+・+ ほたる×辰伶布教計画10 +・+

水恋鳥

-5-


 ガクンと床が抜けるような衝撃を感じて辰伶の意識は戻った。

「ああ、また…」

 肉体の感覚を確かめるように両の掌をゆっくり握り、同じ速さで開く。徐に顔を上げて自分しか居ないはずの私室を虚ろに見回し、やり切れない思いを溜息と共に吐き出した。

 うたた寝していたのではない。辰伶の精神は肉体を離れ、遥かに空間を越えていたのだ。いったい何千里を跳び越えたのか解らない。そこが何処なのかも知らない。精神が抜け出る感覚すら無く一瞬にして風景が切り替わり、気付くと螢惑の傍らに居るのだ。この精神遊離は辰伶の意思で行っているのではないので全く制御できない。とほみの水盤を用いた術を行使した日から、辰伶は度々このような現象に見舞われていた。

「こうも頻繁に抜け出るようでは、さすがにまずいだろうな…」

 現象は突然で前触れ無く起こる。その間は己の肉体がどうなっているか知る由も無いが、想像するだに碌な状態ではあるまい。完全に無防備だろうから、そんな処を攻撃されたら堪ったものではない。任務中でないにしても、締まり無くアホ面さらしていようものなら大恥だ。無明歳刑流の名にも傷が付こう。間違っても人目に晒す訳にはいかないので、最近は私邸の自室に引き篭もりがちな日々を送っている。

 窓枠に凭れながら見る外の景色は陰鬱な雨模様で、湿った空気が彼の心を益々物憂くした。このままではいけない。それは解っているが、辰伶は解決に向かって動き出せないでいた。否、積極的に動こうとはしなかった。

 厄介な現象だが、辰伶はこれを密かに待望しつつある。肉体を離れた辰伶の精神は、何処の誰かは知らないが螢惑の世話をしている人物の中に入り込み、その目を通して、その者となってその場に在るかのごとくに、螢惑の姿を見ることができた。自分の意思で動けないし、声も音も聞こえなかったが、螢惑に付き添い、世話をすることができるのが嬉しかった。

 本心がそれであるものだから、このままではいけないと解っていながら、終わらせることができないでいた。壬生の郷にいつ戻れるか解らない螢惑の処遇を思うと、もう少しだけ、せめて彼の怪我が治るまでと、解決を先延ばしにしてしまうのだ。

 螢惑の為に食事を運ぶ。薬湯を手渡す。傷に布を当てる。汗ばんだ背中を拭く。こんな小さなことが染み入るように嬉しい。螢惑の為に何かをしてやりたいと、ずっと昔から思っていた。日陰に追いやられた異母弟に対する負い目かもしれないが、それなら父親に進言して螢惑への刺客を差し止めたことと、五曜星入隊試験の受験資格を手配したことで清算したつもりだ。それでもまだ螢惑に拘り続けるのは、彼の光り輝くような魅力に惹かれてやまないからだ。

 この感情が何なのか、もう辰伶には解っていた。

 螢惑が壬生の郷を出て行った日の出来事は、日が経つにつれて益々辰伶を混乱させ、深く悩ませた。求めてきた螢惑。それを受け入れようとした自分。思いもよらなかった生々しい情動と、それさえも手段に考える己の狡さに慄いた。こんなものは、半分とはいえ血の繋がった兄弟である漢に抱く感情では無い。しかし、最早これが恋情であることを否定できなかった。そう、螢惑に対する己の拘りは全て恋情の発露であったのだと、辰伶は気付いた。

 恋情と認めることに多少の戸惑いが無かったとはいわないが、認めたことでこれまでの螢惑に対する説明し難い感情の全てに納得がいって、逆に心が落ち着いたのは辰伶自身意外だった。どうやら己は周囲から評されるほどには自身を清浄一偏であると信じてなかったようだ。こんな背徳的な想いが芽吹く土壌も、それを許容する余地もあり、しかもそんな性情に薄々気付いていたようにも思う。

 それにしても、愛しい者の傍に気兼ねなく居られるというのは、何と幸福であることか。生まれた時から家門を背負う者として、言動から思考までも半ば拘束されて生きてきた辰伶は、己の望むままに行動することの心地の良さに、阿片のごとく酔いしれた。

 だが、阿片の齎す夢は毒でしかない。精神が肉体に戻れば、忽ち螢惑の居ない現実を見せられ、得られた幸福感の倍の質量の失意に打ちのめされる。現実には辰伶は遠く壬生の郷に在って、螢惑の傍に居るのは見も知らぬ他人だ。自分ではない者が彼の近くにいて、彼の信頼もしくは親愛を得ていると思うと、嵐の海のように憎悪が激しくうねりを上げた。どうしてそれが自分ではないのか。自分ではいけないのか。落胆し、失意に萎れた胸は寂しさと悲しさに痛んだ。

 現実の辛さがいや増すばかりと解っていても、この精神遊離を積極的に止めようとはしないのだから、全く中毒患者だ。このままでは遠からず自分の中の何かが壊れてしまうと、辰伶は危機感さえ抱いた。無明歳刑流の継承者たる己は、壬生を守り、壬生の為に尽くす使命がある。その為に存在しているのに、壊れるだなんて、そんな勝手なことは許されない。そう、己は「無明歳刑流の辰伶」なのだから。

 このままではいけない。(このままでいたい)
 もう見たくない。(ずっと見ていたい)
 どうにかしないと。(どうにでもなればいい)

 相反する心がつづら折に辰伶を悩ませ続ける。

(螢惑の怪我が治るまでだ。螢惑が無事に旅立つのを見届けるまで…)

 その時には、螢惑の傍に居る人物はどうするのだろう。螢惑に同行するのだろうか。その可能性は無いとは言えない。あの警戒心の強い螢惑が怪我の治療や食事の世話を許しているのだ。これまで辰伶は考えないようにしていたのだが、ひょっとしたら螢惑が生涯の伴侶にと選んだ相手かもしれない。

(いや、まさか… 螢惑が郷を出て行ったのが何日前だ。まさかこんな短期間にそんな相手が出来るなんてことはあるまい。いや、時間なんて関係ないともいうし…)

 まさかまさかと否定しつつも、彼らがそれらしい雰囲気になったことは、辰伶も数度目撃(体感)している。そう何度もは無かったし、それから所謂情人の行為に発展したこともなかったので、まだそうと決め付けるのは早いと思いながら、一方で螢惑が自分の知らない誰かを選んだとは信じたくないから、そうでない可能性は無いかと必死に探している気もしてしまう。

 精神が遊離して螢惑の相手の中に入っていると、宿主の感情が辰伶に流れ込んでくるのか、螢惑のことが愛しくて、愛しくて、愛しくて、身も心も捧げてしまいたくなる。もしもその状態で情人の行為が行われたなら、そもそも拒絶する術など無いのだがそれとは関係無しに、いつかの日のように身を委ねてしまうだろうと、辰伶は思う。彼と肌を合わせることに躊躇いが無いこともない。しかし拒否反応を起こすほどの嫌悪感がある訳でもない。どちらかといえば、許してもいいと思う。きっと最中は幸福感に満たされて夢中になるだろう。

 しかしそれは宿主である人物の体験だ。どれほど螢惑と濃密な時を過ごそうが、1つ残らず辰伶のものではない。現実に戻った直後から激しい嫉妬と絶望感に苛まれるだろうことは容易に想像が付く。すると、彼らの間に「何か」が有ったか無かったかはさておき、そういう場面に居合わせたことが無いというのは、少なからず幸運なのかもしれない。

 そして、辰伶の胸中には打算もある。辰伶が疑うように彼らが親密な関係で、彼らがこの先も道連れに行くなら、精神遊離の現象で螢惑の相手の中に入れば、螢惑と共に外の世界を旅する気分を味わうことができる。しかも恋人気取りで。兄弟の名乗りを上げる気はないが、それでも異母兄弟である螢惑と結ばれることなど無いのだ。どうせならば、少しくらいおこぼれに与っても構うまい…

「待て待て。さすがにそれは卑屈だ。恋愛のおこぼれ? 冗談ではないぞ…」

 常識と秩序を重んじる生来の真面目さと自尊心が、不意に辰伶の思考に水を差した。いきなり客観的に物事が見えるようになってしまい、直前までの己の醜態に怒りが込み上げてきた。

「弟の私生活を覗いて喜んでいるなんて、全く変態の所業ではないかっ!」

 変態は頂けない。業腹な妄想を踏みつけるように、辰伶は荒々しく立ち上がった。

 こんな不健全な行為は即刻止めなくては。原因は解っているのだ。正しい手順を踏まずに術を終わらせてしまったからこんなことになっているのだから、術をやり直してきちんと終わらせれば良い。

 水の神を祀る祭殿へ赴く為に屋敷を出た辰伶は、緩慢に降り続ける雨の中を傘もささずに歩いた。まるで愛しむように辰伶の全身に纏わりつく雨粒たちは、彼の身を濡らすことは遠慮して、その髪にも、肌にも、着衣にすら触れることなくさらりと地面に落ちていく。無明歳刑流の当主に対する水の眷属たちの親愛と敬意の表明を、辰伶は当然のように全身に浴びて、彼のみに許された禁域へと進んだ。


 懐かしい香りだと、螢惑は瞬時に思ったのだが、俄かにそれが何の香りか思い出せなかった。それと解らないくらい微かに、慎ましやかに漂うその香りは、螢惑の記憶を刺激し、心象に何かを訴える。目を閉じたまま、心の指でそれを掴もうとするが、形に成らないそれに触れることさえ叶わない。

 薄っすらと目を開けると、少し滲んだ視界には辰伶の姿があった。手を伸ばして、その髪に触れてみる。しなやかな銀糸が指の間を擦り抜けた。そうだ、これは辰伶の香りだ。彼の着物に焚き染められた香の匂い。

「起こしてしまったか」

 声をかけられて、螢惑の意識はハッと鮮明になった。どうやらうたた寝をしていたようだ。ゆっくり身を起こし、左右の肩を順に回して筋を伸ばすと完全に目が覚めた。

 目の前にいるのは、彼の異母兄ではなかった。辰伶の姿形をした別人。この神域の主である水伯の侍従だ。

「今度はどういう趣向なの?」

 うんざりした口調で指摘すると、水伯の侍従は僅かに眉を寄せた。

「何のことだ?」
「俺をからかうつもりか知らないけど、香まで辰伶と同じにするって何なの? 芸が細かいのは褒めてあげるけど」
「与り知らぬことを褒められても困る。この姿はお前が勝手に視ているものだと言っただろう。何か匂いがするというなら、それはお前の記憶が作っているのだ」
「でも、さっきまでは匂いなんてさせてなかった」
「そうは言っても、俺は当主殿の愛用の香など知らぬ。知っていたとて、水伯様の神域で香を焚くはずもない」
「でも…」

 予告無しに水伯の侍従の腕を掴み、力で引き寄せた。螢惑の無遠慮な行いにも眉1つ動かすことなく、人形のように倒れこんできた。その胸元に顔を埋めると、清しく優しい香りが螢惑を包んだ。やはり辰伶の香りだ。任務中で気配を断つ必要のある時には当然匂いなどさせないし、平時でも身嗜み程度であったから、辰伶とは諍う仲でいつも間に距離をおいていた螢惑は、ごく最近まで彼の着物の香に気付きもしなかった。気付いたのは、彼をその腕に掻き抱いて密着したからだ。あんな衝動的で切羽詰まった状況で、よくもそんなものに気付く余裕があったものだと思う。そして、ただ1度嗅いだだけで彼の香りを記憶していたことが、自分でも(自分だからこそ)信じられなかった。

「何でだろう。時々、お前が本当に辰伶に思える。外見の話じゃない。こうして…」

 辰伶の胸に抱かれるような気持ちで、螢惑は水伯の侍従の胸元に顔を埋めたまま瞳を閉じた。

「目を瞑るとよく解る。辰伶の気配を、お前から感じる。いつもじゃなくて、時々だけど。今がそう」

 心地よい温もりが、螢惑の心を溶かしていく。この温かさも、自分の記憶が作っているのだろうか。辰伶の香りに包まれながら、そんなことを思った。顔を上げると間近に辰伶の琥珀色の瞳があって、深く視凝め合う形になった。

「だから、余り俺の前で無防備にならない方がいいよ。本当に何するか、俺自身にも解らない」
「好きにしていいと言っているのに」
「よくないよ。多分、よくない。こういう俺の直感は絶対に正しい。あの時も…」

 壬生の郷を旅立った日の出来事を、螢惑は脳裏に浮かべた。

「このまま辰伶を抱いてはいけないって、直感が働いたんだ。だから、あれで正解だったんだよ。…もったいないことしたなあって思うけどね」

 螢惑は目を伏せて、左右の手を水伯の侍従の両肩に置いてそっと押した。螢惑の腕の長さの分だけ、2人の間に空間が出来た。

「俺は…まだ辰伶に異母兄弟としての何かを期待しているのかもしれない…」

 苦々しそうに顔を歪めた。感情表現の乏しい螢惑には珍しく率直な変化だ。声も次第に苦渋の色が滲んでゆく。

「辰伶から何が欲しいのか、どうして欲しいのか解らないけど、この拘りがある限り、あいつと異母兄弟であることをやめられないんだ。この気持ちにケリを付けないと、何処にも進めない。辰伶の手を取ることも、辰伶から遠く離れることも出来ない。辰伶を縛ってる鎖が、俺の足にまで絡みついてるみたいで、本当、ウザ過ぎる」

 障害物か、或いは重荷であるかのように、螢惑は自らの心を持て余していた。辰伶は、螢惑がとっくに捨てたと思っていた肉親への情を揺り動かす。異母兄が辰伶でなければ、無視するだけで済んだ。辰伶が異母兄でなければ、この手に奪うだけだった。異母兄弟というだけで、単純な話が途端に複雑になってしまう。こんなのは、彼の望む生き方とは全然違った。もっと自由な魂が自分の中に眠っていることを、螢惑は自覚していた。それ故に辰伶のことを考えると苛立ち、時には強い憎しみとなる。

「俺まで壬生に縛られてる気になるよ。あいつの存在自体が、俺の生き方を否定してるみたいでムカつく。面倒だし苛々するから、もう辰伶のことなんて考えたくないのに、気がつくと辰伶のことばかり考えてる。俺の心は俺だけのものなのに、どうして俺の思い通りにならないの?」
「人の心のことは、人でない俺には解らん」
「その方がいいよ。人でないお前相手だから、俺もこんな話ができるのかもね」

 少し違うと、螢惑は自分で言いながら思った。相手が辰伶ではない辰伶だから話せるのだ。辰伶に言いたいという気持ちと、辰伶に知られたくないという気持ち。相反する欲求を矛盾なく叶えられる稀有な存在だから。

「だが、お前が苦しんでいることは解る」
「そういうところは、解られたくないなあ」
「だから、お前に見せたいものがある」
「へえ、何?」

 水伯の侍従は珍しく言い淀んだ。逡巡している様子が、螢惑にもはっきり解った。

「思わせぶりだね。そんなにスゴイものなの?」
「いや…大したものではない。ただ、禁を犯すことになるから、どうして俺はそんなことがしたいのか理解できなくて、戸惑っている」

 禁を犯すことが大したことでないはずがないが、水伯の侍従は飽くまで淡々としていた。侍従たる者が主の怒りに触れれば相応の罰を受けるだろう。彼の存在そのものを危うくしかねないというのに、それに対する恐れは無いようだった。ただ、己の中に生まれた衝動が理解できずに首を傾げているのだ。そんな彼は確かに人ではなく、それ以外の命あるもの全てとも異なる存在なのだと、螢惑は実感した。やはりこれは辰伶とは違う。それでも辰伶の存在感を彷彿とさせるのだから不思議だった。

「水伯様の侍従たる俺には、水伯様の意思のみが行動原理だ。それを超えるものなどないはずなのに、どうして…」
「無理しなくていいよ。何か…ヤバイ感じがする」
「ほたる」

 水伯の侍従は口元を綻ばせた。

「どうしてこんなに、お前が愛しいのだろう」

 まるで壊れ物を扱うかのように、水伯の侍従の指が螢惑の頬を柔らかく撫でた。しなやかに整えられた長くて白い指。辰伶の手が愛情に溢れた仕草で触れるてくる情景が、非現実的な夢のように果敢なく見えて、螢惑は切なく胸を締め付けられた。

「お前を恋うる者の魂が俺の内部に宿って、俺を突き動かしているのではないかと思ってしまう。お前のことが愛しくて、愛しくて、愛しくて、身も心も捧げてしまいたくなる」

 水伯の侍従は螢惑を促して立ち上がった。

「ついて来い」

 誘われるままに、螢惑は無言でその背中に付き従った。水伯の侍従が案内する先にあるものへの興味と、拭いきれない不安が落ち着かない気分にさせる。

「何があるのか、聞いちゃダメ?」

 訊ねる声も、何となく小さく潜めてしまう。水伯の侍従は少し振り返り、微笑んでみせた。

「この先に、水伯様の宝物庫がある。そこには無明歳刑流の歴代の当主たちの幣髪箱が納められている」
「そういえば前にそんなこと言ってたね。幣髪箱って何?」
「髪を入れる箱だ。無明歳刑流の当主は、水伯様に髪を献納するのが慣わしだ。箱の大きさや形は決まっているが、材質や装飾はそれを設えた当主たちの趣味や性格が反映されている。どれも水伯様の宝物庫に納めるに相応しく美しい品だ」
「歴代ってことは、辰伶のもあるってことだね。でも、だからそれが何? あいつがどんな箱を設えようが、俺には関係ない。美術品とか全然興味無いし」
「残念なことだ。かの家の者たちは美に対する感性に優れているから、逸品揃いだというのに。それはともかく、箱に興味ないとしても、その中にあるのは本物の当主殿の御髪だぞ。お前が俺の姿に映し見ている幻とは違う。本物だ」
「……」

 本物だと、水伯の侍従は2度繰り返した。今は遠く壬生の郷に在り、もう触れることは叶わないかもしれない辰伶の髪がそこにある。螢惑の心は揺れた。

 不意に水伯の侍従は足を止めた。気付くのに遅れた螢惑は彼の背中にぶつかってしまった。

「ここで少し待っていてくれ」
「いいけど、少しってどれくらい?」
「宝物庫の番人を追い払っておくから、ゆっくり30も数えたら、通路をこのまま真っ直ぐ進んで、突き当りの扉の中に入れ。幣髪箱は古い物から順に奥にしまわれているから、1番手前が1番新しい、現当主殿の箱だ」
「解った」
「それから、箱を開けて見るのは構わんが、中に入っている髪に触れてはならんぞ。それだけは心しておいてくれ」

 そう言い置いて水伯の侍従は先に進み、やがてその姿は通路の奥の暗がりの中へ消えた。螢惑はその場でゆっくり30数え終わると指示通りに進み、現れた扉を開けて中に入った。

 番人が置かれているくらいだから、宝物庫は禁域中の禁域だろう。さすがの螢惑も神経を少し緊張させたが、中には誰も居なかった。どうやら水伯の侍従は上手く番人を追い払うことに成功したようだ。

 1番手前の箱。それはすぐに判った。手を伸ばして、指先が箱に触れる寸前で躊躇う。それも一瞬のことで、螢惑は箱を手に取った。これが辰伶の幣髪箱。この中に辰伶の、あの美しい白銀の髪が納められている。

 漆塗りの黒い箱には金や銀で草花の文様が装飾されていた。それが何という技法によるものか螢惑は知らない。細工が綺麗なので、技術的に優れた物であることは解った。美術的なことは解らない。きっと高価なものだろうと思うが、それだけだ。文様の花の名前さえ、螢惑は知らない。興味が無いのだ。螢惑に必要だったのは、それが有害か無害かという知識であって、名前ではない。

 その文様の草花が秋に見られるものであることなら、螢惑は知っている。四季の中で秋が1番好きだと、かつて辰伶は言った。いがみ合っていた自分達にも、そんな普通な話をする余地があったことは意外に思っていいかもしれない。

 螢惑も秋は嫌いではない。季候が良く、食料も豊富で過ごし易いからだ。しかし秋の後ろには、すぐに厳しい冬が控えている。厳寒と飢餓しかない冬。如何に冬を越すかというのは螢惑にとって大きな課題で、判断を間違えば即ち死に繋がるシビアな問題だ。その冬を無事に乗り切って巡り合える春こそを、螢惑は最も愛し切望する。

 辛いばかりの冬景色。螢惑が生死に思いを馳せている隣で、何もかも雪に埋め尽くされた白い風景が綺麗だと、辰伶が言ったときは殺意さえ覚えたものだった。あの漢はいつもそうだ。生きることだけに必死な螢惑に、そんな現実から取っ外れた余裕を見せ付ける。彼にその自覚は一切ないと判っているが、無意識だから憎いのだ。それは血を分けた兄弟である螢惑と辰伶の境遇の差、そのものだから。

 螢惑には理解できぬものを、価値あるものとして辰伶は賞賛する。同じ物を見ても、思うことはまるで違う。花を見れば、辰伶なら綺麗と言うだろう。螢惑は、それは実を付けるだろうかと思う。毒があるか、無いか。食べられるか、否か。

 大体、辰伶の「おもしろい」は螢惑の「つまらない」だし、螢惑の「おもしろい」は辰伶には「くだらない」のだ。普段話す言葉さえも、同じ発音の別の言語のようだ。他人以上に同感や共感に乏しい異母兄など関わらねば良いと、螢惑は自分に何度言い聞かせたことか。その度に、言い聞かせること自体が辰伶に拘っている証拠であることに気付いて舌打ちするのだ。

 もしも辰伶を自分のものにできたら、この拘りから解放されるだろうか。彼の身を攫ったなら、彼の心を手に入れたなら、彼の未来を奪えたなら…

 卒然として螢惑は我に返った。つい物思いに沈んでしまったが、ここは水伯の宝物庫で、禁域中の禁域だ。のんびりするべきではない。手にしたまま眺めるだけでいた幣髪箱の蓋を矢庭に開けて、その中を見た。螢惑は大きく目を瞠った。

「これ…って…」

 箱の中には紐で束ねられた銀色の髪が1房と、それに寄り添うように金色の髪が1房並んでいた。銀色の髪は辰伶のものだ。それとは明らかに色の違うもう1房を、螢惑は思わず掴み出して握り締めた。

「これは…誰の髪の毛なの!? 何で辰伶の髪と一緒に入ってるの!?」

 その金色の髪の主に、螢惑は全く心当たりが無かった。聞き及ぶ限り水伯へ髪を献納することは無明歳刑流の当主にとって重要な儀式だ。その幣髪箱に一緒に髪を入れるなんて、その者は辰伶にとって特別な人物に違いない。

「辰伶の師の人の髪とは全然違うし、村正の髪に似てるみたいだけど違う。もしかして……許婚とか居たりするとか?」

 忽ち頭に血が上り、胸に嫉妬の炎が燃え広がった。辰伶が特別に想う相手。そんな人物の存在など、螢惑は噂にも聞いたことがなかった。そんな相手が辰伶にいたことよりも、それに全く気付かなかったことに腹が立ってしょうがない。自分の知らない辰伶がいることが、何よりも許せないのだ。理不尽な怒りに任せて、螢惑はその手に握り締めたまま金色の髪の束に火をつけた。髪は一瞬で塵と化した。

 文字通り嫉妬の炎で金色の髪を焼き払った直後に、螢惑は殺気を感じた。背後からだ。首筋を冷たい風が掠めるような感覚は、幼い頃に散々味わったことがある。螢惑の命を狙う刺客たちがこんな気配を発していた。咄嗟に身を屈めると、それまで螢惑の首があった空間を銀閃が断ち切った。振り返る無駄はせずに、間髪いれずに襲い来る凶刃を気配のみでかわして、刺客から距離をとる。刺客の正体も螢惑を襲う理由も見当が付く。宝物庫の番人だろう。幣髪箱の中身には手を付けるなと、水伯の侍従の忠告していたことを思い出したが、今更遅い。

 螢惑は舌打ちしたい気分だった。刀を置いてきてしまったのだ。炎を召喚して迎え撃つことは可能だが、あまり大事にしてしまっては、螢惑を匿った水伯の侍従の立場が苦しいものになるだろう。水伯の侍従には借りがある。本来の彼の気質ではないが、正面きって戦うのは避けて逃げることにした。

 良心的且つ平和的な解決方法を螢惑が選んだにも関わらず、宝物庫の番人は闖入者を排除すべく出口の扉の前に立ちはだかっていた。戦闘は避けられないと早々に悟った螢惑は、宝物庫の番人に正面から対峙した。そして番人のその容姿を見て、驚愕に立ち竦んだ。


 術を終わらせる為に水の神の祭殿に赴いた辰伶は、とほみの水盤に映し出された光景を前にして、驚愕に思考力を奪われていた。螢惑が何者かに襲撃されている。襲撃者のその顔は、辰伶のよく知る人物だった。しかし、その人物がその場に存在するはずがない。辰伶は夢でも見ているのかと、己の正気を疑った。

「何故、父上が…?」

 何年も前に病で死んだ己の父親が、遠い地に在る己の異母弟に白刃を振りかざしている。静謐な水鏡の向こう側で、白刃は銀色の不吉な光を閃かせた。


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