+・+ KYO小説 +・+
水の中で見る夢
-2-
母親は子供に身を寄せ、まるでとっておきの秘密を打ち明けるのに似た仕草で、そっと漆塗りの重箱の蓋を開けてみせた。美しく並んだ菓子に、ほたるは瞳を輝かせた。
「ほら、綺麗ね」
「うん、キレイ」
「これはね、『橘香(きっこう)』という、お父様の家の、特別なお菓子なのよ。ほたるは初めて見るわね」
そう言って、女は物憂い瞳を伏せる。今日は端午の節句。この菓子はその祝いのものであるが、しかし、これはほたるの為に作られたものではない。ほたるの父親の、いま一人の息子の為にあつらえられたものであり、これはその御下がりだった。
「お前だって、あの人の子なのにね…」
ほたるのまだ乾ききっていない髪を、女は手で梳き解かした。ほたるはそんな母の言葉を聞いているのか、いないのか、重箱の中身の方に気持ちが行ってしまっている様子だ。女は苦笑した。
「どうぞ、おあがりなさい」
「いただきます」
菓子はその名の通り、橘の香りがした。甘葛ではなく砂糖を使った菓子は、壬生でも上流階級の者でなければそうそう口にできるものではない。富士の樹海の向こうに住む人間たちなどにとっては、砂糖といえば薬として使われる貴重品だ。
この橘香という菓子は、壬生でも武門の誉れ高い無明歳刑流の本家が、その製法を門外不出としているものだ。無明歳刑流には、そうした類の菓子が多くあるが、殊に橘香は、その名の音が『亀甲』に通じるということで、水に縁の深い無明歳刑流では、吉祥の菓子として特別の意味があった。慶事の折に作られ、親類縁者や関係者に配られるのである。
女は、無明歳刑流本家の当主である男の妾婦だった。ほたるはその息子である。けして表に立つことを許されぬ身である2人は、王城からは遠い鄙びた地に、男に与えられた屋敷でひっそりと暮らしていた。愛する男の訪れは頻繁ではなかったが、それほどの不自由もなく息子と暮らしていける日々に不満は無かった。
ただ、息子であるほたるについては、不憫に思う。
ほたるには腹違いの兄がいる。正妻から生まれた正統な息子である異母兄は、全てにおいて晴れがましく在る。一方で、半ば無視されたような存在のほたるとは、余りの処遇の違いに、女は溜息をつくのを止められないのだった。
+・+ KYO小説 +・+