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水の中で見る夢
-8-
辰伶達が行ってしまうと、ほたるは残された辰伶の従者に後ろから抱きかかえるような形で馬に乗せられた。
ほたるは馬に揺られながら、ぼんやりと先程の少年のことを思い出していた。逆光で、銀色の髪が虹のように煌いて、不思議に心惹かれた。
『シンレイ』
その音は耳に涼やかに響く。胸の内でその名を繰り返すと、ささくれた心が潤っていくような気持ちになった。
差し出された彼の手は温かくて、掛けられた彼の言葉は優しくて、彼に髪を撫でられた時は、泣きたいような奇妙な気持ちになった。独りで逃げ回るのは辛過ぎた。
ほたるは胸元に、辰伶がくれた巾着を大事に握り締めていた。ほのかに香の匂いがする。辰伶の装束からは良い香りがしていた。ほたるの母が着物に好んで焚き染めていた香の匂いと少し似ていた。
母親が殺されたあの日から、一体何日が過ぎたというのだろう。随分と遠い昔のことに思えるが、まだ5日と過ぎてはおるまい。余りに短い時間の中で、自らの置かれる状況が激しく変わってしまった為、ほたるは驚く暇も、悲しむ余裕も無かった。それがようやく、『シンレイ』という名のもとに、少しずつ解きほぐされていくのを、ほたるは感じていた。
道のりは遠くなかった。遥かに続く白壁が、すでに辰伶の住む屋敷の塀だった。その向こう側を透かして見ることは出来ないが、外からでも十分解かるその堂々たる構えは威圧的ですらある。どこか人の目を避けるようにひっそりとあったほたるの屋敷とは対照的だ。
「もう少しだ」
これまで無言だった男が、独り言のようにほたるに声を掛けた。それに対してほたるは儀礼的に前方を見遣った。そして、その目を瞠った。
門の前に2人の男がいる。彼らは焼け跡にいたほたるを刀で以って斬り付けた男たちだ。ほたるには忘れられるはずがない。それは向こうにとっても同じで、ほたるの姿を見咎めると、驚愕の後に修羅の気を発した。男の片方が、馬上でほたるを抱えている辰伶の従者に叫んだ。
「何をしている。その子供を殺せ」
ほたるは馬から飛び降りた。無理に身体を捩ったので、均衡を崩して地面に落ち、転がった。手足を擦りむいたが、構ってなどいられない。
「いったい何事だ」
理解の及ばぬ展開に、従者である男も馬を降り、ほたるを庇うようにして、前面に立ちはだかった。
「この子供は辰伶様に命じられて、身柄を預かっている。正当な理由なくして、引き渡す事はできぬ」
「その子供を殺せと、御方様の命令だ」
「御方様の?」
彼が仕える家の当主の命令と聴いて、辰伶の従者は怯んだ。
「理由は言えぬが、辰伶様の御為だ」
従者は振り返って、ほたるを見下ろす。彼にはこの小さな子供が、どのように辰伶に仇なすというのか、全く想像がつかない。
「…シンレイ」
ほたるは呟いた。シンレイとは、あの『辰伶』であったのかと、ほたるは理解した。あれが異母兄の辰伶。
「そうなんだ」
ほたるは振り仰いで、辰伶の従者に言った。
「かして」
「え?」
辰伶の従者が何も理解できないうちに、彼の刀はほたるの手にあった。ほたるは鞘を捨て、両手で構えた。子供の身の丈には余る。そうしているだけで、ほたるの腕は刀の重みに震えた。
死ぬかもしれないと思った。多分、死ぬだろう。大人2人を相手にして、無事で済むはずがない。それでも、ほたるは逃げることも降参することもしなかった。したところで、そもそも無駄なのだが、そういうこととは関係なく、ほたるは目の前の男たちに屈したくなかった。情けに縋って哀願するくらいなら、死んだほうがマシだと思った。本気でそう思った。
そして何より、血が滾った。もう、誰にも好きにさせない。父親にも、…辰伶にも。
ほたるは突風のように、男たちに立ち向かった。
しかしほたるの刀は、ただの一合で遠くへ弾かれた。弾みでほたるの身体も投げ出される。びりびりと両腕が痺れた。
ほたるは地べたから、男たちを睨めつけた。
「気概だけは大したものだ」
「所詮は力の無い弱き者の愚かさよ。滑稽だな」
男たちは声をたてて笑った。その声は蔑みと嘲りに満ちて、ほたるの精神をざらついた掌で撫で上げる。ほたるはこれまでの生の中で、かつて経験したことのない激しい憎悪を抱いた。その想いは、ほたるの小さな身体の中で荒れ狂い、その殻を食い破って溢れ出そうなほどに、ほたる自身にさえ制御しがたいものだった。
『生きなさい』
母の声がする。
『生きるために強くなりなさい』
母の声が、一筋の光のように、ほたるの心に一つの方向を指し示す。
『母が、生きる術を教えてあげましょう』
「強くなる……誰よりも!」
ほたるの猛き魂は、母の声に導かれて、紅蓮の華を咲かせた。命を燃やして刺客に立ち向かった母と同じに、ほたるは炎を噴き上げ、その身にまとった。
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