+・+ ほたる×辰伶布教計画10 +・+
水恋鳥
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壬生の郷において実戦部隊を指揮する5人の幹部。五曜星と呼ばれるその1人で、水曜を司る辰伶は、しかしこの日は火曜の隊の詰める火曜舎に、その身を置いていた。火曜の隊は、隊を指揮する立場にあった螢惑が無期限で壬生の郷を離れることとなった為、現在は一時的に、五曜星の長である金曜の太白の預かりとなっている。螢惑が戻るまでは、火曜の隊を監督する責任は太白にあるが、五曜星の長である彼は多忙である為、実地では辰伶が務めていた。言わば代理の代理だ。
「もうっ、辰伶ったら、こんな所に居ましたの。捜しましたわよ」
多分に八つ当たりの気を含む声で名を呼ばれ、辰伶は視線だけを廻らせて相手を見た。聞きなれたその声は、見て確認するまでもなく同輩たる五曜星の歳子だ。
「兵の訓練なんてしてますの?相変わらず真面目ですのね」
「五曜星たる者としての当然の義務だ。貴様とて同じ立場だろう」
「歳子ちゃんのトコの子たちは、みんなイイ子ですもの。汗臭く訓練なんてしなくても、ちゃんと言うこときいてくれますわ」
邪心の欠片も無いような歳子の笑顔が、辰伶には如何にも胡乱なものに見えてならない。我侭で身勝手な気性の歳子に隊が纏められるはずはなく、面倒になった彼女は与えられた人員を全てクビにして、代わりに得意とする蘇生術で死人を甦らせ、己の意のままに操ることのできる死人のみで隊を構成してしまったのだ。
手っ取り早く、手軽で、手前勝手な解決の仕方だが、これもまた彼女の能力である。相互不干渉を謳う五曜星の1人として、辰伶は彼女の裁量を否定するつもりは無い。しかし、解雇されて溢れた人員は、急遽、他の隊に振り分けられることとなり、突然に膨れ上がった隊の組織や命令系統を編成し直すのに多大な苦労を強いられたことは、苦々しい記憶として辰伶に残っている。
「しかも他所の隊の面倒までみちゃうなんて、信じられない。何の得にもならないじゃないですか」
「任務を損得で語るな」
「それでお給料を貰ってる以上は、損得抜きはおかしいです」
この世には、生まれながらに自分とは価値観の違う者がいて、決して解かり合える日は来ないのだということを、これまで辰伶は2人の人物を通して散々に学ばされた。その1人は螢惑。そしてもう1人がこの歳子だ。だからこれ以上この話題を続けるのは時間の無駄であるという答えに、早々に行き着くことができた。
「俺を捜したそうだが、何の用だ」
「そうそう、忘れてました。報告書を書くのを、手伝って欲しいんです」
辰伶は深い溜息をついた。何が相互不干渉の五曜星だ…
「何故、俺が貴様の面倒をみなければならん。貴様の言葉を借りるなら、そんなことをして何の得になる」
「お仕事は損得じゃないんでしょ」
「俺の仕事じゃない」
「いじわる。螢惑の報告書は手伝ってあげてたくせに」
「それはあいつがデタラメ過ぎて、五曜星の名に泥を塗りかねなかったからだ。貴様は単に楽がしたいだけだろう」
「本当に困ってますのよ。再提出って言われたけど、どこが不備なのか解からなくて、お手上げなんです。もう辰伶だけが頼みなんです。お願いしますわ」
「…見せてみろ」
結局、面倒をみてしまうのが、辰伶という人物である。そもそも正面切って頼まれると断れないし、押しにも弱い。五曜星は他にもいるというのに、螢惑が抜けた皺寄せが全部辰伶に押し寄せている不自然さからも、その一端を窺い知れる。
報告書を受け取った辰伶は、ざっと一瞥しただけで言った。
「形式がまるで違う。基本から不可だ。最初から書き直すしかないな」
「ひど〜い。大体、形式って何なんですの。報告の内容さえ解かればいいじゃないですか。無意味よ、無意味」
歳子は辰伶の手から報告書を奪い取ると、クシャクシャに丸めて捨ててしまった。
「辰伶は形式とか格式とか、得意だからいいですわよね」
それは否定はしない。壬生でも名門中の名門、無明歳刑流という伝統と格式に固められた家の当主でもある辰伶にとって、五曜星という官位に要求される形式など高が知れたものなのだ。大して複雑とも厳格とも思えない。だが、それは口にせず、歳子には普通に助言をした。
「形式や格式が心許ないなら、そういう事に明るい有能な者を選んで補佐してもらえばいいだろう」
「…それ、良い案ですわ!」
歳子の顔が、ぱっと輝いた。
「美人で、強くて、有能な死人を作って補佐を……ううん、面倒な仕事は全部、歳子の代わりにやって貰えばいいんですわ!」
結局、この女にはそれしか無いのか。もう呆れる気持ちも、辰伶には起こらなかった。それで彼女が五曜星の任務を全うできるというなら、壬生一族には何の損失も無い。要は壬生にとって有益であるか否かで、手段や方法は問題では無いのだ。それ故の相互不干渉だ。
「とびっきりの死人を作りますから、辰伶、その子に形式や格式を教えてあげて下さいね」
「ああ。了承した」
或いは、死人の方が歳子よりも余程マシに五曜星の任を務めるやもしれぬ。期待してというよりは、皮肉な心持ちでそんなことを思い、辰伶は僅かに笑みの形を唇に作った。
「しかし、その報告書については、当面のところ自力で何とかするしかないのでは?」
「あっ、そうだわ。辰伶、書き方を教えて下さい」
即座に返答するのを一瞬だけ躊躇い、少し考えてから辰伶は言った。
「…資料を俺の執務室に届けておけ。代わりに書いてやる」
「ホントですか。宜しくお願いしますわね」
嬉しそうに去っていく歳子を見送ることもなく、辰伶は聊か意地の悪いことを考えていた。辰伶は決して親切心から報告書の代筆を引き受けたのではない。教えるくらいなら、自分が書いてしまった方がずっと早いし、楽だからだ。やる気の無い者に教えてやるほどヒマではない。
やる気の無さでいえば、歳子よりも螢惑の方が余程酷かったが…
そんなことを思い出してしまう。螢惑という漢は任務を違えたことは無かったが、書類は未提出。会議や会合は遅刻か、さもなくば無断欠席。辰伶が何度注意をしても、その不真面目な態度を改めることはなかった。酷く手を焼かされたが、それも螢惑に言わせれば辰伶が勝手にしたこと。放っておけばいいと、何度鼻先であしらわれたことか。
「全く、人の気も知らないで…」
放ってなどおけない。何故なら、螢惑が五曜星の入隊試験を受けられるよう尽力したのは、他ならぬ辰伶なのだから。その為、五曜星としての螢惑の言動には、少なからず己に責任があると、辰伶は思っていた。
本来、氏素性のはっきりしない螢惑は、その試験を受ける資格が無かった。それを裏から各所に手を回し、試験を受けられるよう取り計らったのは辰伶だ。勿論、試験を受ける機会を与えただけで、試験の結果については何一つ不正を働きかけてはいない。螢惑は己の実力で試験に合格した。
辰伶が螢惑に肩入れするのは、世間には知られていないが彼が異母兄弟だからだ。螢惑自身も知らぬはずだ。知っていたら、あんなことは…
ハッと我に返る。いらぬことを思い出して、頬が熱くなってしまった。この分では赤くなっているかもしれない。誰かに見咎められでもしたら、不審に思われてしまう。問題となった思考を掻き消す為に慌てて首を振ったが、この行動の方が余程不審を誘うこと気付いて、今度はわざとらしく咳払いをしてしまう。
これはダメだと自分自身に諦めを感じて、辰伶は火曜舎を出た。訓練は隊の自主に任せてきたが、もともと終始立ち会っていなければならないものではない。
それにしても…と、歩きながら辰伶は思考を再開する。ひょっとしたら、螢惑は自分達が異母兄弟であることを知っているのではと、何度か疑ったことはあった。疑ったというのは少し語弊がある。そう感じたのだ。辰伶に対する螢惑の反発心は、血の繋がりに起因しているのではないか。即ち、母の仇の息子である辰伶を、螢惑は憎悪しているのではないかと思ったことがあった。
随分と己に都合の良い想像をしたものだと、辰伶は苦笑した。父親が原因であって、自分は何も悪くないのだと、つまりは責任転嫁をしたかったのだろう。己の性格や気質が、螢惑に嫌われているとは思いたくなかったのだ。省みて辰伶はそう判じた。
螢惑の生き様に、震えるほどの衝撃を受けたことを、辰伶は忘れない。忘れられないのだ。あれはある種の感動であり、感銘だった。彼はその行動も言葉も考え方も、余りにも自分と違っていて、眩いような憧れを抱くと同時に、小さな嫉妬がチリリと心を焼いた。その燠火のような感情が憎悪や嫌悪にならなかったかといえば、確かに負の感情に支配されることもあった。しかしそれは瞬間的、一時的な感情に過ぎず、冷静に見つめてみれば、螢惑の魅力に心惹かれる自分を否定できない。
彼の容姿にも強い魅力を感じていた。自分とは違う金色の髪。彼の髪は長く伸ばされ2本のお下げに結われていたのだが、日の光に透けて輝くそれはとても綺麗だと辰伶は思っていた。それなのに、螢惑は自身の魅力に全く頓着しない漢だった。或いは魅力と気付いてなかったのか。ある日、お下げの1本の毛先が変に縮れていたのでそれを指摘すると、螢惑は焚き火で焦がしたと言って、無造作に根元から切って捨ててしまった。その極端な行動に驚いて、辰伶は声も出なかったのだが、さもなくば大声で悲鳴をあげてしまっていただろう。本当に何ということをしてくれたのか。少し毛先を切るだけで済むものを、人の気も知らないで…
いつでもそうなのだ。辰伶が価値あると思うものを、螢惑は冷めた瞳で否定し、簡単に捨ててしまえるのだ。それが堪らなく悔しい。
螢惑に対しては、余りにも多くの感情が綯い交ぜになっていて、それを何と呼んでよいのか辰伶自身にも解からない。だが、嫌いではなかったと思う。心底憎んだことも無かったように思える。
心惹かれる。
目が放せない。
狂おしいほどに、執着してしまう。
考え事をしながら歩いているうちに、気付くと辰伶は螢惑と最後にまみえた川のほとりに辿り着いていた。突然の螢惑の行為に驚き、同じく唐突に突き放されて茫然と見送ってしまった彼の背中を思い出した。あの後姿が、自分が目にした螢惑の最後の姿になるのかもしれないと思い、辰伶は溜息をついた。
「もう、帰っては来ないかもしれないな…」
壬生の外の世界へと赴くこととなった螢惑を、人々は追放処分されたと見做した。辰伶も当初はそう思った。しかし、螢惑の後釜として新たに別の者が五曜星に選抜されることはなく、火曜の隊も解体されずにそのまま太白の預かりとされた事から、いずれは螢惑を赦して郷に呼び戻すつもりが先代紅の王にあると、辰伶は考えるようになった。
それでも螢惑が必ず郷に戻るという確信は無い。先代紅の王の意向とは関係無しに、当の螢惑の意思で郷に帰らないかもしれない。壬生一族であることに誇りを持っている辰伶とは違い、螢惑は同族意識が希薄で、王への忠誠心を欠き、生まれ故郷たる地への愛着も無い。自由を強く求める彼の魂は、郷を出た瞬間にその軽やかで強靭な翼を羽ばたかせて、遥か彼方の空へと飛び去ってしまうだろう。それが似合う漢だ。
思い立って辰伶は川縁から森の奥へと続く小径に入り、その先に進んだ。囲いや印こそ無いが、この辺りは無明歳刑流本家の私有地だ。奥深くには水の神を祀る祭殿があり、そこは当主のみが踏み入れることを許された禁域となっている。
厳かに閉じられた門扉を慣れた手で開き、辰伶は中へと進んでいった。ここへは当主の務めとして年に何度か祭礼に訪れている。略式で身を清め、向拝の階を上る。先ずは正面の祭壇に拝礼した。細々とした手順は、水の神に対する敬意の表明である。神域の主の機嫌を損ねてはならない。
水の神へ礼節を尽くし、ここで行う数々の振る舞いに許可を得た。実際に水の神が姿を現したり、声を発したりはしないが、約定でそう決まっているのだから、そういうものだと思うしかない。辰伶は水の神を見たことはなかったが、存在を疑ったことは無かった。己の水を操る能力こそが、水の神の存在の証と思っている。
祭殿の敷地には、水の神の座する本殿の他にも、祭礼に関わる幾つかの舎殿がある。辰伶はその1つに入った。石造りの冷やりと湿った舎中の中央には、透明な水盤が恭しく据えられ、すれすれに水が張られていた。瑕1つ無い水晶を切り出して造られたそれは『とほみ(遠見)の水盤』と呼ばれ、その名の通り遠方の光景を水鏡に映す。歳刑流本家の家宝の1つだ。それを前にして、辰伶は小さく呟いた。
「…螢惑」
外の世界に在る異母弟の様子を知りたい。辰伶は歳刑流の当主のみに伝えられる秘術を使うことにした。
ただし、対象が水の近くに在ることが、この術の絶対条件だ。その水も清澄であるほどに良く、濁った水では映像も濁ってしまう。しかしこの際は、多くは望まない。螢惑の傍らに、茶碗一杯の水でもあればと願う。うっすらとでも、顔くらいなら見えるだろう。
何度も使ったことのある術なので、手順に迷いは無い。辰伶はこの術で外の世界を、取り分け海を見るのが好きだった。しかし、特定の、どこに居るかも解からぬ人物を探すのは初めてなので少し緊張する。久しぶりに見られるはずの異母弟の姿を思って心が騒いだ。
術が成り、水面がまるで磨いた鏡のようになった。その真ん中に、辰伶が求めた姿が浮かび上がってきた。そこに注視すると、突然意識が吸い込まれるような感覚に襲われた。この術でこんな現象が起きたのは初めてのことで、辰伶は何事かと動揺した。しかし、一瞬後に広がった光景に、辰伶の意識は釘付けになった。鏡に映した平面的な映像でなく、螢惑本人が目の前にいたのだ。
螢惑は上掛けだか敷布だかに埋もれるようにして、床に座り込んでいた。咄嗟に名前を呼んだが、何故か声が出なかった。気付くと辰伶は椀の乗った膳を手にしていた。何だか解からないうちに、辰伶はそれを螢惑の前に据えていた。全く己の意思でなく体が動いていく。
漸く辰伶は気付いた。辰伶が見ているのは、螢惑の傍にいる人物の目が見ている光景なのだ。非常に稀なことだが、術に使っている水盤の水と、この人物の波長が、よほど近しいのだろう。いや、それだけではダメだ。それらと辰伶の波長も一致していなければ、こんな現象は不可能だ。
一体、何者だろう。水に深く関わる者であるのは間違いないはずだが、辰伶には心当たりが無かった。
それにしても…椀の中身を見る。粥と、それからこの濁った液体は薬湯だろうか。螢惑の為に用意されたと思われる食事の内容を見て、辰伶は心配になった。どこか体の調子でも悪いのだろうか。そういえば、螢惑は先代紅の王に打ち負かされて、重傷を負っていた。幾ら壬生の医療が優秀といっても、まだ治りきってはいないはずだ。そんな体で郷を出て行ったのだと思うと、胸が締め付けられた。
螢惑が何か言った。音声は全く聞こえないので、何を言ったのか解からない。しかしその素振りから、食事を断ったのだろうと想像がついた。この漢は他人から貰ったものは絶対に食べないのだ。螢惑が普段通りであることに、辰伶は小さな安堵を覚えた。
しかしこの人物もめげていないようで、螢惑の手に椀を持たせて、頻りに進めている。珍しく螢惑が困ったような顔をしていた。それを面白く思っていると、突然この人物は椀を攫い、匙で粥を掬って螢惑の口元に突きつけた。その間合いが絶妙だったらしく、螢惑はパクリと匙を咥え、あれほど頑なに固辞していた食べ物を飲み込んでしまった。
まるで辰伶自身の手から螢惑が食事を取ったように錯覚して、何やら恥ずかしいような気持ちになった。それでいて温かいような、甘いような。螢惑も目を白黒させている。その様子が可愛らしく見えて、辰伶の胸に感動の波紋が広がっていった。
螢惑は観念したようだ。椀を受け取り、大人しく食事を始めた。その様子を、辰伶はうっとりと眺めていた。心がとても温かい。自分が螢惑の世話をしているような気分になった。もうずっと昔から、螢惑にはこんな風に接してみたかったような気がする。
椀が空になった。食事を終えた螢惑は辰伶に(正確には辰伶が目を借りている人物に)向かって、神妙な面持ちで何か言った。内容はやはり解からない。何を話していたのか、螢惑の瞳に危険な光が宿った。その空気に覚えがあるような気がした途端に、肩を掴まれ床に捻じ伏せられていた。
『螢惑!』
咎めるように名を呼んだが、その声は螢惑には届かない。圧し掛かるように押さえつけられ、見下ろされた。この体勢は、辰伶の記憶を刺激した。これはあの時と同じだ。何か囁きながら、螢惑の唇がゆっくりと近づいてくる。圧される雰囲気に、辰伶は夢中で抗った。
バシャンと水を叩く音がした。術が解けて、辰伶は自分の拳が水盤の水に無様な波紋を描いているのを見た。
静謐を乱された水盤は、もう何も映していなかった。きちんとした手順を踏まずに中途で術を終わらせてしまったことが少し気に掛かった。次にこの水盤を使う時に影響するかもしれないが、今更どうすることもできない。何か問題が起きた時に対処するしかあるまい。
水盤の水を新しく張り直し、辰伶は祭殿を出た。時間が経つにつれて、辰伶は段々と面白くない気分になってきた。螢惑の世話をしていた人物に対しての、螢惑の無警戒振りが無性に腹立たしくてならない。螢惑は知らないかもしれないが、辰伶は血を分けた兄弟だ。その自分には頼ってくれないくせに…!
つまりは嫉妬だった。あの警戒心の強い螢惑が大人しく他人に世話を焼かれ、不意打ち気味ではあったが他人の手から食物を受けた。その事が、辰伶を酷く動揺させた。その上、こともあろうに…
カッとなり、辰伶は叫んだ。
「誰でも良かったのかっ!」
鬱屈した想いを吐き出した時、
ヒルルルルルル ・・・ ・・ ・ ・
何処からか聞こえた鳥の声に、辰伶は足を止めた。そこは、螢惑に最後に会いまみえた川岸だった。
あの日、螢惑に会ったのは偶然だったが、辰伶が望んだ邂逅でもあった。壬生の郷から外の世界へと旅立つ異母弟を、密かに見送る心積もりで、その数日間、辰伶は毎日この場所へ通っていた。
螢惑が先代紅の王に叛逆したという報を聞いたとき、辰伶は目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた。全く理解が出来ないことだった。壬生を守るはずの五曜星が、壬生の要である(先代といえども)紅の王に刃を向けるなど、ありえないことだ。驚きの後に湧いたのは怒りの感情。不届き者、恥知らず、気が狂ったかと、目の前にいない人物を散々に罵倒した。そして後悔。螢惑が先代紅の王に謁見できるよう、方々に頼んで取り計らったのは、辰伶自身だったから。螢惑が紅の王に会いたがっていることを知って、その望みを叶えてやりたくなったのだ。それが、こんなことになってしまうとは。
先代紅の王へ戦いを挑んだ螢惑は、返り討ちにあって重傷を負ったと聞いた。馬鹿な奴だと、辰伶は思った。そして、自身の軽率な行為を悔やんだ。彼の望みを叶えてやりなどしなければ、怪我など負わせずに済んだものを。そんな風に思った自分を、辰伶は驚いた。先代紅の王を危険に晒したことよりも、螢惑に怪我を負わせてしまったことに、辰伶は後悔していたのだ。
壬生の為に生き、壬生の為に死ぬことを信条とする彼にとって、いついかなるときも壬生こそが至上であるはずだった。しかし、この期に及び辰伶が何をも措いて考えていたのは、壬生に叛逆を企てた螢惑の身命のことだった。
叛逆は大罪だ。恐らく極刑は免れまい。無明歳刑流が如何に名門を誇る旧家といえども、叛逆者を庇えるだけの力は無く、無力感が辰伶を苛んだ。螢惑だけを死なせはしまいと、ついには自刃をも決意した。螢惑に凶行の機会をみすみす与えてしまった責任をとったという形にしておけば、誰も不審には思うまい。覚悟を決めると不思議に心が澄んで、辰伶は静かに、その時が訪れるのを待っていた。
しかし、結末は辰伶の予想と違った。先代紅の王の温情をもって、螢惑は死罪を免れた。代わりに、鬼目の狂の監視役として外の世界へ赴くよう命ぜられた。見ようによっては追放処分ともとれるが、それでも死罪よりはずっとマシに違いない。ともあれ螢惑の命が繋がったことに、辰伶は深く感謝した。同時に、言いようの無い喪失感を覚えた。螢惑がとうとう自分の手の届かない世界へ行ってしまう。いつかそんな日が来ることを予感していたが、いよいよ現実となってしまうのだ。
旅立つ日を、螢惑は誰にも告げないだろう。あれはそういう漢だ。別れの挨拶もなく、ふらりと行ってしまうに違いない。そう確信した辰伶は、日を空けず、郷の境界に近接するこの地を訪れた。郷を出て行く者は、必ずこの近くを通っていくことになるからだ。辰伶は螢惑を見送った一番最後の者になりたくて、歳刑流の聖域にも近いこの場所で彼の旅の安全を祈った。それは賭けというよりは、自己満足に過ぎない行動だった。
運命は辰伶を味方した。或いは血の絆が呼んだのか。どんな神秘の力が働いたのか、螢惑と直に会うことが出来た。歩いていた本来の道を外れて、辰伶の居る場所まで、螢惑の方から下りて来てくれたのだ。
夢か、幻かと思った。なんて己に都合の良い。行くのかと問うと、螢惑は頷いた。胸が詰まって、それ以上は何も言えなかった。
直後に、螢惑は驚愕の行動に出た。辰伶の腕を掴み、乱暴に押し倒した。着衣が裂かれる音を聞いて、辰伶は漸く状況を理解した。螢惑が自分を犯そうとしている。驚いた。とにかく驚いた。恐怖や嫌悪の感情に辿り着く以前に、驚きの余りに頭が混乱した。
前触れは無かった。過去にこのような行為に繋がるような感情や行動を螢惑が辰伶に見せたことは一度も無かった。そもそも螢惑が辰伶を見る眼差しは好意から程遠いのが常だ。どういう弾みでこんなことになったのか…
なるほど、弾みかもしれないと辰伶は思った。単なる生理現象で、たまたま傍にいた自分が、その処理の対象に選ばれただけのことで、大した理由はないのかもしれない。決して感心できる行動とはいえないが、螢惑とて若いのだし、理性を保てない瞬間もあるのだろう。『魔が差した』というやつだ。
そして辰伶にも『魔が差した』のだ。螢惑の暴挙に驚きながらも、これは利用できると思った。この身を与えることで、彼が手に入るように思えたのだ。こうして螢惑を取り込んでしまえば、彼を壬生の郷に留めておくことが出来る。そんな打算に満ちた手で、彼の背を抱き返した。
それが如何に馬鹿げた考えであったか、今なら辰伶にも解かる。螢惑は先代紅の王の命令で郷を出て行くのだから、例え何らかの未練があったとしても留まることは許されない。彼の感情だけでどうこうできる問題ではないのだ。それ以前に、螢惑を引き留めておけるだけの価値が、果たして己の体にあったものか。冷静になってしまうと、走り出したくなるくらいに恥ずかしい。
螢惑は縛られるのが嫌いな漢だ。辰伶が繋ぎとめようとしたのを、雲のように自由なあの漢は鋭く察知して、不愉快になったのだろうか。それとも、あんな打算的な思いで抱かれようとしたことに嫌悪したのか。それまで力尽くで暴こうとしていた辰伶の体を、螢惑は乱暴に突き放した。押し倒したときと同様に、それもまた唐突だった。
本当に、何もかも思い通りに事が運ばない。
螢惑の叛逆に責任を感じて自刃を決意した時もそうだ。本当なら、あの時に(死を以って)螢惑を独占できたはずだった。しかし実際に螢惑に下されたのは死罪ではなく壬生の外へ追放処分。これで文字通り死んでも手に入れることはできなくなった。悲壮な決意を胸に粛々としていた身としては、聊か拍子抜けしないでもなかったが、フライングで腹を掻っ捌いていたかもしれないのだから、状況としては笑うに笑えない。
つまりは悪足掻きだったのだ。決して手に入らぬものを、それでも欲してしまった罪。螢惑を自分の傍に留めておきたくて、それを叶える有効な手段が辰伶には解からなくて、チャンスも残されていなくて、もう形振り構わず身を投げ出した。その結果がこの様である。螢惑に逃げられた上に、軽蔑されたかもしれない。
どうにも喜劇じみている。やはり、慣れないことはするものではなかったのだ。
「だが、先に手を出して来たのは貴様の方だろう。俺の反応が拙くて気が萎えたのなら謝るが、だからと言って即行で別の相手を見つけて押し倒すか?この色魔!節操無し!浮気者!服だって、貴様が遠慮なく破ってくれたお陰で、屋敷に戻るまで誤魔化すのに苦労したんだぞ。ああっ、もうっ、こんなことなら閨房の手管の1つや2つ会得しておくのだった!」
辰伶の思考は暴走を始め、際限なく加速していった。自分が何を口走っていたか、後になって思い出さなかったのは、彼にとって幸いだった。
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