+・+ ほたる×辰伶布教計画10 +・+

水恋鳥

-6-


 水盤が映しているのは、現実には有り得ぬ光景だった。その為、辰伶は術を間違えたかと咄嗟に思ったのだが、しかしとほみの水盤は実在しない光景を映し出すことはない。過去も未来も映さない。この世の何処かで進行中の現実しか映せないのだ。

 ならば、水鏡に映っているのは本物の父親ではない。

 頭ではそう理解できた。それでも尚、論理的な思考を超越した感覚的なものが、それは父親と同種のものであると、辰伶に告げる。父親ではないが、父親と同じもの。実の息子である螢惑を闇に葬ろうとした、あの非道な父親が、生前に成さなかったことを悔やんでか、冥府から舞い戻り螢惑をその手に掛けようとしている。辰伶が跡を継いで当主となっても、まだ安心して家門を任せられぬというのか。

「父上、おやめ下さい!」

 叫んだところで、彼方に声が届くはずもない。もどかしさに辰伶は打ち震える。

 何故か螢惑は全く反撃する様子が無かった。武器を持っていないのが不利になっているのも確かだが、しかし彼の特殊能力である炎を召喚しようともしない。

「何故だ。どうして炎を使わないんだ」

 まだ体が万全ではないのか。螢惑は父親の攻撃をよくかわしていたが、普段の彼を知る辰伶の目には、その動きはひどく硬いように見えた。彼の身のこなしはあんなものではない。もっと苛烈で鮮やかだ。戦闘能力は今や父親を遥かに凌駕しているのだから、刀が無いにしても、これほど一方的に攻め立てられることなどないはずだ。

 戦闘においては常に攻撃的な性格の螢惑が、ろくに反撃せずに追われるばかりであることが、そもそもおかしいのだ。この戦いに螢惑は消極的に過ぎる。

「もうやめて下さい。父上、どうかこれ以上螢惑を傷つけるのはやめて下さい」

 厭な展開だ。辰伶の胸裏を冷たいものが滑り落ちた。このままではいずれ螢惑は追い詰められる。水鏡の映像は辰伶が懼れる未来を徐々に描き出して不安を煽り立てた。父親の打ち下ろす白刃が螢惑に迫る。辰伶の悲痛な声が、異母弟の名を叫んだ。

「螢惑!」

 その瞬間に辰伶の意識は水鏡の映像に吸い込まれた。水面にはさざ波1つ立たなかった。


 立ちはだかる宝物庫の番人の顔を目にした螢惑は息を呑んだ。その男を螢惑は知っている。そして、その男が既にこの世に存在しないことも。壬生一族の間でじわじわと広がりつつある死の病で、とっくに死んだ己の父親だった。

 人伝てに男の訃報を聞いたとき、螢惑は心の一部分が欠け落ちたような虚しさを感じた。その死を悼んだのではない。復讐の刃を一太刀とて浴びせることなく、みすみす死の手に渡してしまったことを悔いたのだ。

 仇敵の姿を目前にしても逆上することなく、螢惑は冷静に努めた。これが己の父ではないことを理性によって導き出す。水伯の侍従には実像が無く、その姿は彼を見る者が心象に描く水霊を具象化させたものだというから、それと同じ現象だろう。潤し、育み、癒す水とは対極の、数多の命を呑み込み押し流す冷酷非情な水のイメージ。宝物庫への侵入者を排除しようとする番人に、かつて己の命を脅かした者を髣髴するのは当然だ。他に選択の余地などないほどに。

 相手が仇の姿をしているなら、全力で葬るのに調度いい。しかし螢惑は刀を持っていなかったし、炎を使うことは螢惑を匿ってくれた水伯の侍従に借りを返す意味を込めて自ら禁じていた。その枷が酷くもどかしい。偽者と知っていてさえそうなのだから、本物でなくて良かったかもしれない。もしも番人が本物の己の父親であったなら、螢惑は自制できる自信がなかった。

 宝物庫の番人は迷い無く螢惑に襲い掛かった。行動は極めて機械的だ。任務遂行に意欲を燃やすでもなく、侵入者を憎悪するでもなく、己の力を誇示するでもなく、逃げ回る標的を嘲笑するでもない。その攻撃には如何なる情感も伴っていないのだ。感情のこもらぬ攻撃をかわしながら、螢惑の心は何故だか酷く乾いた。鉛の服でも着せられたかのように体の動きも鈍い。普段のように動かない体に螢惑は苛立った。

 まさか自分は動揺しているのだろうか。不意に浮かんだ考えを螢惑は強く否定した。敵が父親の姿をしているからといって、それが何だというのか。父親から命を狙われるのなんて、それこそ今更だ。その程度でいちいち傷心していたら、とっくに冷たい土の下だ。

 確かに、宝物庫の番人の感情を排した冷めた目は、あの日の父親そのものだ。不愉快過ぎて忘れていた幼い日の出来事を、螢惑は思い出した。もう何度目になるのか覚えてもいない刺客の襲来から逃れた螢惑は、泥で汚れてしまった手足や顔を小川で洗っていた。季節は春で川の水は温んでいたが、あちこちに作ってしまった擦り傷が沁みた。この際だからと髪も洗った。拭くものは無かったので、自然に乾燥するに任せようと、日当たりの良い岩場に腰掛け、風に吹かれた。そうして居るところに、小川の土手の上の道を父親が通ったのだ。咄嗟に隠れる場所は無く、緊張に身を竦ませた。しかし父親の視線は螢惑を撫でただけで、まるで興味を示すことなく通り過ぎた。そのまま僅かなりとも歩みを緩めることもなく去っていってしまった。

 その時の螢惑の深い失望を、何者が理解するだろう。父親にとって自分はまるで眼中に無く、他人以上に他人であり、ともすれば『他人』という認識すら無い存在なのだと、どんな言葉よりも雄弁に思い知らされたのだ。実の父親に命を狙われる悲しみや痛みの感覚はもう麻痺してしまったけれど、あの日のことは冷たい棘となって螢惑の胸に深く突き刺さり、今も鋭い痛みを訴える。血の絆に期待をしてはいけない。それは父親が螢惑に唯一教えてくれた人生訓だ。父親の顔で無感情に攻撃してくる宝物庫の番人の目は、その絶望感を生々しく蘇らせた。

「どうして? 俺のこと殺したいくらいに邪魔なんでしょ。なのに、どうして俺が解らないの?」

 ずっと言えなかった言葉。声に出来なくて、心の中で叫んだ言葉を、螢惑は叫んでいた。勿論、宝物庫の番人は答えない。螢惑がその姿に父親を幻視しているだけで、彼はその問いを受け取るべき者ではないのだから。

 不意に背中が壁に当たった。螢惑は息を呑んだ。いつの間にこんなに追い詰められていたのか。宝物庫の番人は攻撃の手を緩めることなく迫った。

「螢惑!」

 己の名を叫ぶ声。同時に甲高い金属音が鳴り響き、螢惑の眼前に見慣れた背中が出現した。青い衣。銀色の髪。螢惑の異母兄の容姿をその身に写した水伯の侍従が、両手の二刀で宝物庫の番人の斬撃を受け止めていた。受けた刀を押し返し、跳ね除ける。弾かれた番人は自ら跳び退って体勢を整えた。水伯の侍従も双刀を構える。両者は息もつかずに斬り合いを始めた。

「シン…レ…」

 無意識に辰伶の名が口からこぼれ出た。水伯の侍従が手にしている2振りの刀は刃が大きく歪曲した独特なもので、それは辰伶が自ら考案した彼特有の得物である。確か名前を『舞曲水』といったと、螢惑は記憶している。それを操る水伯の侍従は、姿も技量も螢惑が覚えている辰伶そのものだ。

 辰伶が戦っている。螢惑を守る為に、実の父親と剣を交えて殺し合いをしている。

「辰伶…違う…」

 呆然と呟きが漏れた。こんなものを期待していたのだろうか。水伯の侍従や宝物庫の番人の姿を作っているのが己の心象であるというなら、この死闘を具象化したのも己の心なのか。親子で傷つけ合い、血を流し合い、殺し合う。自分が父親に命を脅かされ続けたように、異母兄たる辰伶も平等に同じ目に遭えば良いとでもいうのか。或いは、仇である父親が手塩にかけて育てた正統な息子に殺されてしまえば面白いなどと、そんな姑息なことを思っていたとでもいうのだろうか。

 顔色1つ変えずに「辰伶」は「父親」を追い詰めていく。

「もういい! 違うから! 俺はこんなこと、望んでいない!」

 堪らず叫んでいた。しかし、微々たる無駄も一切の迷いも水伯の侍従にはなかった。容赦なく刀を振るい、宝物庫の番人を仕留めた。

「辰伶!」

 衣に返り血を浴びて水伯の侍従は螢惑を振り返った。足元に転がる宝物庫の番人には目もくれない。それは冷たい光景だった。面白いことなど、何1つありはしない。ただ冷たく、螢惑の胸は鈍く痛んだ。

 間違えてはいけないと、螢惑は自分に言い聞かせる。これは辰伶ではない。倒れているのも父親ではない。それぞれ『水伯の侍従』や『宝物庫の番人』という“役割”だけが存在の全てである彼らの死は生物のそれとは違う。感傷的になる必要はないのだ。そう言い聞かせながら、螢惑は水伯の侍従に手を差し伸べる。彼の手を取り、そっと引き寄せて、彼の体ごとその胸に抱き締めた。辰伶の魂を抱き締めるように。

 応えて水伯の侍従も螢惑の背を抱き返し、ややもして、そっとその身を離した。途端に何故か辰伶の存在がとても遠くなってしまったように感じた。ずっと近くに感じていた辰伶の存在感が、今では微塵も感じられない。奇妙な喪失感だった。

「……」

 水伯の侍従が、無言で螢惑を促した。

「え? 何?」

 意図が掴めずにいると、水伯の侍従は螢惑の手をとって走り出した。引かれるままに螢惑も走る。どうやらこの神域の外へ出る道を案内してくれているらしい。これだけの騒ぎを起こしたのだ。一刻も早くこの場を立ち去るべきと、螢惑も判断した。

 宝物庫から遠ざかるにつれて通路は次第に暗くなり、やがて闇になった。その中を水伯の侍従は苦もなく駆ける。手を引かれている螢惑も、彼を信じて躊躇無く闇を疾走する。

 闇がやや薄くなったかと思ううちに、いつしか薄明の中にいた。仄明るい空間の中心で水伯の侍従は人さし指を高く掲げて頭上を指し示した。上を見ろということか。見上げると遥かに高い天井で蒼い光がゆらゆらと絶え間なく揺らめいていた。湖底から見上げる水面のようだ。その向こうは、おそらく結界の外だ。

「あ、待って。俺の刀」

 出口を目前に、螢惑は重要なことを思い出した。刀を置いては行けない。しかし水伯の侍従は首を横に振った。

「でも…」

 再度首を横に振った水伯の侍従は、包み込むように両腕を螢惑の体に回し、そのまま天井へ飛翔した。その姿は水のように透き通り、形は竜に変化していた。

 あっという間に螢惑は水の中にいた。不思議なことに呼吸は苦しくない。水は守るように優しく包みながら、激流の速さで螢惑を運んだ。蒼く揺れる水面が忽ち近づいた。


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