものを全て彼の網膜に焼き付けて来てやるのだ。
…そしたら、ねえ、きっと綺麗に輝くでしょう?あの頃みたいに…
いつか見た瞳のように。
終わり
イメージ音楽
『The Bird Of Wounds (Nagekidori)』(邦題『嘆き鳥のレジェンド』)ポール・モーリア
『Sky』(※『first kaleidscope』版)GARNET CROW
本作は高村雪子様主催のほた辰アンソロジー『たしかなこと』に収録されています。
ほたると辰伶の12ヶ月というコンセプトのアンソロジーで、私は11月を担当させて頂きました。晩秋の冷たく寂しい空気を表現するために、苦手な風景描写をがんばりました。
≫高村雪子様
その節はお世話になりました。お声をかけて下さって嬉しかったです。
≫翡翠様
素敵な挿絵をありがとうございました。企画に参加して良かったと大感激しました。
≫
後日談
本編とは打って変わってギャグテイストな話となっております。
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