+・+ ほたる×辰伶布教計画10 +・+
水恋鳥
-7-
目を開けた螢惑は、それまで自分が意識を失っていたことに驚いた。うつ伏せていた体を起こして座り込む。そこは渓流の真ん中に鎮座する大岩の上で、荒々しく分断された流水が左右でうねりを上げていた。聳え立つ崖に挟まれた空は晴れ、岩も土も木々の葉も、そこかしこが濡れ光って束の間の雨上がりに息吹いていた。
どのようにしてここに至り、どれくらいこうしていたかも判らない。水伯の侍従が変化した水竜に運ばれて結界を抜けたことは克明に覚えているのに、それから如何様にして意識を途切れさせたのか記憶が無かった。それでも水伯の神域での出来事自体が夢ではなかった証に、先代紅の王との戦いで負った怪我は水伯の侍従の手当てを受けてほぼ治癒している。
ふと、螢惑は自分が何かを握り締めているのに気付いた。見るとそれは人型に折られた白い紙だった。握りこまれて潰れてしまっている。意味ありげなそれが何か解らず、ぼんやりと紙の皺をさすって伸ばした。人型の喉にあたる部分に小さく焼け焦げた穴が開いているのに気付いた。
「これって、もしかして…」
直感的に螢惑は理解した。この人型が水伯の侍従の本体だ。結界である水伯の神域を出た為に呪術が解けたのだろうか。その瞬間に水竜が消えて、螢惑はこの急流に投げ出され、意識を失って、流されて、この岩の上に…?
それは考えにくいことだ。如何に螢惑とて意識の無いままに激流に呑まれたなら、この大岩にぶつかり全身を砕かれていただろう。体力は消耗していないし、水も飲んでいないから、溺れてはいない。水伯の侍従は螢惑をこの場まで安全に運び終えて、そして力尽きたのだ。彼はもうこの世にもあの世にも存在しない。今やただの紙切れと化した本体を晒して、無に還った。それを死と呼ぶかどうか知らない。
螢惑は人型に残る焼け焦げの意味を考えた。螢惑の名は火の性が強過ぎて呼べぬと、水伯の侍従は言っていた。仕方がないので、自分の本当の名前を教えたのだった。もう誰も知る人の無くなった「ほたる」という名前。火の性を持ちながら水の縁者である虫と同じ。
「なのに、どうしてあの時、お前は俺のこと『ほたる』じゃなく『螢惑』と呼んだの?」
宝物庫の番人に追い詰められたその時に聞こえた声は、確かに「螢惑」の名前を呼んでいた。螢惑の名を叫び、宝物庫の番人に戦いを挑んだ水伯の侍従は、螢惑がよく知る辰伶そのものだった。背格好、容貌は元よりその身のこなし。辰伶の武器。辰伶の能力。辰伶の技。寸分違わぬ辰伶の戦い振りを見せられて、いつしか螢惑も彼を「辰伶」と呼んでいた。あれは螢惑の記憶が見せた幻像か、それとも願望による妄想か、それとも…?
「…何を期待してるの? バカじゃないの…」
あの場に本物の辰伶が居た筈がないではないか。そんなことを、チラリとも考えてしまう自分を忌々しく思う。本物の辰伶であれば、螢惑の名の持つ強い火の性に喉を焼かれたりなどしない。紙の人型に焼け焦げた痕を残すこともなかっただろう。
水伯の本体であった紙人形を丁寧に開くと、銀色の髪が一筋入っていた。こんなことだろうと思ったのだ。術に辰伶の髪が使われていたから、水伯の侍従が辰伶そっくりに視えた。ただ、それだけのことだったのだ。
父親に血の絆を完全否定されたにも関わらず、その父親の息子である異母兄に何かを期待し続けている自分が酷く滑稽だった。期待するのは、弱いからだ。辰伶に拘っていたら、自分は強くなれない。
「いつになったら、俺はケリつけられるんだろう…」
どのような形の決着を望んでいるのか、それすら解らないまま、辰伶に触れたいと冀う想いだけが螢惑の心を疼かせ掻き乱す。幾ら炎を操る能力があろうとも、情念の炎は制御できはしないのだ。いっそのこと水が欲しい。想いの火を消し止める水が、もしもあるのなら。
ヒルルルル…
鳥の鳴き声に気を取られた。その隙にゆるく風が起こり、1筋の銀髪はふわりと飛んだ。風に攫われたそれを、螢惑は川の流れに見失った。ふと、無意識にそれを追うように伸ばしかけていた手に気付き、所在無く引っ込めると胸元で掌を握り込んだ。
「弱さはいらない。俺は独りで強くなる」
残った皺だらけの紙も手放して水に投じた。それが波間に消えたのを見届けると、刀を手にして立ち上がった。
ふと、当たり前に手にしたこの刀が、水伯の神域である水の底に置いて来てしまったものであることに気付いた。何故これがここにあるのか、螢惑にはさっぱり解らなかった。
真っ二つに割れた水盤から水が零れ落ちていく。その様子を、辰伶は肩で息をしながら視凝めていた。無茶な使い方をして、家宝の1つを壊してしまった。
「さて、今夜は先祖が何人夢枕に立つことやら」
冗談めかして呟く。後悔はしていなかった。これから先も旅を続ける螢惑には絶対に刀が必要だ。だから、とほみの水盤を介して水竜を操り、彼の刀を探し出して届けた。そんな無茶な術を行使したために水盤は割れてしまったが、異母弟の為なら惜しいとは思わない。否、螢惑の姿を見られなくなるのは少し残念だった。
「この件も含めて、確実に父上は恨み言を言いに出てくるだろうな」
何しろ辰伶は、父親の姿をした何者かを、躊躇せずその手に掛けてしまったのだから。本物の父親でなくても本質は同じ。そして実際に刃を交えた者、精神遊離した辰伶が仮宿とした何者かも、本質的に自分と同じものであったのだと、辰伶は理解していた。あの肉体を操って戦ったのは自分の意思に間違いなく、結果として己は父親を殺したも同然なのだ。
「…まあ、例え本物であっても結果は同じか」
冷酷な息子だと、辰伶は己が身を客観して思う。当然だ。自分はあの父親の息子なのだからと、辰伶は瞳を伏せた。実の息子である螢惑に刺客を差し向けたことに、かねてから義憤を抱いていたというのもあるが、それよりも、もっと個人的な復讐心を満足させたことを否めない。幼い頃から幾度も幾度も、辰伶の心は父親によって殺され続けてきた。その仕返しをしたに過ぎないのだ。親が子を殺すなら、子が親を殺して何が悪い。これは報いだと、辰伶は亡き父を痛責した。
肉親の情など、辰伶は信じていない。血の絆に何の意味もないことは、父親の行為を見れば明らかだ。世間一般はまた違うのかもしれないが、少なくとも、自分に流れる一門の血は肉親の情が欠落しているのだと辰伶は思っている。
だから辰伶は螢惑に異母兄弟の名乗りをあげなかったし、これからもその気はない。刺客を差し止めた。五曜星に推した。そして、同じ父親の血を引く者として彼にもその権利があると思い、辰伶は己の幣髪箱に、かつて螢惑が焦がして切り落としてしまった彼の髪を、自分の髪と一緒に入れて、水の神に奉納した。それで、兄としての義理は果たしたと思っている。
後は、彼の行く末を見届けること。それだけが肉親としての義務だと思っていた。そう思っていたはずなのに、自分さえも気付かなかった本心を、とほみの水盤に暴かれてしまった。水盤の術で他人の体に潜り込み、螢惑の世話をした時に感じた充足感は、忘れがたい記憶として辰伶の心に刻まれている。ずっとそうしたいと思っていたのだ。螢惑の為に何かしたいと、何でもいいから何かしてやりたいと思っていた。信じないと心に決めた血の絆を、螢惑なら期待できるかもしれないと、無意識に信じていたのだ。
「…愚かだ」
呟きが、割れた水盤の上に零れ落ちた。兄弟の名乗りを上げるつもりもないくせに勝手に期待ばかりして、螢惑には迷惑な話だろう。期待とは、即ち甘えだ。血の絆を信じていないくせに、甘えている。
水の神の祭殿を出ると、雨は止んでいた。ふと、彼方の木の枝に、全身が炎のように赤い鳥が留まっていた。
螢惑の世話をしていた者に対する灼けつくような嫉妬も、今はもう無い。しかしそれは螢惑への恋情が辰伶から消えたからではない。あれは自分と同質のものだったと理解したからだ。螢惑の為だけに存在した、もう1人の自分。
灼けつくような、螢惑への想い。血の絆への期待が捻じ曲がって、恋情にまで成り果てたのか。それとも、この恋情があったからこそ、螢惑に絆を期待し続けてしまうのか。どちらにしても既に遅く、背徳の想いは今この瞬間さえも辰伶の心を焦がす。
いつかこの罪に耐えられなくなったら、あの鳥のように、この身を炎で焼き尽くして欲しいと思う。それが螢惑の炎であればいいと冀う。
それこそ絵空事だと、辰伶は自嘲した。己は「無明歳刑流の辰伶」だ。例え心を殺しても、恋に身を捨てたりはしない。少し感傷的な気分に浸ってみただけのこと。
ヒルルルルル…
特徴的な鳴き声をあげて森の深淵へと飛び去った鳥を、その姿が見えなくなっても辰伶は視凝め続けた。
終わり
予定外に長期間に渡ってしまった連載でしたが、最後まで読んで下さってありがとうございました。余談ですが、その後原作の通りに時は流れ、2人は兄弟対決を経て兄弟の絆を確かめ合うことになります。でも、2人が結ばれるのはそれから更に3年(以上)後、壬生の郷を旅立った螢惑が帰郷してからです。兄弟の絆を確認できたことで満足してしまった辰伶が、やっぱりこれって恋じゃなかったのかも〜なんて思ってしまったのが主な原因となり、簡単には恋愛成就しないのでした。
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