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水の中で見る夢
-3-
女は、不意に今まで経験したことのない息苦しさを覚えた。視野が狭くなり、喉に鉄の臭いを感じた瞬間、口から血が溢れた。
(何?どうしたの?)
「か…さま…」
見ると、ほたるも床にうち臥して、苦しんでいた。一瞬、自分の苦しみを忘れて、背筋に冷たいものが走った。
「ま…さ……か……」
菓子に毒が?
「ほた…る…」
呼吸が出来ない。体が均衡を保てなくなり、床に崩れ落ちた。
「か…さま、くる…し…そ…」
ほたるが床を這いずって来ていた。幸いなことに、ほたるには余り毒は効いていないようだ。毒に強い体質なのだろう。
ほたるは小さな手で懸命に母親の背中をさすった。
「ふん、意外にしぶといな」
女は声に振り仰いだ。その霞んだ視界に、ほたるの父親の遣いとして菓子を届けに来た男が立っていた。2人が死んだか確かめに来たのだろう。
「な……ぜ……」
「理由も解からず死に逝くは無念であろうな。冥途の土産に教えてやろう。そのような息子を産んだが、そなたの罪よ」
「そ…んな、ほた……が、いった…い……」
「そなたの息子、水を操るであろう」
壬生には時折、特殊な能力を持って生まれる者がある。それはある特定の家系に脈々と顕われたり、全くの突然であったりと様々だ。中には修練によって身につけるものもあるようだ。
ほたるは、誰が教えた訳でもなく水を操った。この能力はほたるの父親の家系である無明歳刑流に顕われるものだ。ほたるの異母兄である辰伶もこの能力を持つという。
「無明歳刑流本家を継ぐは、辰伶様の他には要らぬと、主の仰せだ。…ふふ、そのようなことは考えたこともないと言いたそうだな。譬え、そなたら親子にその気がなくとも、あのような能力を持った子供を放置しておくは、後の憂いとも成りかねぬ。内紛の元は早いうちに断っておくが良策というものだ」
女は怒りに歯を噛み締めた。黙って聴いていれば、どれもこれも勝手な理屈ばかり。ほたるに水を操る能力があるのは、父親の“種”のせいだし、そのほたるを利用しようなどという不届き者が現れたとしたら、それはそんな家臣を持った主人に徳が無いからである。どれ一つとっても、ほたるには責任の無いことではないか。責任転嫁にも程がある。
「も、キレた……」
突如、女は男が差していた刀を、その鞘から引き抜いて奪った。毒が回って死にかけているとは思えないような動きだ。女は抜き身となった刀をゆらりと構えた。両の目ばかりがギラギラと光り、その鬼気迫る様相は、刺客である男の心胆を寒からしめた。
「ほたる、よく見ておきなさい。母がお前に、生きる術を教えてあげましょう…」
男は恐怖を覚えていた。しかし、相手が女であるせいか、危険を察知する本能の働きが鈍った。まだ、状況を甘く見ていた。あるいは、まるで分かっていなかった。
「そ、そんなものを持ったところで、そなたごときに何ができるものかっ」
男は脇差を抜いた。刀に対して脇差では不利は否めない。しかし、所詮は刀の持ち方もろくに知らない女が相手である。見れば構えも隙だらけだ。
先に動いたのは男の方だった。しかしそれは不用意な動きだった。
美しい女の鬼が、刀を振るった。その白刃の軌跡が炎を噴き上げ、灼熱の猛禽が刺客に襲い掛かった。
「うわああ……」
男の悲鳴は長く続かなかった。地獄の業火に焼かれ、炭と化して脆く崩れ落ちた。
刺客を焼き殺し、辺りを火の海にした女は、青白い炎を身にまとい、燃え立つ瞳を息子に向けた。
「ほたる、立ちなさい」
「かあさま…」
「立って、お行きなさい。この炎は、けしておまえを焼いたりしません」
「かあさま…」
「さあ、」
ほたるは毒でふらつく身体を無理に起した。
「生きなさい。どんなに苦しくても、辛くても。生きるために強くなりなさい」
母親は炎の中で美しく微笑んだ。
「…かあさま」
ほたるは数歩進み、一度だけ母を振り返った。その幼い瞳に母親の最期を焼き付ける為に。それを最後に燃え盛る炎の中に跳び込んで行った。その姿が炎の向こうへ消えると、女は大量の血を吐き、炎の褥に身を沈めた。
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